54_私の親愛なる騎士
「――ジュ、ペイジュ」
ペイジュを連れて皇国騎士団に向かうウェスタレア。
彼女の怪我はかなり回復してきており、二週間ですっかり歩けるようになった。驚異の回復力だが、目だけは炎症を起こしており、眼帯をつけている。痒くても擦るなと再三言ったのに、彼女が言うことを聞かなかったせいで菌が入ったのだ。視力には影響がなかったので、とにもかくにも早く腫れが引くといいのだが。
馬車にふたりで揺られる中で、ペイジュは物思いに耽っているのか、呼びかけても難しい顔をするだけで反応が返ってこない。
「ちょっとペイジュ、聞いてるの?」
「へっ……すみません。考え事をしていて。主がこっそり料理教室に通い始めたのを皇太子殿下に言うなっていう話でしたっけ?」
「…………」
肩を揺すって、ようやく現実に意識を引き戻されたようにはっと我に帰ったペイジュ。
料理教室の話なんて全くしていないし――というかいつの間にペイジュはウェスタレアが料理教室に通い出したことに気づいたのだろうか。
実は最近、料理を上達させてレオナルドやペイジュをぎゃふんと言わせるために、庶民のふりをして教室に通い始めたのだが、一日目に食材を炭に変え、二日目に先生の髪を焦がし、三日目にフライパンを壊して、とうとう出禁になってしまった。
「…………れたから」
「はい? なんですか?」
「強制退会させられたのよ! その料理教室を!」
ウェスタレアはかあっと顔を赤くさせてから、両手で顔を覆った。
「どうして毎度毎度うまくいかないのよ……。私は料理の女神に見放されているのかしら。――でも絶対に、諦めないわ」
むっと頬を膨らませ、腕掛けに頬杖を突きながら窓の外へと視線を移せば、ペイジュが小刻みに肩を揺らし始めた。
「ふっ……ははっ、あはははっ。ああ、おかしい……。強制退会って……っ。涙出てきた」
しまいには大口を開けて笑い出し、目に溜まった涙を指先で拭うなどしている。
「――やっと笑ったわね」
「え……?」
「さっきからずっと、とても怖い顔をしていたから」
彼女は決まり悪そうに目を伏せる。
「ありがとうございます、主。主と話していると、悩んでいることもばかばかしく思えてきますよ」
「それは私の悩みが取るに足らない馬鹿馬鹿しいことだと言いたいのかしら?」
足を組み、前のめりになりながら人差し指を突き立てると、彼女は首を横に振った。
「違いますよ。ただ、あなたに出会えてよかったと改めて思っただけです」
「……! 何を、急に……」
いつも生意気を言う彼女が珍しく素直になるので、調子が狂う。だが、満更でもないウェスタレアは、座椅子に座り直し、ほのかに頬を染めながら目を逸らした。
(……それは、私のセリフよ)
何もかもを失い、心も身体もずたぼろだったひとりぼっちの娘だったウェスタレアにとって、ペイジュが一緒に付いてきてくれて、どれだけ心強かったか計り知れない。
窓の外に、皇都の華やかな街並みが広がる。馬の蹄が石畳を蹴る音がひっきりなしに耳を掠めた。
「もう少しで皇国騎士団の本部へ着くわ。あなたのお父様のことをよく知っている人たちがいるはずよ」
「……」
ペイジュは膝の上で拳をぎゅっと片握り締める。
今日の目的は、ガスパロ・ランチェスターの汚職事件について聞き取り調査をすること。
ペイジュに話を聞いても、『冤罪だった』、『ティベリオが仕組んだことだった』と言うばかりで、あまり事件の詳細が把握できていない。
彼の潔白を証明するために、ウェスタレアが自ら調べてみることにしたのである。もし、ガスパロの汚職事件に、エリザベートピンクが関わっていたなら、ティベリオに対抗していくための手札のひとつになるかもしれない。
「あなたのお父様の無念、私とあなたで必ずや晴らしてみせましょう」
「そんなことが……できるんでしょうか」
「できるできないではないの。やるのよ」
ウェストレアはいつだってそうして、未来を切り開いてきた。
どんなに無謀なことだって、やってやると言う固い覚悟があれば、成し遂げられると信じているから。
ペイジュは瞳の奥を揺らしながら、小さく肩を竦めた。これまで弱音をほとんど吐かなかった彼女が、本音を吐露する。
「ずっと後悔しています。……私が全部悪くて、何もかも間違っていたんだって。両親から離れなければ、私が傍にいさえすれば、こんな結末にはならなかったかも。私は、借金返済を口実にしただけで、本当は、弱ってしまった父さんや、病人の母さんから目を背けたかったんだと思います。両親のために奴隷になったんじゃない。私はただ、逃げただけで……」
「それは違うわ、ペイジュ」
「え……?」
「私たちはね、その時々でたったひとつの選択肢しか選べないの。あなたは悩んで悩んで、ただそのときの自分ができる――最善の選択をしただけ。もっと言えば……それしか選べなかったのよ。その結果がどんなに納得のいかないものであっても、あなたが間違っていた訳ではないわ。人間なんだもの。目を背けたって、逃げたっていいじゃない。それが間違ってたなんて、私は絶対思わない……!」
ウェスタレアの目にじわりと涙が滲む。
だって、彼女はずっと、あの暗い地下牢で戦ってきたのたから。一体この世界で誰が、彼女を責められるだろうか。そんな人がいたらウェスタレアが殴り飛ばしてやる。
選択の積み重ねで日常というものはできており、思い通りの結果にならないことばかりだ。それでも、何が正解かは誰にも分からないし、そのときの自分の心に寄り添った選択をするしかないのだと思う。
どうせ起きてしまったことは変えられないのだから、後悔や悲しみは手放して、心軽やかに生きていけないものだろうか。
「私はね、今のペイジュが好きよ。大好き。今のあなたの血肉になっているここまでの勇気ある選択や、歩んできた道を、私はどれひとつとして否定しないわ。全て必要なものだったって……そう思うから」
「…………!」
そのとき、ペイジュの瞳から涙が溢れ、眼帯に滲む。ウェスタレアも泣いている。ふたりはどちらからともなく抱き合った。
「……今、ティベリオのことを思い出していたんです。私と私の大事な家族を陥れたくせに、奴はのうのうとと生きている。それがたまらなく憎くて……。寝ても覚めても、殺してやりたくて仕方がないんです。この行き場のない怒りをどうしたら……いいんですかね」
先ほどまでペイジュはひどく怖い顔をしていたが、ティベリオのことを考えていたようだ。
ウェスタレアもかつて、家族には早々に見捨てられて、離宮に閉じ込められて若い時間を孤独とともに過ごし、親友に裏切られて毒杯を賜り、守ろうと思っていた民衆から罵声を浴びさせられ、失意のどん底にいた。けれど家族を死に追いやられた彼女の苦しみだって、計り知れないもので。
「その気持ちは……分かるわ。私もそうだった。でも、私たちがどんなに恨んだって、相手は私たちのことなんてちっとも考えずに、ただ楽しく生きているのよ。そう思うとね、憎い相手のために貴重な時間を使ってやるのは馬鹿らしくなったわ」
「本当に……その通りかもしれません」
怒っていても、嘆いていても、現実は変わらない。だからといって、悩むことを止められるほど人間が単純でないことは、散々葛藤して苦しんできたウェスタレアはよく知っている。しかし、ほんの少しでも、その苦しみを取り除いて、楽にしてやりたい。
「だから、あなたはただ、自分のやるべきことに目を向けていたらいい。あなたの本当にやりたいことは何?」
「大国の未来の皇妃――ウェスタレア・ルジェーン様の唯一の騎士として、忠義を尽くすことです」
ウェスタレアは優美に微笑みかける。
「そうよ。後悔や憎しみに囚われるくらいなら、今は私のために生きていたらいい。私があなたの心が少しでも軽くなるように、何度だって笑わせてみせるから」
おもむろに彼女の両頬を包み込むと、彼女は泣き笑いを浮かべながら頷くのだった。




