52_ペイジュの過去(1)
ペイジュ・ランチェスターは、歴史ある騎士家系に生まれたひとり娘だった。ランチェスター侯爵家は、皇都から離れた場所に、自然豊かで広大な領地を与えられていた。
父ガスパロは、正義感が強く実直で、剣の腕は良いが賢くはなかった。母は穏やかで慈愛があり、領民からも好かれていたと思う。ペイジュは完全に、父の遺伝子の影響を強く受けている。
ガスパロはとにかく、武芸一筋の男で、皇国騎士団の副団長を務め、戦が起こると前線に出ては武勲を上げ、数々の勲章と褒美を下賜された。
ペイジュもそんな父に憧れて、いつか騎士になりたいと思っていた。女騎士なんていうのはかなり稀だが、天才と謳われるガスパロの血を引く自分の実力があれば、やっていけるだろうという自信はあった。そして自分は、父のように戦場で血を流すのではなく――気高い皇族を警護する近衛騎士に憧れていた。
しかし、平和だったランチェスター侯爵家は、母が倒れたのを機に転落していく。
「今朝の母さんの具合はどうだった?」
皇都のタウンハウス。それまで家族三人、欠かすことなく一緒に食事を摂っていたが、母が床に伏せって、起き上がれなくなってからは、ペイジュと父のふたりで食べるようになった。
よく世間では、夫婦のうち夫が先に死んでも妻は案外強く生きていけるが、その逆に妻が先立つパターンだと、夫は何もできなくなると言ったりする。まさにこの家もその通りで、母が患ってから、ガスパロはいつもそわそわして落ち着きがなく、心ここにあらずな感じになってしまった。父が頼りにならないと分かり、家のことはペイジュが支えている。
ペイジュは難しい表情で、首を横に振る。
「良くなかったよ。湿疹も少し前より広がっているし、食べてもすぐに吐いてしまって、まともに栄養を取れていないんだ」
「そうか。少しでも食べさせるようにしてくれ。食べられそうなものはなんでも用意するから」
「ああ、分かってる」
少し前まで賑やかだった食卓は、陰鬱とした雰囲気が漂っている。そもそも、ペイジュもガスパロも、場を積極的に賑やかしに行くようなタイプではない。食卓でいつも楽しそうに微笑み、花を添えてくれるのは母だった。
もうすぐ皇国騎士団の入団試験を控えているペイジュだが、鍛錬はそこそこに、母の看病にあたっていた。使用人たちに任せることもできるが、自分が傍にいてやりたかったのだ。
「それからペイジュ。母さんの部屋を移動させるぞ」
「どうして? この屋敷では、あそこが一番日当たり良いのに」
「どうしてもだ。俺の言う通りにしろ」
「……分かったよ。日当たりが悪くなって母さんの背中からカビとかきのこが生えても知らないけどね!」
父は基本的に、いつも言葉が足りない。まともに説明もなく言う通りにしろと言われるのは不本意だったが、彼はこの家の家主。嫌味を言いつつしぶしぶ従うことにし、母の寝室を移動させた。
すると、母の体調は少しばかりマシになった。
このときペイジュは、部屋を変えたタイミングと、母の回復は偶然の一致で、なんの関連もないと思っていた。しかし、当時母が療養していた部屋はとても鮮やかな色の壁紙が使われており、それは――エリザベートピンクを巷で呼ばれているものだったと記憶している。そして母の回復が分かったガスパロは、エリザベートピンクの壁紙を全て剥がして処分した。
ようやく母の体調が回復してきたかと思えば、また新たな災難が降りかかる。父、ガスパロ・ランチェスターの汚職事件だ。
「父さんは収賄なんてしないだろ? これは何かの陰謀だ。そうでしょ! 父さん……!」
「全て――レイン公爵のせいだ。俺は濡れ衣を着せられたんだ」
「レイン公爵ってあの筆頭公爵家の? レイン公爵がどうしたって言うんだ!? 私が今からでも殴り込みに――」
ペイジュが大声でまくし立てると、彼は眉間をぐっと指で押して、忌々しそうに答えた。
「悪いがひとりにさせてくれ。今は……誰とも話したくない」
「父さん!」
汚職事件で、父はすっかり憔悴していた。ランチェスター侯爵家には連日、不満を訴える民が押しかけ、石や生卵が投げつけられて、誹謗中傷の手紙が山のように届いた。もともと父は、戦うことばかりだったし、いつも賞賛と羨望ばかり受けていた人だから、人から非難されているということに全く慣れていなかったのだろう。
事件の内容は、ガスパロが騎士団の複数の団員から、多額の賄賂を受け取って、昇級させていたというもの。かなりの金額が動いており、偽の証拠まで作られ、ガスパロを含め賄賂に関わっていたとされる者は一斉に懲戒処分となった。
最初は、父を慕っていた騎士団員たちが抗議したものの、なんらかの圧力がかかったのか、自然とそういう声は小さくなっていき、やがて味方はいなくなった。
ガスパロの罪は重く問われ、ランチェスター侯爵位と領地まで没収されることに。もちろん全て冤罪で、ティベリオによって仕組まれたものだと父は言っていた。
(どうして父さんがティベリオに目をつけられたんだ……?)
父は詳しい経緯をペイジュに打ち明けてはくれず、ただ『公爵家の弱みを知った』の一点張りで、取り付く島もなかった。
そして、仕事を失い、領地や財産を失ったにもかかわらず、ランチェスター家には途方もない賠償金の支払いが請求された。汚職事件だけではなく、ランチェスター侯爵家にまつわる根も葉もない噂がどこからともなく吹聴されていき、一家は完全に孤立するのだった。
◇◇◇
すっかり意気消沈している父に代わって、ペイジュは自分がなし崩しに支払いをしていく覚悟でいた。借金で生活もままならないような状態になってしまったため、ペイジュは家の外で働かなければならなくなった。貴族令嬢として育ってきた自分にとって初めて経験する経済苦である。
また、父の心の傷は思っていたよりも深いもので精神的に病んでしまい、ペイジュは父と母、ふたりを働きながら支えなければならなくなった。
「俺はもう無理だ。こんなみじめな目に遭って、生きているのが耐えられない。……早く死にたい」
暗い顔をした父にある日とうとう『死にたい』と打ち明けられ、ペイジュはがつん、と頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
どうしてそんなことを言うのか。地位や名誉、財産は失ってしまったけれど、まだ家族は全員生きている。ペイジュはこれからやり直すことだってきっとできると信じ、毎日馬車馬のように頑張っている。それなのにどうしてひとりで勝手に――諦めたような顔をするのか。
ペイジュは一方的に、込み上げてきた自分の感情をぶつける。
「なんで……っ。そんなこと、言わないでよ……! これから一緒に頑張れば、きっと乗り越えられる。私だって辛いけど、毎日頑張ってるんだ。死にたいなんて、二度と口にしないで!」
父の絶望に寄り添うことができず、突き放してしまった。
「……すまないな、ペイジュ」
そのときの彼の表情は、生涯忘れることがないだろう。正義感が強く剣の天才で、尊敬してきた父が初めて娘の前で涙を見せたから。




