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水の元素魔術は液体の創生と操作を主とする。
操作の中には浄化や脱水のようなものも含まれ、出来ることの幅は相当に広い。
治癒法術の真似事も四大の中では水属性が最も得意とする分野である。
特に自己治癒を加速させる術式は長く研究が続き、神官ですら習得して使い分けるケースがある程である。
何しろ治癒法術特有である寿命の最大値を縮めるという副作用が無いせいで、軽い怪我や病気に対してはより安全な施術が可能なのだ。
この通り四大の中でも応用力が高く、作用させる力の大きさ、速度、範囲のバランスが取れているが、同時にそれが水属性の弱点にもなっていた。
すなわち、器用貧乏。
火はある意味独自路線のため比べるのは難しいが、劇的な変化を生み出す力と破壊力に優れる。
剛性と物体を移動させる力では地属性、効果範囲と速度は風属性が優れている。
水が他に純粋に勝るといえるのは、バランスの他は操作の精密性くらいである。
また、他に比べて術式の溜めに該当する、創生の工程に時間がかかりがちなのだ。
風は勿論、地も人間が地面に立っているなら身近な存在である。例えば土や砂を固めて岩にする事は地の元素魔術なら一瞬で済む。態々地の元素から集める必要がない。
同じ体積で見たとき、水の元素が必要量を集めるのに最も時間を要する。
常に水辺に居でもしない限りは。
だが【フェルガーユの泉】は、この創生の速度の問題を一手に解決する。
持っているだけで水面に立っているも同然なのだ。
故に創生ではなく召喚。
はっきり言って、水の元素魔術士なら誰もが喉から手が出る程欲しがる魔道具だ。
加えて、水不足に怯える全ての人間も。
「……武装開拓者になるの、反対されませんでした?」
「そうでもないですよ。そもそも社会が一個人の能力に頼るのは不健全ですし」
一度ライネが言葉を切る。
「それに、もしただの水瓶になれって言うならグランドクロスに行ってやりますって組合の受付に言ったら、それ以来何も言われなくなりました」
グランドクロス。
ドゥーロンを含むナルガルズ雷帝国、その首都であり、巨大な砂漠と隣接する世界屈指の大都市である。
巨大な地下水路のおかげで都民の生活は成り立っているが、それでも水資源が豊富とは言い難い。ライネがいれば引く手数多なのは間違いないだろう。
行ったら間違いなく帰ってこれない。しかもまず間違いなく、ドゥーロンに得は無い。
なら出来る限りは居てもらう代わりに好きにさせようという事か。
――出発前のあれも、そういう事か。
ザインは組合事務所の受付に出立を告げに言った際に、ライネと別々に個室へと呼び出された。
ライネの方は、青銅斧であり経歴的に訳ありのザインと組む上での注意事項をマクスから申し伝えられた、と後から聞いた。
ザインも似たようなものだと応えたが、実情は大分異なっている。
釘を刺された、というのが一番正しいだろう。
個室でザインを迎えてファウナと名乗った女性は、ライネ専属の担当官だと自分の立場を説明した。
そして、ライネが今ドゥーロンで最も注目と期待を集める武装開拓者の一人であること、白銀斧の開拓者に担当官が着くことがどれだけ異例であるかを滔々と、しかし冷静な口調でザインに説明してくれた。
その上で、ライネの安全に全力を尽くす事、ライネと意見の相違などで対立した場合はその時点で依頼を中断して帰還する事をも求められたのだ。
ただし要請はあくまで組合側の希望であり、強制力は無いという。
ファウナのザインを見る目の険しさを見るに、本心でない事は明白だったが。
出来ることなら、もっと相応しい人間と組ませたいという意図が匂い立っていた。先だって別れたパーティは、おそらく彼女が斡旋したものだったのだろう。
ファウナ自身の立場や出世など、色々と生臭い背景がある事はなんとなく察せられる。
とはいえザインにも、ライネの潜在的な価値が想像出来ない訳では無い。
――確かに、開拓限界を延長できそうな人材なんだよな、ライネさんは。
ドゥーロンによる森の開拓作業は今も続いている。
現在その最前線は北の伐採場からさらに森の中に入った場所にある前線基地だったはずである。
そこは黄金以上の開拓者だけが滞在を許されている。得られる名声と報酬を鑑みればドゥーロンに滞在する多くの開拓者に取っての一つの理想郷、目標地点だ。
だが、既に到達した者達に取ってはもはや通過点に過ぎない。
特に白金に到達した武装開拓者の半数以上は、次の前線基地に相応しい場所を探して日々森の深部を探索し続けているという。
前線基地にはどうあっても水源が必須だ。
だがライネさえ居れば、一つ地理的に大きな問題が解決する。
別に常駐する必要も無い。貯水池を作ってそこに定期的に水を満たしてくれればいいのだから。
――いいのかな、こんな人白銀に留めておいて。
一瞬ザインの脳裏にそんな言葉が浮かぶが、すぐに反論が浮かび上がる。
――功績無しの昇格みたいな特例措置、素直に受ける人じゃないな。
組織の意向でごり押しすれば、ライネは本当に躊躇わずグランドクロスに向かうだろう。
随分と仲の良さそうなリザの存在が足枷になるかとも思ったが、あの意志の強さを思えば無理な気がした。
むしろ足場を固め次第、グランドクロスに呼ぶ可能性すらある。
無論リザも折角構えた自分の城をそうそう手放しはしそうにないが、それすら必要とあらば丸め込みそうな迫力が、ライネにはある。
ドゥーロンの開拓者組合としては、どうにか彼女に気分よく開拓者を続けてもらい、順当かつ最短で実績を積んでもらいたいのだろう。
そしてあわよくば黄金斧まで駆け上ってもらい、前線基地に迎えたいはずだ。
ただし無理強いは出来ない。相手は魔術士、小さな王である。強制は難しい。
魔術士相手にあまり強引な事をすると、精神の均衡を崩して魔力を制御できなくなるケースも存在する。そうなっては元も子もない。
特に【フェルガーユの泉】は今現在、どうやらライネにしか扱えないらしい。
――中々複雑な立場の人間と関わり合いになったもんだ。
そう思うと何故か不思議と小さな笑みの衝動がこみ上げてくるザインであった。
密かに笑みをかみ殺していたザインを我に返らせたのは、そうとは一向に知らぬライネのふとした呟きだった。
「……ザインさん。なんか、匂いませんか?」
「確かに……これは」
そう言われてザインも甘ったるさの混じった悪臭が漂ってきた事に気付く。
一般的な獣臭さとは違う。より腐敗臭に近い。
生ゴミのそれを遙かに強烈にしたような匂いが、辺りの空気に混ざり始めていた。
「ちょっと、これは、たまりませんね……!」
ライネが杖を掲げると、薄青い輝きがその全身を周辺の空間ごとうっすらと覆った。
水操作で作った薄い水の膜だ。先だって火傷したザインの手に被せたものに近い。
空気を完全に遮断するのではなく、一度水を通すことで匂いの成分だけを吸着して通さないようにしているのだろう。ライネが明らかに楽になった様子で深呼吸する。
「ふぅ……あ、私だけすいません。今ザインさんにも掛けますね」
「いえ、俺はまだいいです。それより先に、この異臭の元を確かめないと」
「長爪竜の死骸が何処かで腐ってるとかじゃないんでしょうか」
「いえ、そうだとしてもここまでは匂わないはず……それになんというか……甘過ぎる」
匂いには単純な腐臭の甘苦さだけではない、花の蜜のような純粋に甘い香りも混ざっている。
ただし悪臭をましにするものではなく、混ざったせいでますます人には耐え難い臭気へと変じているのだが。
「ここからはもう少し奥の方ですね……念のため、少し離れてついてきてください。あと、まだ長爪竜が遺っているかもしれないので、周囲にも気をつけて」
「分かってます。念のため、警戒用の結界を張りますね。匂いが消えない程度を狙いますが、追うのに支障があれば言ってください。調整します」
その言葉と共に、空気が急に湿り気を帯びたのがザインの肌でも感じられた。
自分を中心として薄い霧のようなものを一定範囲にばらまいたのである。
範囲内で動くものがあればすぐにライネに伝わる仕組みだ。操作の応用、反作用による探知用の術式である。
「……大丈夫。追えます」
空気中に混ざった水分が若干匂いを吸い込んだようだが、元が強すぎた。
むしろ嗅覚が麻痺するのを、若干防いでくれて都合がいいまである。
――さすが水の元素魔術。出来る事の幅が広いなぁ。
この手の結界は風が最も得意とするが、多分探知精度に関しては水の方が上だろう。
火属性でやると探知範囲がずっと狭くなる上に結界の存在がばれやすく、地属性では似たような効果の再現自体が極めて高度な術式になる。
ザインにとって、もはやライネの魔術に感心するのは当たり前になってしまったようだった。
二人は木々の密度がぐっと増す領域の少しだけ外側、森の縁を進んでいった。
右手に少し進めば森に入り、左手には草原が拡がっている。
下草が腰の高さまで伸びているので、ザインが右の爪剣で刈り取りながら進む。
元々が鎌に近い湾曲した形なので、非常に良く切れる。
草を刈るのは視界の確保と、ライネの魔術にかかる負荷を減らすためだ。
水の膜も霧の結界も強度の高い術式ではない。障害物が多いと術式の張り直しになる。
ライネからすれば大した負担にはならないかもしれないが、実際のところはザインに分からない以上、出来るフォローはしておきたかった。当たり前の気遣いの範囲として。
だが、ライネにはあっさり意図がばれた上で見過ごされもしなかった。
「ありがとうございます」
「……いえ、お気になさらず」
礼を言われる予定がなかったため、ザインの方がなんだか申し訳ない気分になる。
恩を着せたかった訳では無い、と弁明するのもおかしいので何も言えない。
しばし一方的にザインだけ気まずい沈黙が満ちる。
ただ、おかげで臭いの追跡に集中できた。
目の前の藪を切り払った瞬間に強まった臭気に、足を止めて後のライネにも手を挙げて静止する。
臭気の元は、やや右側、森の方から漂ってくるようだった。
「右前方、五歩くらいの距離……何か動いてます。少しずつ、移動してる……?」
ライネの探知結界が予想を裏付けてくれる。
ザインは慎重に草を払い、臭いの元凶を視認した。
木々の根元に無造作に転がるそれは、見た目には一抱えはある赤みがかった、歪で巨大な泥団子にしか見えない。
ただ表面には細かい凹凸があり、良く見れば今もふつふつと泡立っているのが分かる。
不意に泥団子の表面がぼこりと波打った。
身構えるザインの前で、泥団子は脈打つように伸縮し、やがて一箇所が大きく膨らんで破れる。
ぼしゅうという排気音と共に悪臭が一層強まる。
破れた瞬間、すぐに溶けるように塞がっていく大穴の中で、何かが泳ぐように蠢いていたのをザインの目が捕らえた。
思わず口元を押さえて呻く。
「餓鬼玉か……!」
「餓鬼玉、これが……初めて見ました……」
ライネが驚きの声を上げる。
餓鬼玉。あるいはゴブリンボール。
ただ実際には餓鬼――小人のような貪欲な異賊はこの泥団子とは関係ない。
むしろ連中は被害者だ。
餓鬼玉の正体は粘塊蟲と呼ばれる芋虫型の魔獣の移動群体だ。
粘塊蟲は雑食だが肉食を好み、孵化直後母体を食い荒らし、喰い滓と土、そして自らの糞を混合して発酵させ、食料兼移動用の乗り物となる巣を作り出す。
この巣は肉食や腐肉食の魔獣を引きつける悪臭を発生させ、次の餌を呼び寄せるのだ。
餓鬼にも腐肉食性があるため、餓鬼玉に誘因される生物の一種である。
その結果、小さな群れが丸ごと粘塊蟲の餌と巣の材料にされるケースがある。
餓鬼の面影を残す断片で作られた巨大な肉団子が発見された時、発見者は嘔吐と共に餓鬼玉という言葉を生み出したと言われている。
餓鬼玉は獰猛かつ貪欲な食欲を持つ粘塊蟲自体の危険性もさる事ながら、より危険な魔獣を引き寄せることが問題視される。サイズが大きく臭気の強さもあって誘因力は地小金の比ではない。
「これは……もっと森の奥で出るものだったと記憶してるんですが……」
「はい、日光や乾燥を嫌うので、森の外に出てくる事は滅多に無いのですが……多分長爪竜の群れのせいです」
長爪竜も腐肉食性を持つのだ。食いかけの獲物を放置して、腐敗に任せながら時間をかけて食らう事もある。
おそらく今回は、粘塊蟲が長爪竜の食い残しの臭いに引き寄せられたのだろう、とザインは推測した。
「ですが、群れとは多分行き違いになったのでしょう。長爪竜を喰ってたら、多分もっと育ってます」
魔獣は基本的に、どれも生きている限り成長する。粘塊蟲も例外ではない。
実際餓鬼の群れを食らった餓鬼玉の大きさは小さな馬車に匹敵する代物だったという。
「……何にしろ、放置はできませんね」