10
小綺麗な格好の若い女性が、席から立ち上がって深くお辞儀をしてきた。
誘われるようにザインがお辞儀を返すと、女性は光輝く笑顔で名乗る。
「ライネ=フリッガと申します」
聞いた事の無い名前に首を捻っている間もなく、聞き覚えしか無い名前を呼ばれる。
「ザイン=ブルードさんでいらっしゃいますか?」
「はい。そうですが」
――どういう状況だろう、これは。
内心で首を傾げつつ、今この時に至る過程が走馬灯のように頭を駆け巡る。
「おい、ザイン。お客さんだ」
そうマクスから声がかかったのは、立て続けに請けていた地小金の採取依頼、その三日目を追えた後だった。
まだ日は高い。
日が傾く前に帰ってきたのは、ドゥーロンの里周辺の地小金が粗方取り尽くされたからである。
今後は北の森の周辺部が採取地になるだろう。
そして浅くとも森に入る以上、単独で請けられる依頼は無くなる。
四日前の長爪竜以来、大型の魔獣が森から出てくる事態は発生していない。
トッドの白銀斧昇格は討伐したその日の内に辞令が出た。
青銅から白銀への昇格は割と頻繁に発生するため、月に一度の定期審査を待つ必要が無い。
翌日には新たな免許証が配布され、マクスによればすでに森を探索する青銅のパーティの一つに助っ人として参加しているらしい。
結局ザインはすれ違ったままで、何のお祝いの言葉もかけれなかった。
そのことが、少し残念ではある。
三日間の採取依頼は何事も無く終わった。
おかげでザインとしても武器を壊して借金を背負うような事も無く、十日分程度の生活費を稼ぐ事が出来た。
ただ、本来は採取した地小金を処分して追加報酬に出来るはずなのだが、そちらは目論見が外れた形になっている。
地小金の空前の大発生のせいで、すっかり市場が飽和しており、買い取り価格の底が抜けてしまったのだ。
売り捌いてもほとんど捨てるような値段にしかならないため、結局ザインの下宿には小さな革袋で十袋をゆうに越える地小金が溜め込まれている。
有り難い事に、虫の甲殻そのものは日持ちが相当するので、需要がもう少し戻るまで保管するつもりだった。
――帰ったら一度ざるに空けて干さないと。虫に虫が湧くような事になったらたまらない。
下宿を叩き出される危機を想像して背中を震わせていたザインは、しかし報告だけ軽く済ませようとしたところをマクスに捕まる事になる。
「お客さん? 俺にですか」
首を傾げるザイン。
余裕の無い暮らしをしているが、借金は無い。
仕事も小さいものばかりなので、良くも悪くも目を付けられるような功績も無い。
正確には、無い、とされている。
目の前のマクスが、いらぬ話を漏らさなければ。
思わず半眼で目の前の受付を見詰めるが、それに対して受付は何処吹く風と、憎らしいほど落ち着き払っていた。
「向こうの窓際のテーブルだ。なに、変な話じゃなさそうだから安心しろ」
顎をしゃくって見せた後、マクスは腕を組んで笑ってみせる。
その姿に、後ろめたい様子は無い。
「今日は仕事だと教えたら、戻るまで待つってよ。健気な話だろう」
「はぁ……」
その言葉に早く戻れて良かったと思いつつ、うっすらと薄曇りの空のような灰色の罪悪感が胸に湧く。
ザインに非は無い。
無いのだが、有るような気になってしまう。
気が弱いだけかもしれないが、ザインには判断がつかなかった。
つけたくなかったとも言う。
ここで無理に弱気を払うと、大事なものまで手放してしまうような気がして怖いのだ。
西向きの窓辺に座っている人物は一人だけしかいなかった。
若い女性、に見える。
近づいていくと、思っていた以上に若かった。
少女の域を越えたか越えてないか曖昧な、女性としてまだ間にある年頃。
服装は紺色のローブに、藍色の薄手のケープを羽織っている。
胴を締める黒革のコルセットは、恐らくは防具であると同時に動きやすさを確保するためのもの。
「あ」
ザインの接近に気付いて、女性が振り向いた。
首元まで伸びた髪がふわりと浮き上がって、ふわりと落ちる。
一見黒く見えた髪が、夕陽に照らされた場所だけ深い紫の艶を浮かべる。
黒と見紛うほどに深い、青の髪。
こちらを見上げる大きな目にも、深い水辺を思わせる群青色が湛えられていた。
ザインの赤茶けた髪と焼き煉瓦色の目とは、ある意味真逆。
奇妙な縁があるものだとぼんやり思った時には、女性は椅子から立ち上がってザインに向き直り、その場で深々とお辞儀をして見せた。
思わず反射的にお辞儀を返すザインに、女性はにっこりと笑って名乗る。
「ライネ=フリッガと申します」
こうして、回想は現在に追いつき、重なった。
「ええと、まずはお掛けください」
「はい。失礼します」
四人がけのテーブルに、向き合う形に二人は座る。
相手がやや身を乗り出しているせいで、思ったよりも顔の距離が近くて、ザインは落ち着かない。
――対角線に座るべきだったか?
一瞬そんな事を思うが、それはそれで話を拒否する姿勢に思えて、無理だと心の中で呻いた。
仕方ないのでせめてもの遮蔽物に顔の前で手を組んで、背筋を伸ばす。
居丈高に見えるかもしれないという不安を押し殺しつつ、ザインから話を切り出した。
「俺を名指しという事ですけど」
「はい」
「俺の方には、正直心当たりがないのですが……どのようなご用件でしょうか」
ザインの硬い口調に物怖じする様子も見せずに、女性……ライネはごく自然に背筋を伸ばし、表情を真剣なものに変えた。
硬すぎず、かと言って柔らかくも無い感触に、空気が変わった気がした。
――話慣れ、あるいは交渉慣れしている。
そう感じたのは、おそらくザインがどちらにも慣れていなかったせいかもしれない。
だが、次に出てきた言葉で思考の全てが吹き飛ぶ。
「長爪竜の、討伐の件です」
「ぶっ」
思わずザインは噴き出して、カウンターを振り返った。
マクスはと言えば素知らぬ顔で皿を拭いている。
間違いなくただのポーズだった。
話の出元がマクスである事を確信して、とっさにザインは悲壮な覚悟を決める。
――話によっては、ドゥーロンを出なくてはならないかもしれない。