60_名誉薬師の解析書
ぜえぜえと息を切らし、汗だくになりながら駆け込んできたダニエル。彼の姿を見て、手紙を読んですぐに家を飛び出してきたのだと理解した。急いでいたせいか、動揺していたせいか、ワイシャツのボタンをかけ違えている。
ダニエルのあとからメイドたちも客間に入ってきたが、ウェスタレアは手をかざして、何もしなくていいと目で伝えた。彼は客間の中を見渡し、娘の姿を視界に捉え、唖然とした。痩せ衰え、全身の皮膚がただれている。
ダニエルは抱えていた桃を転がり落とす。だが彼は娘に一目散に駆け寄り、がばっと掻き抱いた。
「あぁ……レミリナちゃん」
「パパ……」
「すまん、すまんかったな……」
「ちょっと、息苦しいよ」
強く抱き締められたレミリナはけほけほと咳き込み、ダニエルは慌てて腕を離した。彼は、涙を滲ませながら、レミリナの頬に両手を添えて、確かめるように撫でる。レミリナもまた、数年越しの父との再会に瞳を濡らしていた。
「レミリナちゃん、その肌は……」
「うん。染色工場で働いているうちに、こんな風になっちゃったの。エリザベートピンクの毒。私より前に働いてた子たちはもっとひどくて、もしかしたら死んじゃったのかも。私には分からなかったけど、パパなら何の毒かわかる?」
「エリザベートピンク……」
はっと息を飲み、押し黙るダニエルだったが、ウェスタレアが代わりに答える。
「アギサクラギの花弁から抽出したものが、エリザベートピンクの染料に使われているの。あの花弁は媒染薬を使わなくて済むし、熱に弱いから、染料にするのに使い勝手が良い。それに……他では取れないとても鮮やかなオレンジ色をしているから」
「でもあの種子は、猛毒で数々の暗殺に使われてるんだよね。口にすれば最後、悶絶するような苦しみの末に凄惨な死を遂げるとか……」
「よく知っているわね。のたうち回るくらいに苦しかったわ」
「……?」
まさか、目の前にアギサクラギの種子を飲み、生きながらえた女がいるとは知らないレミレナは、不思議そうに首を傾げた。
ウェスタレアはダニエルに説明する。レミリナは誘拐されたあと旧ランチェスター侯爵領にあるエリザベートピンクの染色工場で強制労働させられ、中毒になっていたということ。工場には同じような境遇の少女たちが複数いたということ。
「無体な……」
「パパ……私の肌は、もう元に戻らないのかな?」
「ううん。必ず私が治してみせるよ。何、心配することはないからね」
「……うん。ああそうだ、レミリナちゃんにこれを」
ダニエルはおもむろに、持ってきた桃を彼女のただれた手のひらに握らせる。
「レミリナちゃんの木は、今年も豊作だよ」
「そっかぁ。パパが世話をしてくれたおかげだね。ありがとう」
本当はそれがわざわざ買ってきたものだと知っていながら、レミリナは嬉しそうに顔を綻ばせて、桃の香りを嗅いでいた。
(こういうのが、家族の愛情……なのかしら)
ウェスタレアは両親との関係はずっと希薄で、処刑されたのを機に絶縁状態となった。だから、父親の愛情というものをよく知らない。ふたりの様子を見ながら、心の片隅でどこか羨ましく思った。
するとダニエルが、テーブルの上に積み重なったキャンパスに気づく。そこには、ウェスタレアが写実的に描いた、ありのままの少女たちのむごい姿があった。その一番上には、レミリナの姿も。
「ウェスタレアちゃん。娘の絵なんて描いて……それをどうする気だい?」
「エリザベートピンクの被害を多くの人に知ってもらうための資料にするの」
「だめだ。娘をそんな、晒し者にするような真似はしたくない。レミリナちゃんの症例は絵にしないでくれ」
少女たちからはすでに、了承を得ている。そして、レミリナからも。ウェスタレアはエリザベートや少女たち以外にも、中毒症状を抱える人を見つけてきては、症例の絵をひたすら描き続けている。
レミリナはゆっくりと首を横に振って、父をたしなめるように言った。
「私ならいいよ。もし、私みたいにエリザベートピンクの中毒症状が出ていて、原因が分からずに苦しんでいる人がいたら、可哀想だから。私で役に立つなら、協力したいの」
「レミリナちゃん……。君がいいなら、私も反対はしないよ。でも、本当にそれでいいのかい?」
「うん。だからお願いパパ」
レミリナは探るように手を伸ばして、ダニエルの袖を摘んだ。そして、見えない目で懇願するように彼を見上げる。
「……ウェスタレア様に、協力してあげて。エリザベートピンクの真実を世に広めようとしてるんだって。だから、パパの名前で毒の解析書が欲しいの。きっと、必要なものだから……」
するとダニエルは、いぶかしげにこちらを振り向く。
「一応言っておきますが、私が無理矢理言わせたわけではないですからね」
解析書が欲しいということさえ、レミリナに話していない。聡い娘からの懇願に、しばらくの逡巡の末、ダニエルは肩を竦めた。そして覚悟を決めたように言う。
「ああ、分かったよ。そういう約束だからね。名誉薬師ダニエル・ロッシが依頼を受け行った――エリザベートピンクの毒の解析書。これを君に預けよう。それをどう扱ってくれても構わない。私や娘が権力によって潰されないように、守ってほしいものだがね」
彼は懐から一枚の封筒を取り出してこちらに差し出した。ペイジュが用意したペーパーナイフでそっと封を切り、中身を確認すれば、エリザベートピンクの毒の解析書が入っていた。
ウェスタレアは解析書を握り締め、ダニエルとレミリナに頭を下げる。
「お二人の協力に、心から感謝を。ティベリオは決してあなたたちに手出しできないわ。――彼はもうすぐ、この社会から消えていく存在だもの」
ウェスタレアがゆっくりと口角を持ち上げると、ダニエルはその表情の凄みに圧倒されるのだった。




