36_エリザベートと公爵
皇妃候補お披露目パーティーで倒れたエリザベートは、ルシャンテ宮殿の第一皇妃候補宮で療養している。友人たちが見舞いに来てくれても、父の命令によって彼女たちは追い返された。せっかくの善意を無碍にしてしまったことに、いたたまれなさを感じながら、孤独な療養生活を強いられている。
エリザベートピンクのドレスを着る度、生地に触れている部分の皮膚に湿疹が出ることがあった。
だが、レイン公爵家は、エリザベートピンクの宣伝にとても力を入れている。エリザベートはその重要な広告塔であり、体質に合わないから着れないとティベリオに訴えても許してはもらえなかった。
だから、湿疹の症状は一過性のものだと自分に言い聞かせて、無理に着続けていた。すると、湿疹の症状は次第にひどくなっていき、腹痛や気持ち悪さといった違う症状にも悩まされるようになっていった。
そしてパーティーの日、エリザベートは倒れたのである。
「君はどこまで役立たずなんだい?」
「きゃっ――」
――バシン。寝室に乾いた音が響き渡る。
眠りから目が覚めて早々、エリザベートはティベリオに叱責され、頬を叩かれた。
叩かれた勢いのまま床に倒れ込む。手加減なしで叩かれたため、頬はずきずきと痛み、口内にまで傷ができて鉄の味が広がった。
エリザベートは恐怖に打ち震え、泣きそうになりながら容赦のない父親を見上げた。
「申し訳ございません。どうかお許しを――痛いっ」
「君がもっと利口で使える娘だったら、私もこうも腹を立てることはなかったよ」
「ひっ……」
ティベリオはエリザベートの長い髪を鷲掴みにして、顔を覗き込む。
平常心なのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、彼の表情からは何一つ伝わってこない。彼はいつだって穏やかな微笑みを浮かべているだけ。
実の父親であっても、エリザベートにはそれがひどく気味悪く、恐ろしかった。感情の機微に乏しいのか、ただ感情を隠すのが上手いだけなのか、恐らくそのどちらもなのだと思う。
「大切な皇妃候補お披露目の場で倒れ、大切な我が社のエリザベートピンクのドレスを汚し、大切な顧客になり得る参集者の方々にまで迷惑をかけたんだ。君がどれだけの失敗をしたか、自覚はあるのかな?」
「分かっておりますわ。次はうまくやります。体調が悪くとも、倒れたりいたしません」
「それは当然のことだよ」
彼の笑顔にそのとき、明らかな威圧が乗る。底冷えしてしまいそうな冷たい眼差しに、喉の奥がひゅっと鳴る。
「――君はどうしてまだ、皇太子の婚約者になっていない?」
「……………」
ティベリオはエリザベートの髪をぐっと強く握ってから乱暴に手放す。
(それはわたくしだって聞きたいですわ……)
国一の皇妃候補としてもてはやされ、レイン公爵家とその勢力のお膳立てもあり、自分が皇妃となってレオナルドの隣で治世を彩るのだと当然のように思っていた。歯車が狂い出したのは、ウェスタレア・ルジェーンのせいだ。
ティベリオの計画では、エリザベートは今の段階で皇太子の婚約者になっているはずだった。彼はある目的のために、外戚権力を欲している。
その目的とは、現在ルムゼア王国が保有するスリド王国の実質的な支配権を奪うこと。
ルムゼア王国とアルチティス皇国が争い始めた発端は、ルムゼア王国が勝手に両国の間に位置するスリド王国に入植し、支配権を得たことだった。スリド王国は両国の中間に位置していることからアルチティス皇国は異議を唱え、とうとう戦争に発展した。
現在ルムゼア王国はスリド王国を保護国として、現地の王族を通じて統治しているのだが、未だにアルチティス皇国とは、どちらが支配権を持つかということで対立しているのである。
スリド王国では奴隷制度が続いており、ティベリオはスリド王国から奴隷を連れてきて、リアス社の労働力にしようと画策している。
「君の役目は何か、今一度言ってごらん」
「こ、皇妃になって……皇帝になる子を産むこと。そして、外交政策に参加し、スリド王国の支配権を獲得すること……でございますわ」
「そう。全ては君と我が一族のためなんだよ」
ティベリオは柔和に微笑んだ。
「……わたくしはただ、レオナルド様のお傍にいられたら、それだけで構いませんのに……」
エリザベートには、レイン公爵家の繁栄とか、地位や名誉といったものへの興味はない。あるのは純粋で、一途な恋心だけ。父だって、娘のためだと口では言っていながら、自分の欲を満たすことしか考えていない。
つい漏らしてしまった本音に、はっと我に帰って口元を抑えるが、時はすでに遅く。
ティベリオはエリザベートの襟を掴み上げて、不気味に微笑んだまま、冷笑する。
「何を甘いことを。色恋ごときにうつつ抜かしているような余裕はないよ。やっぱり一度、君には躾が必要らしいね」
皇妃選定の一次選考で、筆記試験で答案を手に入れたのも、二次選考でウェスタレアにレイン公爵家の息がかかった審査員を宛がおうとしたのも、そして最終選考の問いの答えを考えたのも――父親だ。唯一、三次選考でウェスタレアのドレスを切り裂くという嫌がらせをしたのは、激しい嫉妬心に突き動かされたエリザベートだった。
エリザベートは確かに、ウェスタレアのことを敵視していたし、レオナルドの寵愛を受けていることに嫉妬もしていた。けれど、直接手出しをしていたのは、ほとんどが父親だったのである。
エリザベートは、ティベリオの操り人形みたいなもの。言うことを聞かなければ折檻されるから、大人しく従ってきただけ。
花集めだって全て父が主導しており、そこにエリザベートの意思はない。
エリザベート・レインは誰かから憧れられるような皇妃候補ではない。そこそこ勉強ができて、そこそこ手先は起用だが、突出している訳ではなく、取り立てて褒めるようなところのない平凡な令嬢だ。
『国一番の皇妃候補』という肩書きは、父が戦略のために娘をプロデュースして作り上げた偽りの肩書きだ。本当のエリザベートは、ただのティベリオの駒のひとつなのだ。
「嫌っ。お父様……やめてくださいまし。嫌……っ」
その日、ルシャンテ宮殿の第一皇妃候補宮の寝室には、エリザベートの悲鳴と呻き声が響き渡った――。




