13_刺繍入りのハンカチ
お茶会当日。
ウェスタレアは馬車に乗り、会場となるペトロフ侯爵邸に向かっていた。
ペトロフ侯爵家は、格式ある騎士家系。最近侯爵が若い娘を妻にしたそうだが、精神的な病気を抱えているとか、過去に犯罪歴があるとか、妙な噂だけは入ってきた。
窓の外を眺めながら、頬杖を着く。
するとある瞬間、往来の中にみすぼらしい少年を見つけた。彼は道の端で大柄な男性に腕を捕まれ、ひどく怒鳴られていた。少年が殴られたのを見て、ウェスタレアは御者に「止めて」と声をかけた。
馬車から降りて、すぐに少年の元に駆け寄る。すっかり怯えた様子の少年を庇うように立ち、男のことを睨みつける。
「あなた、子ども相手に暴力なんてやめなさい」
「邪魔だ退け! そいつは泥棒だ」
「泥棒?」
少年の方を振り返ると、彼は皮袋の財布を握り締めていた。恐らく男のものなのだろう。
「それに俺の靴を踏みやがった!」
彼の靴は踏まれた跡が確かに残っていた。男は財布を返し、靴代を弁償するようにと迫っていた。しかも、弁償代は法外な金額だった。
ウェスタレアが財布を返すように言っても頑なに首を横に振る彼。なぜ盗みをしたのかと尋ねると、少年は深刻そうな顔を浮かべた。
「妹の薬を買わなくちゃいけないんだ」
「……具合が悪いの?」
「朝から熱があって……」
少年は見たところ街の孤児のようだ。貧しくて、薬ひとつ買うことができないのだろう。
「ガキ! いいから財布と靴代を渡せっつーんだ! そこの女も退け。邪魔すんならお前も痛い目に遭わせるぞ!」
「財布はお返しするわ。でも靴代に関しては許してあげて。彼は貧しい孤児なのよ?」
「そんな事情なんて知らねーんだよ! ならお前が代わりに払ってくれんのか!?」
拳が振り上げられるのを見て、ウェスタレアは少年を思わず抱き庇った。殴られる――そう覚悟して固く目を閉じていたが、体に予想していたような衝撃はなかった。
「――そこまでだ」
代わりに聞き覚えのある声が降ってきて、ゆっくりと瞼を持ち上げると、レオが男の腕を掴んでいた。
「彼女に手を上げれば、お前は自警団行きだぞ。彼女は皇妃候補。――彼女への粗暴な振る舞いは、国家を軽視しているのと同義だ」
「皇妃候補……!?」
男はびっくりし、慌てて腕を下ろした。レオは少年の前にかがみ、そっと話しかけた。
「盗ったものを返せ。そしてしっかり謝るんだ。妹を守りたいんだろう?」
「……う、うん。分かった」
子どもに対しては思いのほか優しい口調で、レオの意外な一面を垣間見た気がした。少年は財布を渡し、レオに促されながら謝罪をした。
「財布を盗って……足を踏んで、ごめんなさい」
憤慨していた男だったが、レオの仲裁のおかげで引いてくれた。
少年の腕から血が出ているのを見つける。殴り飛ばされて転んだときに石畳で擦りむいたらしいが今は、手当てするようなものを持っていない。しかし唯一、貴婦人に贈るためのハンカチを持っていることを思い出した。
「お前……そのハンカチは、皇妃選定で使う重要なものだろう?」
レオの呟きを聞きつつ、ウェスタレアはその大切なハンカチで、土や砂利が引っ付いて汚れた傷口を清めた。
「……大事なハンカチ、汚れたけどいいの?」
「そんなこと気にしなくていいの」
ハンカチを患部に巻き、簡単な手当てを終えたあと、少年はレオにも妹の体調のことを打ち明けた。
「早く妹のところに行かないと」
「ええ。分かっているわ。すぐにお医者さんに連れて行ってあげるから」
アルバイト先の薬屋のぽんこつ店主、ダニエルは曲がりなりにも名誉薬師で、医学の知識も豊富。薬が欲しいなら、彼のところに連れて行けばいいだろう。
時計塔の針を見て、選考の時間が迫ってきていることを確認した。それでも、この少年を放っておくことはできない。少年を連れて行こうとすると、レオがため息を吐いた。
「コルダータ。……今日は二次選考だろう。その子どもに構っていたら遅刻するぞ」
「でも無視できない」
「お前は善人なのか悪人なのか分からないな」
「あら、今まで私のことが善人のように見えていたの? 分からない? 今もあなたが『代わりに俺が面倒を見るから』と言ってくれるのを待っているのだけれど」
察しが悪い人ね、と付け加える。選考を控えていることを理解しているなら、そのくらい気を利かせてくれてもいいではないか、と暗にほのめかして。
「…………」
レオはやれやれと肩を竦めて、妹を薬屋に連れて行く役を引き受けた。そして、馬車に戻ろうとするウェスタレアにひと言。
「俺の目には、お前は相当なお人好しに見えるな」
「……別に、そんなんじゃないわ」
ウェスタレアは素直ではないので、つんと澄ました顔を浮かべて背を向けた。
時間ギリギリで、二次選考の会場であるペトロフ侯爵邸に到着した。屋敷の広い客間で、ウェスタレアは10人の候補者たちと顔を合わせた。
まもなく、豪華なお菓子が運ばれて来た。他の令嬢たちは喋ることに熱心で、自分たちしかいないからとマナーなど関係なくお菓子を食べたが、ウェスタレアはただひとり、丁寧な所作で品よくそれらを味わった。
まだ、貴婦人は部屋に来ておらず、だんだんと険悪な空気になっていく。
「ねぇあなた、辞退しなさいって言ってるでしょ」
「そ、それはできません!」
集まってから一時間ほど経ったあと。4人の令嬢がずっと揉めに揉めていた。どうやら、ひとりの令嬢の兄が最近不祥事を起こしたらしく、その妹である彼女には、皇妃選定を受ける資格はないと責められている。
「下級貴族家の分際で生意気なのよ、あなた」
「そんな言い方……っ」
ウェスタレアは傍観して静かにしていたが、追い詰められた令嬢が泣き出したのを見て、はぁとため息を吐く。
「――寄って集ってみっともないわね」
「「なっ……!?」」
「ひとりライバルが減ったところで、大した変化ではないわ。ここにいる全員が――敵。その中で自分が選ばれたいなら、自分をいかに魅せるかを考える方が有意義よ。今のあなたたちはとても醜い姿をしているわ」
鏡を見せましょうか、と挑発的に微笑みかければ、令嬢たちは真っ赤に顔を染めた。
ウェスタレアは手に持っていたティーカップを置き、すぅと目を細める。
「――なぜなら二次選考はすでに始まっているのだから。ね、ペトロフ夫人?」
一向に夫人がやって来ないのは、不自然にカーテンで仕切られた隣のサロンから、こちらを覗き見ているからだろう。お菓子を食べるときの所作、令嬢たちの会話をチェックしているのだ。
そう発言した直後、客間に隣接するサロンのカーテンが開く。奥のサロンから現れたのは、数人の侍女を伴ったまだ若い夫人だった。
「あなたには全部お見通しでしたでしょうか、コルダータ様」
「――!」
ペトロフ夫人として立っていたのは、見覚えのある娘。アルチティス皇国に来る途中、スリド王国でウェスタレアが助けた――脱走した奴隷ライラだった。
「どうして、あなたがここに――」
「お久しぶりです。その節は本当にお世話になりました」
ライラはその場で詳しい事情を話そうとはしなかった。ウェスタレアの頭に疑問符ばかりが浮かぶ中、お茶会は進行していく。
令嬢たちは先ほどの険悪な雰囲気と打って代わり、ひたすらライラに媚びを売って取り入ろうとした。ライラはふいに、ひとりの令嬢に嫌味を言っていた人たちに向けて言う。
「……今は侯爵夫人という地位がございますが、元は下級貴族家出身です。……私もこの地位にふさわしくないとお思いですか?」
「そ、そんな……滅相もございません!」
先ほどまでの会話をしっかり聞いていたのだろう。思わぬところでツケが回ってきた彼女たちは、かっと顔を赤くした。
「では、皆さんのハンカチを見せていただきましょうか。どんな刺繍を施されたのか楽しみです」
皇妃候補者たちは、渾身の一作を次々に見せていった。花だったり模様だったり、どれも素晴らしい出来栄えだ。ライラも楽しそうにそれを観察していく。
そして、ウェスタレアの番がやってきた。しかし、ウェスタレアは肝心要のハンカチを持っていない。少年の怪我を手当てするのに使ってしまったから。
「申し訳ございません。私のハンカチは今……手元にはございません」
すると、令嬢たちがざわめき始めた。今日はハンカチの刺繍を評価してもらうという名目のお茶会。ハンカチがなければ話にならない。
「先ほど偉そうなことを散々おっしゃっていたのに、ハンカチひとつ用意できないとは情けない……」
「あなたこそ、この神聖な選考の場にふさわしくないのでは?」
失格にした方がいいという話が上がる中、ライラがすっと手を挙げた。同時に侍女が、後ろから布が被った板に乗せたハンカチを持ってくる。
「コルダータ様のハンカチはすでにこちらに預かっておりますよ。さぁ、私に紹介してください」
侍女に差し出されたハンカチは、確かにウェスタレアのものだった。少年の血がついて汚れていたはずなのに、綺麗に洗ってある。まだ湿っているので、誰かが洗ってくれたのだろう。ウェスタレアのハンカチを見るやいなや、候補者たちは、その見事な完成度にすっかり黙ってしまった。
(どうしてここにハンカチが……?)
すると、ウェスタレアの疑問を察したかのようにライラが続けて言った。
「実はこのハンカチ、少し前に小さな男の子が届けてくださったんです。怪我の手当てに使ってくれたけれど、大事なものみたいだから返します……と」
その少年は、ウェスタレアが助けた子なのだろうと直感した。彼はコルダータがこの屋敷にいることを聞きつけ、道行く人に場所を訪ねながら走って来てくれたらしい。
「私がハンカチを受け取りたいのは――コルダータ様です。あなたをペトロフ侯爵夫人として、次期皇妃に推挙いたします」
ライラの選択に、もはや誰も反論しなかった。
「選んでいただいたことを後悔させないように、精一杯努力いたします」
ウェスタレアは少し湿ったハンカチを、ライラに渡すのだった。




