47_頭の黒いネズミさん
聞き慣れた声が鼓膜を震わせ、慌てて振り返れば、螺旋階段からティベリオが下りてきた。
動揺してばくばくと早鐘を打つ胸を抑えつつ、平然を装って父に対峙する。
「ま、まさか今夜戻りになるとは思いませんでしたわ。お帰りなさいませ」
「ふふ。せっかく屋敷に来たお前の顔が見たくなってね」
「まぁ……」
エリザベートとウェスタレアはふたりきりの皇妃候補として、ルシャンテ宮殿に立派な住まいを与えられている。エリザベートは父親と顔を合わせたくないという理由があって、第一皇妃候補宮を主な活動拠点にし、公爵邸にはあまり帰らないようにしていた。
(まさか何か……疑われていますの?)
彼は周到で頭が切れる人だ。エリザベートの思考の隅々まで見透かされている気がして、頬に汗を伝わせると、彼はふっと穏やかに頬を緩めた。
「顔が青いよ。何をそう警戒しているのかな?」
「そ、そのようなことはございませんわ。それよりお父様。一緒に居間でお茶を飲みませんか? 異国から取り寄せた茶葉がございますのよ。部屋からとって参ります……!」
執務室にはペイジュとディオンがいる。二時間以内に捜索を終えて出て行くようにと約束してあるが、あと一時間もある。なんとしてでも、ティベリオを執務室に近づけないようにしなくては。
「では、居間ではなく君の部屋に行こう。その方が早いだろう?」
「……! それは……」
まずい、そう思った一瞬、エリザベートの目が泳ぐ。それをディベリオは見逃さなかった。思ったことが顔に出てしまうのは、エリザベートの悪い癖だ。もしこの場にいたのがウェスタレアだったら、もっとうまくこの人は欺けたのかもしれない。
ティベリオは優しげに微笑みを湛えながら言う。
「君は隠し事や嘘がとことん向いていないね。私の血を引く娘とはとても思えないよ。他人を欺くことすらできずに、皇妃になってどうやって権謀術数の渦巻く皇宮で生き残っていくつもりだい? 君なんかより、あの異国人の方がよほど皇妃の素質があると思うよ」
「…………」
エリザベートは唇を結ぶ。『あの異国人』が指すのは、言わずもがなウェスタレアのことだろう。彼女はルムゼア王国の権力を前に、どんな逆境に立たされても負けずに立ち向かい、見事打ち勝った。
(そんなこと、わざわざおっしゃっていただかなくともわたくしが一番分かっておりますわ……)
自分は、レイン公爵家の後ろ盾によって押し上げられただけの、平凡な人間。皇妃にも、レオナルドにも……ふさわしくない。
くるりと背を向ける階段を登り始めるティベリオ。向かう先はもちろん、エリザベートの私室であろう。「待って!」と引き止めようと腕を掴むが、すぐに振り解かれてしまった。
彼はエリザベートの私室で倒れる衛兵ふたりを発見したが、眉一つ動かさなかった。その場にしゃがみ込み、倒れている男たちの顔をきわめて冷静に観察している。
「これは執務室の見張りの者たちだね。とても強い薬で眠らされているようだ。可哀想に。どうして彼らが君の部屋にいるのかな?」
「……」
エリザベートは沈黙することしかできなかった。下手なことを言えば、ティベリオに何もかも見抜かれてしまう気がして。
彼はすっと立ち上がり、エリザベートの顎を持ち上げながら言った。
「どうして黙っているんだい?」
「……」
「この衛兵ふたりと何らかの確執があった? 違うね。じゃあ、私への何かの嫌がらせ? それも違うか。あるいはあの部屋に――誰かを入れた?」
「……!」
彼はエリザベートの表情の機微から心の内を探り、まるで誘導尋問のように、答えを導き出した。まだ、エリザベートはひと言も発さないうちに。
「ああ、そうなんだね。不思議だ……鍵は私が持っているはずなんだけどね」
ティベリオはスラックスのポケットを上から手で抑えながら、くすりと笑う。掴みどころのない笑みに、背筋がぞくりとした。
「おかしいと思ったんだよ。私に、ひどく折檻されたばかりの君が突然公爵邸に戻ってくるなんてね。君はここに来たくないはずだろう」
「……………」
踵を返し、わざとらしくエリザベートの肩にぶつかりながら部屋を出て行くティベリオ。他方、エリザベートは全身の血の気が引いていくのを感じながら、茫然自失となる。
(失敗した、失敗した、失敗した、失敗した……)
どうして自分は、こうも不器用で、役に立たないのだろう。頼まれたことを何ひとつこなせず、たった一時間の時間稼ぎすらできないなんて。あまりの不甲斐なさにくらくらと目眩がして、立っているのがやっとだった。ぎゅっと拳を握り締めたあと、はっと我に返り、ティベリオの後ろを追いかけた。
「執務室にはっ、……行ったところで、何もございませんわ」
父に追いついたエリザベートは、再び震える喉を鼓舞し、声を絞り出して説得を試みる。彼はこちらの顔を覗き込み、視線を絡める。
どんなに平静を装ってみても、目がおろおろと泳いでしまうのを止めることはできなかった。エリザベートは焦ったときや困ったときには、より感情が顔に出るきらいがある。
「嘘を吐いている顔だ。やはり、執務室に何かあるんだね」
確信めいた彼の口調に、頭は真っ白に塗り潰されてしまう。喉はからからに乾き、父を欺く駆け引きの言葉を紡ぐどころか、ひゅっと情けない音が鳴った。
「……お願いします。あの部屋に……行かないでくださいまし」
思考がままならなくなり、懸命な説得は、最後にはとうとうただの切願に変わっていた。
どんなに娘が必死に懇願したところで、この人の心には少しも響かないと分かっているのに。
エリザベートが記憶する限りの昔からずっと、この人は権力欲の塊で、その心に愛情の欠片さえ持っていない。
「往生際が悪い子は嫌いだよ。もっとも、君にはとっくに失望しているけれどね」
「きゃあっ」
乱暴に突き飛ばされ、床に倒れるエリザベート。
そして、ティベリオは執務室の扉を開け、ふわりと穏やかに微笑むのである。
「おやおや、頭の黒いネズミさんたち。こんな場所で何をしているのかな?」
「!」
幸い、ペイジュとディオンは黒いフードを深く被っているため顔は見えない。しかし彼らが、ティベリオの姿に当惑していることは伝わってきた。ペイジュは皇妃候補が信頼する騎士であり、ディオンは皇太子の側近だ。公爵邸に不法侵入したと知られれば、両者の醜聞に繋がり、厳しい処罰を受けることになるかもしれない。
本当に裁かれるべきなのは、悪の限りを尽くしているであろうティベリオの方なのに。
ティベリオが付き従えていた護衛騎士たちも一斉に剣を引き抜き、切っ先をふたりに向ける。ペイジュとディオンもまた、剣を構えた。ディオンはレオナルドの最も信頼する部下であると同時に、剣の達人として有名だ。一方、ペイジュという男のような見た目をした女は、経歴不明で、正直なところ実力がよく分からない。
ただ、ウェスタレアが側に置いているということは、よほど実力があるのだろう。
「――捕らえろ」
ティベリオの命令と同時に、騎士たちが一斉に斬りかかる。
「ひっ、やめて……っ!」
エリザベートが悲鳴を上げたのと――ペイシュが一太刀でふたりの騎士を薙ぎ払ったのは同時だった。
ディオンも次々と攻撃かわしては騎士を昏倒させている。彼の剣技が優れているのはもちろんのことだが、ペイジュの剣の腕は、それをはるかに上回り、舌を巻くものだった。
(こんなに軽やかに美しく剣を操る女性が、この国にいたなんて……。どこか……ガスパロ様の剣に似ていらっしゃるような……)
ガスパロは、悲劇の死を遂げた皇国騎士団の元副団長だ。剣の天才ともてはやされていた彼の試合を一度だけ目にしたことがあったが、ペイジュの剣の構え方や型は、どこか彼を思い出させる。もしかして師事していたことがあるのだろうか。
金属と金属が擦れ合う音が、室内に響く。公爵家の騎士たちがどんなに剣を振るっても、ペイジュにかすり傷一つつけることができなかった。向かってくる剣は軽く身を翻しながらかわし、的確な追撃をする。
「……これは見事だね。こそ泥でなければぜひ――雇いたいくらいだ」
優秀な騎士たちを山のように見てきているティベリオでさえも、感嘆の息を漏らした。
(執務室の窓にも鍵がかかっているから、扉からしか出られない……)
レイン公爵邸の全ての窓には、共通の鍵がかかっており、全てエリザベートが厨房で使ったのと同じ鍵で開けることができる。
ペイジュたちが戦う様子を見ながら、鍵が入ったポケットを上から握る。
ひとりの騎士がペイジュの剣によって昏睡し、一瞬隙ができたところで、エリザベートは走った。窓を解錠して、ばんっと勢いよく開け放つ。夜の冷たい風が吹き込み、エリザベートの頬を撫でた。
「さぁ、早く!」
早くこの窓から脱出を、と促すと、ディオンがすぐに窓から庭の木へと飛び移った。ペイジュが彼に続こうとした刹那、ティベリオがつかつかとこちら歩みより、剣を引き抜く。天井の照明を反射して刃がきらりと嫌な輝きを放ち、固唾を飲む。
「え……」
恐怖のあまり、避けなければならないのに身じろぎすらできない。その切っ先が美しい半円を描きながらこちらに降ってるのを見上げていたそのとき――。
「危ない……!」
予想していたような痛みは身体のどこにもなく、代わりにペイジュに抱き締められていた。ティベリオの一撃を右腕に受けたペイジュは、「くっ……」と小さく呻き声を漏らす。
彼女の腕からぽたぽたと血が落ちたのを見て目を開いた直後、更にティベリオからの追撃に見舞われる。その剣先が、わずかにペイシュの左目を掠めたが、すぐに剣で反応する。
「へぇ。怪我を負ってなおその反射力とは。すごいね、君」
ペイジュが薙ぎ払ったティベリオの剣は弾き飛び、宙を旋回して壁にぐさっと突き刺さった。
「――君は一体何者だい?」
「お前に名乗る名なんてない。この――人の形をしただけの悪魔が。娘にまで手を出すなんて正気じゃない」
「君が庇うことを想定した上だよ。おかげで君を逃がさずに済んだし、結果的にエリザベートは傷一つ付いていない」
「そういう問題じゃない。話にならないな」
ペイジュは冷たい眼差しでティベリオを見据え、剣先を喉元に突き立てた。ティベリオは自分に剣を向けられていることに全く動じずに、ゆっくりと視線をエリザベートに移した。
「父を裏切ってこそ泥の味方をするとは、君にそんな度胸があるとは思わなかっただよ。そのローブの男は誰なんだい? フードを外してやりたかったんだけど、剣を弾き飛ばされてしまったからね。君の口から教えてもらえるかな?」
ティベリオは試したのだった。エリザベートに攻撃をしかけて、ペイジュが庇うかどうか。ペイジュはエリザベートを庇ったことで、逃げることができなかった。
幸いなことにペイジュのことを男だと思っており、正体までは気づいていないようだが。
「わたくしは……」
わなわなと震え、口を噤んでいると、そんなエリザベートをペイジュが抱き寄せる。
「裏切っただって? 世迷言を。お前が暴力と暴言で彼女を支配していただけじゃないか。彼女は最初から、お前みたいなクズの味方でも何でもないんだよ……!」
「…………」
エリザベートは、こんな風にティベリオに対して乱暴な言葉を使ったことがなかった。けれど今、ペイジュが反論してくれて心がすっきりした自分がいる。
「きゃっ……!?」
ペイジュはエリザベートを担ぎ上げ、窓枠に腰掛けた。
「――覚えておけ。いつかその気色の悪い笑顔を私が消してやる」
「ふ。誰だか知らないけど、とても恨まれたものだね。君みたいなこそ泥ごときに何ができる?」
「なんだってできるさ。権力に押し潰されようと、それに打ち勝つ底力が誰にでもあると――私の大事な家族が教えてくれたから」
彼女の言う、『大事な家族』とはウェスタレアのことだろう。
(わたくしにもそのような底力が、あるのかしら)
ウェスタレアは世紀の悪女として処刑されたにもかかわらず、何一つ諦めず、権力に立ち向かい続けた。
「私に捕まって。エリザベート嬢」
耳元で彼女に囁やかれ、反射的にしがみつくと、彼女はそのまま二階から飛び降りた。
「…………ひゃあああっ!?」
ペイジュは、エリザベートを物のように担いだまま茂みの中に飛び込み、衝撃を和らげつつ、地面にうまく着地した。
「うっ……」
「大丈夫ですの!? 二階から人ひとり抱えたまま飛び降りるなんて正気の沙汰ではございませんわ……っ!」
「心配しなくても平気さ。怪我は慣れてるし、私は普通より頑丈にできているからね。ただちょっと足にヒビが入ったくらいだ」
「それのどこが平気ですの!?」
全然無事ではなかった。ペイジュの怪我を心配しておろおろするエリザベート。
「わたくしが重かったせい……?」
「まぁ、軽くはないかな。――ほら、ここからは君も走るんだよ」
「きゃっ――」
若干配慮が足りていないセリフに傷つきつつ、ペイジュに手を引かれながら走り出した。そのうちにディオンとも合流し、レイン公爵邸から脱出するのだった。




