薫風
「ココちゃん、ココちゃん、どこ行ってたの?」
「学校」
「いいなぁ、楽しそう」
「そんなに楽しくないよ。勉強つまんないし、町の子は気取ってるし」
「ふーん。でも、ココちゃんと一緒なら楽しそう」
ユノが、ふわりと笑う。
「……ユノも学校に行きたいって言えば?」
「誰に?」
「ヌシ様」
「じゃあ、ココちゃんも一緒に頼んでくれる?」
「いいよ」
私は、ユノと一緒に森へ向かった。
ヌシ様は、村の外れにある森に棲みついている守り神だ。
全身毛むくじゃらで、体だけでなく顔も銀色の毛に覆われているから、目も鼻も口もどこにあるのか分からない。
村に住む爺さまや婆さまが言うには、ヌシ様のおかげで森の恵みを享受できるのだから、感謝して敬わなければいけないのだとか。
森の中へ足を踏み入れると、夏なのにひんやりとした空気が体を包む。
「ヌシ様ー! ただいま戻りました」
ユノの声が、木々の間に響き渡る。
ひゅるりとつむじ風を巻き起こしながら、ヌシ様が姿を現した。
立っていると、こんもりとした銀色の藁の山みたいに見える。
まぁ、銀色の藁山なんか実際に見たことは無いのだけれど。
「ヌシ様、私……ココちゃんと一緒に町の学校へ行きたいんです」
ヌシ様は、何やらフガフガモゴモゴと返事をした。
「ええ、大丈夫です。ヌシ様のところから逃げ出そうなんて、考えていませんから」
それから更にフゴフゴと何事かをユノに告げると、ヌシ様は私達に背を向け、ゆっくりと森の奥に向かって歩き出した。
「ココちゃん! ヌシ様からのお許しがもらえたよ」
ユノは喜びを弾けさせながら、私に抱きついてきた。
やわらかな金色の髪が、私の頬をくすぐる。
「よかったね」
「うん! それでね、学校へ行くのに必要な道具やお洋服を、村のみんなに用意してもらいたいんだけど……」
「分かった。みんなに伝えとくね」
「ココちゃん大好き! ありがとう!」
ユノは私の体に巻きつけた腕に力を込めて、ぎゅうぎゅう抱きしめた。
ユノは、数年前にどこかから攫われてきた。
ある日突然、森の中に現れた美しい少女に、村の子供達は度肝を抜かれた。
だが、大人達は顔色一つ変えずに彼女を受け入れ、衣服や食べ物などの生活必需品を、日替わりで森の入口まで届けた。
「あの子は誰? どこから来たの?」
私が両親に尋ねると
「さあ、知らない。だけど、あの森にいるってことは、ヌシ様に選ばれた大切な存在ってことだ。村のみんなで大事にしなきゃいけない。お前もあの子に優しくするんだよ」
という答えが返ってきた。
村に住む爺さま婆さま達によると、ヌシ様は過去にも何度か子供を攫ってきたことがあるらしい。
「どの子もみんな美しい容姿をしていたけれど、可哀想な生い立ちの子ばかりでね。あの子もきっと、酷い目に遭っていたところをヌシ様に助けられたんだろう」
そんな話を大人達から聞かされて育った村の子供達は、ヌシ様を英雄のように崇めていた。
一方で私は
「嘘くさっ。可哀想な生い立ちの子なんて星の数ほどいるはずなのに、あの子だけ助けるなんて変じゃない。きっと、あの子がとても可愛い顔をしているから、どうしても手に入れたくなって連れてきちゃったんだわ。英雄どころか罪人じゃないの」
と心の中で毒づいていた。
だがしかし、後日ユノ本人から聞かされた話は、大人達の言った通りの内容であった。
ある日、母親から
「木苺のパイを森へ届けてきて」
とお使いを頼まれた私は、初めてユノと会話をした。
「こんにちは」
蜂蜜色の長い髪を揺らしながら、小首を傾げて挨拶の言葉を投げかけてくるユノは、町の教会の壁画に描かれた天使にそっくりだった。
しばし見惚れて立ち尽くす私に、ユノが微笑みかけてくる。
「それ、とっても良い香りがするわね。もしかしてアップルパイ?」
「あっ、えっと……違う。これは、木苺で作ったパイなの」
「わあ! 嬉しい! 木苺のパイをもらうのは初めてよ! ねぇ、良かったら一緒に食べない? ヌシ様は人間の作った食べ物を召し上がらないから、いつも私一人で食べてるんだけど……ちょっと寂しくて」
瞳を潤ませて見つめてくるユノの頼みを、断われる者などいるだろうか。
私は緊張の面持ちで頷き、四等分に切り分けられた小さめの木苺パイを、ユノと二人で仲良く半分こにして食べた。
その時に聞かされたのが、ユノの悲しい生い立ちだった。
娼館で働く母の元に生まれたユノは、十歳を過ぎる頃には客を取るよう迫られたそうだ。
そこへ、ヌシ様が現れて連れ出してくれたのだという。
だけど、どうしてヌシ様はユノだけを助けたのだろう。
その疑問についての答えは出ないまま、月日は過ぎていった。
ユノは何故か私のことを気に入ってくれて、森へ届け物をする度にお喋りをしたり、遊んだりするようになった。
そしてヌシ様も時々私の前に姿を見せるようになり、モガモガフグフグと何やら話しかけてきたり、透き通った泉で水遊びをさせてくれたりと、我々は徐々に打ち解けていった。
ユノが登校した初日、学校中の生徒が彼女の姿を一目見ようと教室に押しかけてきた。
小さな村の外れにある森の中で、粗末な布の服に身を包んでいた時のユノも、それはそれで十分に美しかったのだが、学校の制服を身にまとい、髪の毛を綺麗に結い上げて微笑むユノは、目も眩むような神々しい輝きを放っていた。
十五歳になり、私達は高等教育が受けられる学園に進学した。
ますます美しくなったユノは、瞬く間に学園の女神として祭り上げられ、多くの人々を虜にした。
そして、その中でもとびきり優秀で人望の厚い、裕福な商人の息子が、ユノの心を射止めた。
彼らは全生徒からの羨望の的であり、憧れであり、理想であったが、唯一の問題はユノの生い立ちであった。
商人の息子である彼の方には、親の決めた婚約者がいて、両親はユノとの交際も結婚も断じて認めないと怒り狂い、ヌシ様のところへ怒鳴り込んできた。
ヌシ様は、びゅおおと竜巻を起こして彼の両親を町まで吹き飛ばしてしまったので、それ以降は表立って文句を言われることは無くなったが、「あんな化け物に育てられた娘など、絶対に受け入れられない」と彼の両親はますますユノに嫌悪感を抱くようになり、二人が将来的に結ばれる可能性は、限りなくゼロに近付いた。
数年後、学園を卒業した翌日に、ユノと彼は駆け落ちをした。
その噂は町中に広まり、村へも届き、私は急いで森へと向かった。
「ヌシ様! ヌシ様!」
私の呼ぶ声に、ひゅう、という寂しい音を立ててヌシ様が姿を見せた。
「ユノが駆け落ちしたって聞いて……あの子がどこへ行ったか、ヌシ様はご存知ですか?」
私の問いに、ヌシ様は弱々しく首を横に振る。
「もしかして……何も聞かされていなかったんですか?」
ヌシ様が力なく頷く。
私の腹の底から、ふつふつと怒りが湧いてきた。
酷い。
私にも、ヌシ様にも何も言わずに居なくなっちゃうなんて。
私は身勝手なユノの行動に怒りを覚えたが、ヌシ様は寂しそうな様子でぼんやりと空を見上げ、深いため息を吐くばかりだった。
それからしばらくして、ユノから私宛てに手紙が届いた。
手紙は、私とヌシ様に対する謝罪と感謝の言葉で始まり、今は隣国の港町で暮らしていることや、息子が生まれたこと。家族三人で慎ましく、穏やかな日々を送っていることなどが綴られており、最後は『いつかまた、ココちゃんとヌシ様に会える日を楽しみにしています』という言葉で結ばれていた。
住所は書かれていなかったから、返事を出すことは出来なかった。
私は散々迷った挙句、ユノからの手紙をヌシ様にも見せに行った。
手紙を読み上げると、ヌシ様はムグゥと奇妙な声をあげ、すぐに背を向けてどこかへ行ってしまった。
ユノの行方が分からないまま時は流れ、私は同じ村に住む青年と結婚して娘を産んだ。
娘のディアナが七歳になる頃、ヌシ様は再び女の子を攫ってきた。
その少女はミネルヴァという名で、奴隷商人に売り飛ばされそうになっていたところを、ヌシ様に救い出されたという話であった。
ミネルヴァは、きりりとした目元が印象的な美しい顔立ちで、妖精のように愛らしかったユノとは違うタイプであったが、人々を惹きつける美貌の持ち主という点では共通するところがあった。
彼女の姿を見た私は「やっぱりヌシ様は、助ける相手を顔で選んでるんだろうな」と少し呆れた気持ちになった。
かつての私とユノのように、娘のディアナとミネルヴァも親友となり、一緒に学校へ通い始めた。
ミネルヴァに言い寄る男子生徒は多かったようだが、彼女は脇目もふらず勉強に身を入れ、特待生として名門校に進学した。
非常に優秀な成績で名門校を卒業した翌日、ミネルヴァは置き手紙を一つ残して姿を消した。
『尊敬する研究者の元で、更なる勉学に励みたいと思います。今まで大変お世話になりました。ヌシ様のそばを離れないという約束を、守ることが出来なくてごめんなさい。いつか必ず、恩返しをしに戻って参ります』
私が手紙を読み上げると、ヌシ様はブフゥと深い深いため息をつき、地べたに座り込んでしまった。
娘のディアナが、心配そうにヌシ様に近付いて背中をさする。
ディアナはミネルヴァがいなくなることを知っていたようで、黙っていたことに罪悪感があるのか、申し訳なさそうな顔をしながらヌシ様に寄り添っている。
私は大きく息を吸い込んでから、ヌシ様に語りかけた。
「ヌシ様、もう女の子を攫ってくるのはやめませんか? あなたは、彼女達を助けたかったというよりも、行き場の無い子供達の中から自分好みの女の子を選んで手元に置き、ご自身の寂しさを埋めようとしていたように見えます」
私の言葉にカッとなったのか、ヌシ様は全身の毛をハリネズミのように逆立てた。
背中に手を当てていたディアナが驚いて、小さな悲鳴をあげる。
慌てて彼女に駆け寄りヌシ様から引き離そうとしたが、ディアナは
「すぐに手を離したから大丈夫」
と言ってヌシ様のそばを離れようとしない。
「……ヌシ様、あなたを怒らせるつもりはなかったんです。ただ私は、これ以上ヌシ様に寂しい思いをして欲しくないだけなんです」
ヌシ様の毛は逆立ったままだったが、うつむいていた顔をあげて私の方を向いた。
「行き場の無い子供に居場所を与えてあげれば、懐いてくれるでしょうし、感謝もしてくれるでしょう。だけど子供というものは、成長して自分の力で生きていくことが出来るようになれば、自然と離れていってしまうものです。それを喜ばしいことだと思えないのであれば、こんなことはもうやめるべきです」
そう言って、私はそっとヌシ様の背中に触れた。
ぴんと尖っていた銀色の毛が、徐々に柔らかさを取り戻していく。
「あなたが何も与えなくたって、そばにいてくれる。そういう相手と関係を築いていった方が、寂しい気持ちにならないんじゃないかなって、私は思うんですけど」
私の言葉に、ヌシ様が首をかしげる。
「もちろん、そんな都合の良い相手が向こうから寄ってきてくれるわけではありませんよ。日々の暮らしの中での出会いを大切にして、一緒に楽しい時間を過ごしたり喧嘩をしたりしながら、気の合う相手と友愛を深めていくんです」
かつての私が、ユノと友情を育んだように。
娘とミネルヴァが、固い絆で結ばれた友人になったように。
時間をかけて、ぶつかり合って、お互いのことを少しずつ理解していくのだ。
ヌシ様は何やらモガモガ言いながら、私の手を握った。
長く鋭い爪が私の手に突き刺さってちょっと痛かったけれど、気持ちがちゃんと伝わったような気がして嬉しかった。
「あと……これは余計なお世話かもしれませんが、相手の容姿にはあまりこだわらない方が良いと思います。見た目の美しさは、おまけのようなものだと考えて、居心地の良さを重視する方が、実り多い未来になるのではないかと……」
そこまで話してから、再びヌシ様を怒らせるようなことを言ってしまったのではないかと心配になり、私はこっそりと顔色を伺った。
とは言っても毛むくじゃらでどんな表情をしているのかはさっぱり分からなかったが、銀色の毛は逆立つことなく柔らかなままだったので、気を悪くしているわけでは無さそうだった。
その日から、私とディアナは暇を見つけては森を訪れて、ヌシ様と共に時間を過ごした。
そのうち、ディアナは一人でもヌシ様のところへ会いに行くようになり、いつの間にか結婚の約束を交わすまでの間柄になっていた。
私の夫は当初、娘がヌシ様の花嫁となることに反対していたものの、「森の守り神との結婚に反対するとは何事か」と村の爺さまや婆さまに説得されて、最終的には渋々と承諾した。
森が若葉の香りに包まれる季節となり、ヌシ様とディアナは大きな木の下で花冠を交換し、めでたく夫婦となった。
そしてその夜の宴には、ユノとミネルヴァも祝福に駆けつけてくれた。
ユノと私は卒業式の日に別れたきり一度も会っていなかったが、ヌシ様はこっそりと彼女の居場所を探し出して時々会いに行っていたらしい。
「息子のことも凄く可愛がってくれて、ヌシ様は私の本当の親みたいだねって、夫といつも話しているの」
そう語るユノに対して私は少々複雑な気持ちを抱いたが、今さら昔のことをあれこれ言っても仕方がないと思い直し、愛想笑いを浮かべながら当たり障りのない相槌を打った。
娘のディアナは、私や夫に似て地味な顔立ちだ。
ユノやミネルヴァの近くにいると、より一層その平凡さが際立つ。
たぶんディアナの容姿は、ヌシ様の好みからかけ離れているはずだ。
それでもヌシ様は、彼女を生涯の伴侶にすると決めた。
容姿にこだわることをやめて、ディアナの心に惚れ込んでくれたんだろうなと思うと、何だか感慨深いものがあり、鼻の奥がツンとした。
「ココちゃん、これ使って」
涙をこらえている私の様子に気付いたユノが、さりげなくハンカチを差し出してくれる。
私はありがたくそれを受け取り、そっと目元を押さえた。
「ヌシ様、とっても嬉しそうだわ」
そう言うユノの表情も、喜びにあふれている。
「そうね、ディアナも幸せそうな顔をしてる」
ユノと会話を交わしながら、私は彼女と出会った日のことを思い出していた。
「ココちゃん、木苺のパイを一緒に食べた日のこと……覚えてる?」
「覚えてるよ。私も今ちょうど、その時のことを思い出していたところ」
「また、ココちゃんと一緒に木苺のパイを食べたいな」
「いいね、そうしよう」
私の返事に、ユノの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「学園を卒業した後、何も言わずに居なくなってごめんね」
「もう気にしなくていいよ」
私は、ユノに借りたハンカチで彼女の涙を拭った。
「手紙を出した後、すぐにヌシ様が私の居場所を探し出して会いにきてくれたんだけど、その時にココちゃんが怒ってるって聞いて……嫌われちゃったんじゃないかと思うと怖くて、なかなか会いに来られなかったの」
「怒ってたのは確かだけど、嫌いになんかなってないよ」
「……近いうちにまた、遊びに来てもいい?」
「うん、いつでもおいで。特大の木苺パイを焼いてあげる」
私の言葉に、ユノがふわりと笑う。
あの頃と何も変わらない、優しい温もりが伝わってくる笑顔だった。
胸の奥にあったわだかまりが少しずつ解けていくのを感じながら、私は穏やかな気持ちでユノに微笑みを返した。