15_初めて会った気がしないのは
レオナルドは久々の心地のよい眠りの中で、懐かしい夢を見ていた。何年も昔、レオナルドがまだ少年だったころ。
外交使節に同行し、ルムゼア王国王宮に来ていた。予想通り和平交渉は失敗したが、もう毎度のことだ。退屈な王宮を抜け出して庭園をふらふらと歩いていたら迷ってしまい、敷地の中で隔離された離宮に辿り着いた。
「――あら。珍しいお客さん」
そこにいたのは、白銀の髪をした可憐な少女だった。造形だけではなく、凛とした雰囲気があり、中身から美しい人なのだと直感した。誰かに見蕩れるのは初めてのことで、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。身体に電流が走るような感覚がする。
つい魅入って立ち尽くしていたら、彼女はふっと笑った。レオナルドは気まずくなって目を逸らす。
「……庭を歩いていたら、迷ってしまって」
「ここは次期王妃が暮らす離宮。関係者以外は足を踏み入れることが許されない場所。あなたみたいな子どもでも、バレたら即懲罰房入りよ? まぁ今ここには私しかいないから、見つかることはないでしょうけど」
どうやら彼女は、レオナルドが異国の皇族であることに気づいていないらしい。
次期王妃が幽閉された話は、噂で何度か聞いたことがある。王太子の婚約者ウェスタレア・ルジェーンは、適性のある王妃を育てるという名目で離宮に閉じ込められたのだという。
ウェスタレアは、木に囲まれ誰も立ち入らない孤独な場所で、厳しい教育を受けていた。
『隠された令嬢』と呼ばれるウェスタレアは、確か真っ赤な髪をしていると聞くが、目の前にいる少女は、絹のような白銀の髪をなびかせている。
「……赤髪ではないのか?」
「いつも染めているの。白銀の髪はこの国では蔑視されるから。染め直そうと思って洗い流したところに、ちょうどあなたが来たという訳」
「なるほど。難儀だな」
ウェスタレアは髪を一束すくい上げながら呟いた。
(白銀の髪が蔑視されるなど、初めて聞く話だ)
せっかく綺麗な髪をしているのにもったいない、という言葉は喉元で留めておいた。
「あなたは……侵入禁止の離宮に足を踏み入れ、その上王太子の婚約者の秘密を見てしまった。だから……」
「だから……?」
彼女はずいとこちらに歩み寄り、鋭い目付きで見てきた。レオナルドは何を言われるのかと固唾を飲む。
「ただでは帰さないわ。私の言うことを聞いたら、あなたの罪を見逃してあげる」
「……わ、分かった」
レオナルドが不祥事を起こせば、母国にも迷惑がかかる。だから、彼女の言うことを聞くしかなかく、しぶしぶ頷いた。
(面倒なことになったな……)
腕を引かれ、「少し手伝ってちょうだい」とどこかに連れて行かれる。辿り着いたのは、屋根のついたガゼボ。床がところどころ血のような赤い塗料で汚れている。ウェスタレアは赤い染料と道具を一式持ってきてテーブルに広げた。
手伝わせようとしているのは、髪染めのことだったらしい。レオナルドは、戸惑いながら彼女の髪に赤い染料を染み込ませていった。
政治争いに巻き込まれてしまった少女に、レオナルドは同情的だった。
レオナルドも、いつも孤独だった。気を許せば誰かに足をすくわれる気がして、己で孤独を選んだのだ。皇太子としていつか国を背負っていく覚悟はあるが、王にはなりたくなかった。自由を望むレオナルドには、国家に束縛された地位は窮屈でしかないから。
「俺にも立場がある。だが……自分の務めを果たす自信がない」
「誰だってそうよ。先が不安になって、逃げ出しそうになるときがある。けれど私たちはただ、与えられた環境下でやれることをやるしかないのよ。足掻き続けていたら、いつかすくい上げてもらえる瞬間があると信じて」
「君の望みは?」
「素敵な王妃になることを夢に見てる。……今のままでは、生きていて誰の役にも立っていない感じがするの。それがとても辛い。耐えがたいくらいに」
「その努力は、やがて何かの形で実を結ぶ。君はよい王妃なれるだろう」
「……! ……ありがとう」
そう言って目を細めた彼女が、あまりにも儚くて、眩しくて、また胸がぎゅっと切なく締め付けられた。
(なんだ……この気持ちは)
ウェスタレアはすでに多言語を習得しており、ピアノ、バイオリンに裁縫まで幅広い素養を身につけているとか。そして、日々のたわいない話を沢山聞かせてくれた。
今日は久しぶりに、王太子や親以外に髪を染めない素の姿を他人に見られたとウェスタレアは笑っていた。
「――今日ここで見たものは、全てお忘れに」
帰り際、すっと口元に人差し指を立てる彼女。
「ああ、分かっている。君のことは誰にも口外しない」
「ありがとう。ここをまっすぐ進めば、本宮に戻るわ」
「…………」
たったの数時間、取るに足らない話をしただけなのに、居心地がよくて、楽しくて仕方がなかった。こんなに誰かとの別れを惜しんだことはない。もう少し傍にいたい。もっと色んな話がしたい。――もっと彼女のことが知りたい。
でもウェスタレアはルムゼア王国の次期王妃。心を通わせたいと願ってはならない相手だ。
「楽しい時間をありがとう。もう会うことはないでしょうけど、どうか……お元気で」
それなのに、こちらを見送る彼女が寂しそうに笑ったのを見て、こんな言葉が口をついて出た。
「俺が――ここから出してやろうか」
「え……あなた、何を……」
「今は無理でも、いつか必ず。この国を出れば、君を苦しめようとするものは誰もいないし、自由になれる」
「ば、馬鹿ね、次期王妃を誘拐するなんて、大逆罪よ。冗談でも軽々しく言っては駄目」
動揺を隠し、冷静な口調で諭すウェスタレア。
「その罪も背負う。俺は本気だ」
「……!」
このときはまだ、子どもだったのだろう。敵国の皇太子として、非常識で、ありえないを言っている。けれど、気持ちが昂り抑えられなかった。ひとりぼっちの彼女を救い出してあげたくて。力になりたくて。自分の立場のことさえ頭からすっかり消えてしまったのだ。
すると突然、彼女はわっと泣き出した。
「す、すまない。無責任なことを言って、怒らせたか? 泣かないでくれ。……女性が泣いているところを見るは苦手なんだ」
「そうでは、ないわ。ただ、嬉しくて……っ。今まで誰ひとりとして、この鳥籠から私を出そうなんて言ってくれる人は、いなかったから……っ」
「…………」
その場にうずくまって小さくなりながら泣く彼女を、そっと上から擦る。ひとしきり泣いたあと、彼女は困ったように言った。
「私は王妃になりたいの。だから、あなたに連れ出してもらう気はないわ。でもありがとう。その気持ちがとても嬉しかった」
「……そうか」
はっきりと断られたレオナルドは、気持ちを心の奥にしまいこみ、今日の出来事は思い出にしようと笑顔を向けた。
「ずっと――応援している」
レオナルドにとってはこれが一目惚れであり――初恋だった。
◇◇◇
「ん……」
夢から覚めて、瞼を持ち上げれば長い白銀の髪が視界に映った。初めて会ったとき、虜になった少女の成長した美しい姿が目の前に。紫の双眸と視線がかち合う。
「――よく眠れた?」
「ああ。久しぶりにな」
コルダータの膝を枕にして眠ってしまったらしい。レオナルドを起こさないように彼女はずっと付き合ってくれていたようだ。皇太子という重圧で、ひどい不眠症に悩まされていたが、彼女の傍だと安心してよく眠れた。
(ただ、お前が生きていてくれるだけでよかった)
非業の死を遂げたウェスタレアを哀れに思っていた。でも何の因果か、彼女はコルダータという名を名乗ってこうしてまた目の前に現れた。
白銀の髪をひと束手ですくうように撫でる。彼女もそれを拒まない。
「気持ちが良さそうに眠っていたわ。どんな素敵な夢をご覧に?」
「――懐かしい夢を見ていた。……孤独な姫の夢だ」
自分は一度、ルムゼア王国の隠された令嬢に会っているのだと打ち明ける。コルダータははっとし、目を見開いた。目の前にいる男と10年ぶりの再会であることに気づいたのだろう。
「……ウェスタレア・ルジェーンは悪女です。国家を裏切り、尊い王女様を殺そうとしたのですから」
「俺は彼女を悪人だと思ったことはない。彼女は気高く、崇高な心を持った――最も王妃にふさわしい女性だったと思う」
「…………!」
レオナルドが知るウェスタレアは、ひとりぼっちの離宮で、夢を叶えようと足掻いていた、健気でどこにでもいる普通の少女だった。
「彼女の最期は悲惨なものだった。愛していた民衆から罵声を浴びせられ、石を投げつけられ、親友だと思っていた人に嘲笑され、毒杯を飲み干したのだから……。あまりにも報われない死だわ。でも――」
コルダータは困ったように笑った。
「そのお言葉が、彼女にとって何よりもの救いになるでしょう」
「……届くだろうか、彼女に」
「ええ。届くわ」
コルダータの正体が、毒杯を飲んでなお生き抜き、国を逃げてきたウェスタレアだと気づいている。でも、彼女が過去を捨てて足掻いているのだから、気づいていないフリをしていくつもりだ。
そっと半身を起こして、おもむろに呟く。
「彼女は……俺の初恋だった」
「へ!?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする彼女。その反応がなんだかおかしくて、小さく笑う。
頭上を見上げると、ベンチの上に藤棚があり、小さな花を見事に咲かせている。藤の花は100年ほど前、観賞用として、敵対する前のルムゼア王国から持ち込まれたものだ。手を伸ばすと、紫色の花が手のひらに落ちた。
ウェスタレアは藤を意味する名。気高く美しい花をいつまでも見上げて、愛でていたいと思う。
レオナルドの心は昔も今も、この美しい藤の花に囚われたまま――。




