05_不法入国と最悪な出会い
「最初に協力させられるのが、まさか不法入国とはね。我が主は、無謀なお方だ」
「いいから黙って着いて来なさい」
ある夜。スリド王国とアルチティス皇国の境にある高い壁を、二人はロープを使いながら登っていた。ペイジュは最下層の身分階級の奴隷、ウェスタレアは死んだはずの悪女。普通の手段で国境を越えられるはずがなかった。
ここは昔、分裂した2つの民族の戦いが起きた場所で、そのときに建設された境界の壁が、今もなお国境として残っている。
「夜警に見つかったらどうするんです?」
「そのときは一緒に仲良く牢獄行きね」
「そんな無茶な」
「牢獄のシェフの得意料理は何かしら」
「シェフなんかいる訳ないじゃないですか」
(身分証の偽造には時間とお金がかかる。正式な手段で国境を越えている時間はない。となると残る手段は――強行突破のみ)
ウェスタレアは額に汗を滲ませながら、ロープで壁を登る。
アルチティス皇国では規定額の不動産を購入すれば国籍が手に入る。ウェスタレアのような保証人のいない異国人が国籍を買うには、際どい手順をいくつか踏まなければならないが。
「――さ、お手を。足元に気をつけて」
「ありがとう」
先に壁の頂上に着いたペイジュが手を差し伸べる。その手を握り返せば、上まで軽々と引き上げてくれた。
壁の上から、アルチティス皇国の皇都が見える。皇都の中央に佇むルシャンテ宮殿。あの場所こそが栄華の中心だ。政務が行なわれ、皇族が居住している。
(なんて美しい宮殿……。ルムゼア王国の王宮の倍くらい大きいわ)
「私は絶対に……あそこに行きたい」
まっすぐに宮殿を眺めるウェスタレア。夜の風が彼女のフードを脱がし、長い髪を揺らす。
「……主はなぜ、皇妃に固執する?」
ペイジュの問いに、ウェスタレアはすっと目を細めた。
「見て。皇都は眩しいくらいに街灯が光っているわ。けれど、皇都から外側に行けば行くほど、どんどん明かりがなくなっていく。これはどういうことか分かる?」
「貧富に差がある……ということですか」
「ええ。そして、弱い者から搾取し、私腹を肥やすような貴族が大勢いるの。彼らを統率し、皆を豊かにするには力が必要になる」
ウェスタレアは貧しさこそ経験したことはないとのこ、自分の欲を満たすために、他を踏み台にしようとする愚かな権力者をその目で見てきた。
(私のような権力の犠牲者を、出してはいけない)
「権力者がどこかで横暴を働いているかもしれないのに、見て見ぬふりをすることはできない。――なんていうのも、理由のひとつ」
黙ってこちらを見ているペイジュに、「ちょっと真面目すぎたわね」と柔らかく微笑みかける。
「高尚な動機を並べることはできるけど、もっと正直に言えば、私はただ純粋に皇妃になりたい。小さなころからの夢だったの。女の子は誰でも一度はお姫様に憧れるものでしょう?」
「はは、主にもそのような乙女らしい心がおありで?」
「失礼ね。私は結構、乙女よ」
ペイジュはウェスタレアと冗談を交わして笑い、反対側の壁を降り始めた。
ウェスタレアは少し降りたところで右足をずるっと滑らせた。その拍子に、ロープから手を離してしまう。
「きゃっ――」
「主!」
ペイジュが手を伸ばすが、ウェスタレアの鼻先を掠めるだけだった。身体に浮遊感を感じ、下に落下していく。
足元に気をつけろと散々忠告されていたのに、迂闊だった。視界に満天の星空が映る。まだ皇妃になるまでの道は始まったばかりなのに、こんなところで終わってしまうのだろうか。
(空を飛んだの、生まれて初めて……)
一周回って冷静になってしまったウェスタレアは、夜空を眺めながらそんなことを思う。綺麗な空を眺める心の余裕もなく過ごしていた離宮での日々が走馬灯のように蘇り、そっと目を閉じた。
しかし、ウェスタレアの身体には予想していたような衝撃は全くなく、代わりに逞しい男の人の腕が抱き止めていた。
「空から人が降ってくるとは。つくづく人生は何が起こるか分からないものだな」
低く爽やかな声がして、はっと目を開けると、そこには綺麗な男性の顔があった。
(なんて、妖艶な……)
夜の空を吸い込んだような艶のある漆黒の髪に、深みのある緑の瞳。
シャープな輪郭に、完璧に整ったパーツがバランスよく配置されている。耳には不思議な紋様が小さく刻まれたロングピアスが輝いていた。
彼の切れ上がった瞳がこちらを射抜いている。目が合った瞬間、なぜか互いに目を逸らせなくなり、しばらく見つめ合う。けれどウェスタレアが先に、はっと我に返った。
(まずい……きっと巡回中の夜警に違いない……!)
どう言い訳をしようか思いを巡らせ、こうなったら一か八かだと愛想笑いを浮かべた。
「ごきげんよう。天から降りてきました、あなたの女神です」
「それは冗談のつもりか?」
「本気です」
警戒していた彼だが、ふっと気を緩めて冷めた表情でこちらを見つめた。
「そうか頭がおかしいんだな。……全く。不法入国の言い訳ならもっとマシなものを考えろ。どこの国の難民だ? 正直に言えば罰も軽くな――」
冗談を言った狙いは彼の気を緩めるためだった。一瞬の隙ができたのを見逃さず、胸元から毒針を取り出して、彼の首筋に刺した。
「お前、何を……」
がくんと膝を着く彼。腕から開放されたウェスタレアはフードを目深に被り直し、彼を上から見下ろして目を細めた。
「毒――か?」
「死にはしないわ。ただ、少しの間身体が痺れるだけよ」
使用済みの毒針を懐にしまい直す。
「そんなものを持ち歩いているなんて、世の中には物騒な女がいたものだ」
「ある人の受け売りで、毒薬で身を守ることにしているのよ」
「そんなことを教える人間もまともではないな」
「教える人間『も』?」
「安心しろ。お前はすでに手遅れだ」
男は痺れて動かなくなりながら、嫌味を零した。
まもなく、茂みの奥から音がして、ペイジュが2人の気絶した男の襟を掴み、引きずりながらやって来た。
「良かった。無事でしたか」
「そっちも無事みたいね。その人たちは?」
「夜警……かな? 見つかる前に絞めといたけどどうする? 埋める?」
気絶した男2人を見て、ロングピアスの男が顔をしかめた。
「待て。その者たちは俺の部下だ」
彼は部下を引き渡してほしいと交渉してきた。けれど、ただで引き渡す訳にはいかない。不法入国を見逃すことを約束させた上で、更に馬を差し出すことを要求する。
「はっ、まるで盗賊だな」
「あなた、そんなことを言える立場だとお思いで?」
「俺はお前を助けた」
「助けてほしいなんて頼んでない」
更に、彼の耳に輝くとりわけ高価そうなロングピアスに目をつける。左耳に手を伸ばし、金具を外した。飾りの裏側に刻まれた精緻な紋様に、首を傾げる。
「この紋様は?」
「――返せ。それだけは譲る訳にはいかない。大切なものなんだ。お前のことは決して口外しないと誓う」
「信用できないわ」
彼の必死な訴えを、感情なくばっさりと斬り捨てる。
ウェスタレアは最も信頼していた親友に裏切られた。人の言葉を簡単には信じないし、同じ轍は踏まない。
「そう……これはとても大切なものなのね。なら、あなたが信用に足る相手だと判断したら、そのときに返してあげる。――私は皇妃になるの。だから邪魔をしないで」
ペイジュに声をかけてそのままくるりと背を向けた。男が乗ってきたであろう良い馬を2頭借りて山を降りた。皇妃になるためなら、手段を選んではいられない。少しだけ良心の呵責に苛まれ、ウェスタレアは肩を竦めた。
(……これでは本物の悪女ね。いいえ、願いを叶えるためなら、悪女にでもなってやるわ)
そのくらいの覚悟でなければ、危険を犯してまでアルチティス皇国に来た意味がないだろう。
馬にまたがるウェスタレアの右耳で、ちらちらと装飾が揺れる。
この奪い取った耳飾りが、あの男の高貴な素性を示す重要なものだとは、夢にも思わないウェスタレアだった。――このときはまだ。
◇◇◇
残された男は小さく息を吐き、ひと言呟いた。
「……悪魔のような女だ」
何が『天から降りてきた女神』だ。ふざけたことを言うな。女神だなんてとんでもないではないか。
外遊の帰り、ルシャンテ宮殿に向かって国境沿いを馬で移動していたら――空から娘が降ってきた。アルチティス皇国皇太子、レオナルド・オレンシアは咄嗟に、彼女を抱き留めていた。
レオナルドの腕の中で顔を上げたのは、可憐な娘だった。
人生の中で、女性に見蕩れたのは――2度目だ。彼女の凛とした眼差しに見つめられ、どこか懐かしい感覚に心が揺さぶられるのを感じた。
しかし彼女は可憐な見た目に反して凶暴で驕慢、最悪な女であった。助けてやった恩人に毒針を突き刺し――次期皇帝の証である耳飾りを強奪して行った。
一見何の変哲もないただの耳飾りだが、裏側に小さく紋様が彫られている。紋様はレオナルドの紋章で、それひとつで軍隊を動かすことも可能な代物。
加えて、彼女の連れはレオナルドの部下2人を昏睡させて登場した。
「お前たち。いい加減起きろ」
「ん……? ここは……」
「国境沿いの森だ」
娘たちが馬を奪って逃げてから2時間ほどして、ようやく部下たちが目を覚ました。レオナルドの身体の痺れも治まっている。
「一体……我々に何が……」
2人は自分たちの身に何が起きたのか理解していないようだった。耳飾りという弱みを握られている以上、不法入国者のことを打ち明ける訳にはいかない。レオナルドははぁと眉間を指で押さえてため息を吐く。
「長旅の疲労で倒れたんだろう。今夜はここで野営をする」
「は、はい。――殿下」
2人同時に気絶した理由としてはいささか無理があり、部下は若干不審がっているものの、皇太子の言葉を否定することはできない。皇太子の言葉は、どんなものであれ真実になるから。
レオナルドは、去り際あの娘が言っていた発言を思い出した。悪魔のような女にしてはまっすぐすぎる表情で、私は皇妃になるのと言っていた。
(あのじゃじゃ馬娘が――俺の妻に? ふざけるな。彼女が皇妃になった日にはまっさきに国が滅びる)
まぁ、心配せずとも彼女のような思慮の浅そうな女が皇妃に選ばれることはないだろう。なぜなら皇国皇妃の椅子は、国中の女たちが争いあい、たったひとりしか座れないのだから。素質がなければ、早々に弾かれる。
それに、最終選考は皇太子であるレオナルドも選考に加わる。まかり間違っても彼女には票を入れることはないだろう。
(とにもかくにも、あの娘を探し出して――次期皇帝の証を取り返さなければ。……全く面倒なことになったな)
しかしなぜか、皇妃になるのと言った彼女の切実な眼差しが、レオナルドの頭から離れなかった。
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