45_ペイジュの任務
ウェスタレアとレオナルドが湖畔で甘いひとときを過ごした二週間後、ペイジュは主人の命令でとある任務に当たっていた。
「ティベリオの執務室は、この廊下の突き当たりだよ」
「私に命令するな」
「ああ、怖いなぁ」
ペイシュが睨みつけると、ディオンはへらへらと笑いながら両手を掲げ、降伏の意を示した。
今日は、レオナルドの側近、ディオンと一緒に、レイン公爵邸に忍び込もうとしている。
(全く、どうして私がこんな奴と一緒に仕事をしなきゃいけないんだ)
ペイジュはディオンの人好きのする笑みを一瞥して、心の中で悪態を吐く。彼はレオナルドの最も信頼できる部下としていつも傍におり、政務の手伝いだけではなく、護衛まで完璧にこなす。文武両道――そしてとりわけ顔が美しい。
肩ほどの長さがある茶色の髪を束ね、赤い瞳はいつも笑みを湛えている。飄々としていて、掴みどころがない美男子。ウェスタレアの情報によると、生粋の女たらしと言われているとか。――ペイジュがとにかく嫌いなタイプだ。
全身ローブに身を包み、公爵邸の門を茂みの影から確認するペイジュ。同じくローブで身を隠したディオンがにこにこと微笑みかけながらこちらに問いかける。
「ねえ、どうして僕のことを毛嫌いするの? 皇太子殿下のこともそうやって目の敵にしているらしいね」
「顔が良い男が大嫌いだね」
間を置かずに即答する。
「はは、なにそれ。美形に親でも殺された?」
「…………」
ディオンが軽い状態冗談で言った言葉に、ペイジュは本気で怒りを込めて睨みつけた。その威圧感に、ディオンは思わず息を飲む。
(あの男の顔だけは、絶対に忘れない。ティベリオ・レイン)
ペイジュは表情に憎しみという憎しみを湛え、奥歯をぎり……と噛み締めた。
ふと、頭に思い浮かべたのは、皇妃お披露目パーティーで見かけたティベリオの顔。五年くらい見ていなかったが、一切老いを感じさせず、五年前と変わらない嫌味なほど麗しい風貌のままそこにいた。
ペイジュは――顔が美しい男が嫌いだ。スリド王国で奴隷になったとき、ひとり目の主はろくでもない男で、妻に度々暴力を振るっていた。彼も確かに綺麗な顔立ちをしていたし、美しい男をより嫌いになる理由の一つにはなった。
しかし、ペイジュが美しい男を憎む決定的な要因は――別にある。大切な両親を殺し、ペイジュから何もかも奪った男ティベリオ・レイン。彼がその原点だ。
ペイジュは一瞬の回想から現実に意識を引き戻し、レイン公爵邸の門番を見据えながら言った。
「正門には門番が六人いる。ひとまず裏口に回ろう」
「了解」
裏口もふたりの衛兵がいるのを確認し、塀をよじ登って敷地内に侵入した。深夜ということもあって屋敷の者たちは寝静まっており、庭を出歩いている者はいなかった。一階の厨房がある場所に近づき、ディオンが窓に手をかけると、施錠されておらず開いたままになっていた。
ディオンは窓の中を覗き込みながら言った。
「ここが厨房みたいだね。人もいない」
「見れば分かる」
「はいはい」
ぶっきらぼうに返して、彼に続いて窓から中に侵入する。彼に手を差し伸べられたが、それも無視した。
今日の仕事は、レイン公爵邸のティベリオの執務室にこっそり侵入して、エリザベートピンクの染色工場の住所を見つけること。
エリザベートピンクの工場は徹底的に管理されており、紡績工場から製織工場に至るまで、所在地は公にされていない。
知っているのはティベリオと、リアス社の経営に関わるごく一部の者だけ。ティベリオの娘であるエリザベートですら、一体どこで、どのようにしてエリザベートピンクが作られているのか知らないという。その中でウェスタレアが目をつけたのは――染色工場だった。糸を染色液で染める段階で、中毒症状が起きているのではないかと推測したのである。
二週間、ティベリオのことを尾行してみたが、不審な行動は見られず、もちろん染色工場の場所を突き止めることもできなかった。
『花集め』の集計までの時間は限られている。そこで、無意味な尾行で時間を潰すのはやめにして、強硬手段ではあるが、手がかりを得るために直接ティベリオの執務室を探すことにしたのだ。
エリザベートにも協力してもらっており、侵入しやすいように厨房の窓の鍵をあらかじめ開けておいてもらった。
彼女には、ペイジュとディオンが執務室を物色している間に、見張りの衛兵たちの気を引くのと同時に、ティベリオの動きを見ていてもらうことになっている。一応彼は今日、出張で帰ってこないそうだが。
「主から皇太子もよく視察に出かけると聞いた。君もこうしてたまに、危険に足を踏み込むことがあるのか?」
「たまにどころかしょっちゅうさ。僕の主人は人使いが荒い人でね」
レオナルドは、オレンシア皇家の立場を守るように、さながら番犬のように鼻を効かせ、目を光らせてきた。そのためには際どい手段もいとわないという。
「ふ。それは同感だな」
無理難題をしばしば要求してくるウェスタレアを思い出し、今日初めて笑みが零れる。
ウェスタレアは貴族として生まれ、次期王妃候補として育った。だから、当たり前のように他人に命じ、使役しようとする。高慢に感じるその態度も、上に立つべき者として育てられた過去に裏付けされているものなのだ。そこに、彼女元来の勝気で傍若無人な性格も上乗せされるのだが。
すると、ディオンがこちらの顔を覗き込みながら、いたずらに口の端を持ち上げた。
「へぇ。君、笑うと結構可愛いね」
「あ゛?」
眉間にしわを寄せ、侮蔑の眼差しを向ければ、「可愛くない顔」と彼は苦笑した。
(次にそんな減らず口を叩いたら、二度と口をきけなくしてやろうか)
そんなペイジュの気を知らず、ディオンはへらへらと笑っている。ふたりは厨房を出て、非常用の階段から二階へ上がった。
だだっ広い廊下を歩き、目的の部屋へと向かう。エリザベートに事前に渡された案内図によれば、執務室は角部屋。深夜なので使用人たちが歩いていることはないが、明かりはどこもついたままで、見張りの騎士がちらほらといた。さすがは公爵家とあって警備体制は万全だ。むしろ、怪しくなるほどの厳重さだ。
廊下の角に隠れてディオンが頭だけ覗かせ、執務室の前に衛兵がいないか確認する。
「衛兵は?」
「いないみたいだ」
「エリザベート嬢がうまくやってくれたんだろう」
本来なら、執務室の前にはふたりの衛兵が夜通し見張りをしているはずだった。だが、エリザベートが彼らの気を引き、扉から離れさせることに成功したのだろう。これも計画の一つ。――そして。
ペイジュは扉の前でしゃがみ、直角に曲がった針金と、まっすぐ伸びた針金を懐から取り出し、鍵穴に差し込む。中のピンと針金が一致する箇所を探していく。
「ピッキングなんていつ学んだの?」
「主に教えてもらったんだ。私の技術なんて付け焼き刃もいいところだけど、主は『開けられない鍵はない』と豪語していたよ」
「わあ強気。さすが皇妃候補サマ、多芸だね。よく分からないけどそれって、皇妃に必要な素質なの?」
「それは知らない」
毒薬に隠し武器にピッキングの技術とは、皇妃候補に必要な素養というにはいささか物騒で、時々、泥棒や野盗なんかが向いているとさえ思ってしまう。
執務室の鍵は、ティベリオがいつも持ち歩いているというので、エリザベートに鍵の形状を調べさせて、ウェスタレアが解錠する方法を考えたのである。
なかなか開かない鍵に悪戦苦闘し、ペイジュの額に汗がにじむ。
(ティベリオは一体どこまで周到なんだ。ったく)
夜でも明かりをつけたまま、見張りをあちこちに巡回させ、鍵は誰にも渡さない。これでは、知られたくないことがあります、と言っているようなものだ。
しばらくの苦戦の末に、ようやくガチャリと音がして鍵が開く。
執務室の中はすっきりと整理されていたが、あちこちに書類の山が置いてある。
「僕はこの棚を探す。ペイジュちゃんはそっちの机ね」
「ペイジュ……ちゃん……? 気色悪い呼び方をするな」
指図されたことに加えて馴れ馴れしい呼び方をされ、ひくひくと顔を引きつらせる。ディオンは書類を吟味しては楽しそうな顔をして、レオナルドへの手土産に懐にしまっていった。彼の今日の主な仕事はペイジュの手伝いで、それ以外にはティベリオの弱みの一つや二つを探ることを目的としている。
なんとか気を取り直して、執務机の方へ向かうと、机の上は整然としていた。書類には、ティベリオのものと思われる流麗な筆跡で、文章が書かれている。その中に、エリザベートピンクの工場に関わるものはないかと探していくと、ある一枚の紙に目が留まった。
(……旧ランチェスター侯爵領)
五年前に没落した騎士の家系で、その領地は現在、レイン公爵家のものとなっている。その紙は、旧ランチェスター侯爵領の土地管理書だった。
そして、ランチェスターという姓は、まだウェスタレアに話したことがないペイジュの姓。ウェスタレアもかつては自分の身分を偽り出生を隠していたが、ペイジュにも打ち明けられない秘密がある。
(父さん、母さん……)
土地管理書をぎゅっと握り締めたそのとき、棚を物色していたディオンが「あった!」と声を上げた。
「ペイジュちゃん、エリザベートピンクの染色工場の住所を見つけたよ。ここは皇都から相当遠くない」
「だから、ペイジュちゃんはやめろって言ってる――」
ペイジュがディオンに苦言を呈そうとしたその刹那、扉が開く音がしてはっと息を飲む。
それは、この部屋に最も来てほしくない人物だった。
こつ、こつ、という足音に顔を上げるとティベリオが、威圧感を眼差しに滲ませた笑みで告げた。
「――おやおや、頭の黒いネズミさんたち。こんな場所で何をしているのかな?」
ティベリオ・レイン公爵。両親を殺した、ペイジュの敵。この世界で最も忌むべき男。
そして、彼の後ろでエリザベートが申し訳なさそうな、泣きそうな顔してこちらを見ていた。




