幸福な嘘
早川若菜は、嘘つきだ。
可愛らしい顔と声で、次から次へと嘘をつく。
中学一年生の秋に転校してきた彼女は、その愛くるしい見た目と華やかな生い立ちで、みんなを虜にした。
そして休み時間のたびにクラスメイト達に囲まれ、頬を紅潮させながら得意げに嘘を撒き散らす。
うちのお父さんデザイナーなの。
お母さんは元モデル。
二人はファッションショーで出会って、結婚してからは海外で暮らしてたんだって。でも、子育ては日本でしたいって思ったらしくて、私が生まれた後に日本へ帰って来たの。
帰国してからはずっと東京に住んでたんだけど、お母さんが病気になっちゃって……。お医者さんから「空気のきれいなところで暮らした方が良い」って言われて、ここに引っ越して来たの。
彼女の話を聞きながら、女子達は「いいなー」とか「すごーい」などと感嘆の声を上げ、羨望の眼差しを向けていた。
早川若菜は転入初日にして一躍クラスの人気者となり、誰もが彼女と友達になりたがった。
でも、俺は知っていた。
彼女が嘘をついといるということを。
そして、その嘘がすぐに露見してしまうであろうことも。
俺の両親は旅館を営んでいて、少し前に新しい従業員を雇ったばかりだ。
その従業員というのが、若菜の母親だった。
「夫の暴力に耐え切れず、娘を連れて逃げ出してきた」と語る彼女に、いたく同情した俺の両親は即採用を決め、住む場所まで世話してやったのだ。
その日の放課後、帰り道で若菜を捕まえた俺は
「すぐにバレる嘘はつかない方がいいよ」
と忠告した。
「え?」
「俺、お前の母親が働いてる旅館の息子なんだよ」
「……お願い、誰にも言わないで」
「俺が言わなくたって、すぐにバレるよ。この町はすぐに噂が広まる。明日、みんなに謝れよ。原田とかに声かけて協力してやるから。あいつが『嘘かよー! 信じちゃったじゃん、騙されたー!』とか言えば、たぶん笑い話になるから」
俺の提案に、若菜は無言だった。
そして、うちの旅館が従業員用に借り上げているアパートの前まで来ると、若菜はいきなり走り出して自宅の玄関の鍵を開け、中へ入って勢いよくドアを閉めた。
なんだよ、あの態度。
俺は苛立ちを覚えながら、旅館の裏手にある自分の家へと帰った。
翌日、少し早めに学校へ行くと、若菜の嘘は既にバレていた。
女子達はみんな
「何あいつ」
「嘘つきじゃん」
と憤っており、教室中に嫌な空気が充満していた。
俺は、クラスのムードメーカーである原田を廊下に連れ出して
「早川が来たら、どうにかして笑い話に持っていってくれ」
と頼んだ。
「笑い話にするのは無理だろ」
「そこを何とか」
などと二人でヒソヒソやっているところへ、若菜が登校してきた。
廊下にいる俺と原田の前を無言で通り過ぎて、教室の中へ入って行く。
「おはよう」
若菜の挨拶に、返事をする者は一人もいなかった。
「……みんな、どうしたの?」
か細い声で若菜が問いかける。
「嘘つき」
怒りを含んだ女子達の声が、廊下にまで届いてきた。
「あんたの母親、花澤旅館で働いてるんでしょ? うちのお母さんが言ってたよ。病気じゃないじゃん」
「暴力を振るう父親から逃げ出して来たって聞いたよ。何がデザイナーだよ! ただのクズ親父じゃん」
「海外にいたとか東京に住んでたとか、それも全部嘘なんじゃないの?」
「何で黙ってんの? 何か言いなよ!」
「てゆーか、謝れよ!」
女子達からの吊し上げをくらった若菜は、下を向いている。
俺は原田に目配せをしてフォローに入ってもらおうとしたが、原田は小声で「無理無理」と言って首を横に振る。
仕方がない。こうなったらもう、自分でやるしかない。
俺は息を大きく吸い込んでから教室の中へ飛び込み、大声を出した。
「何だよー! 早川の話、嘘だったのかよ!? 俺、信じちゃったじゃん! 騙されたー!」
精一杯の明るい声と笑顔で空気を変えようとしたが、無理だった。
静まり返った教室の中心から、女子のリーダー格である伊藤が
「は? 何なの? ていうか、こいつの母親って花澤旅館で働いてるんだから、息子のあんたが知らないわけないじゃん」
と言って俺を睨みつける。
他の女子達からも冷ややかな視線を浴びせられて、いたたまれない気持ちになる。
あー、失敗した。
死にたい気分だ。
誰か俺を殺してくれ。
変な汗をかきながら立ち尽くす俺の横で、若菜が顔を上げた。
泣きそうな顔をしているのかと思いきや、毅然とした表情で女子の中心にいる伊藤をじっと見つめている。
「こっち見んなよ! 嘘つき!」
伊藤がヒステリックな声を上げたところでチャイムが鳴り、担任の川上が教室へ入って来た。
「お前ら何やってんだ。ほら、早く席に着け」
みんなが席に着くと、川上が出席をとり始める。
俺はその声を聞きながら、若菜の華奢な背中をぼんやりと眺めていた。
転入二日目で、若菜は完全に孤立した。
休み時間も教室移動も一人ぼっち。
給食の時間は班ごとに机を向かい合わせて食べるのだが、その時も若菜の机だけ少し離されていた。
そして放課後。昇降口のところには、唇を噛み締めながら下駄箱を睨んでいる若菜がいた。
どうしたんだろうと気になって後ろから覗き込むと、若菜の視線の先には、絵の具をたっぷりと流し込まれた靴があった。
陰険だなぁ。
思わず溜め息が漏れる。
若菜は俺の顔をチラッと見てから、無言で靴に手を伸ばした。
「おい、履いて帰る気か? やめとけよ。俺の靴、貸してやるからさ」
俺は慌てて自分の靴を取り出し、若菜の方へと差し出す。
「……花澤くんはどうするの?」
「上履きのまま帰る」
「ああ、そっか。その手があったね」
若菜はそう言うと、汚された靴を手に持ち、上履きのまま外に向かって歩き出した。
「靴、貸してやるって」
俺も上履きのまま、自分の靴を手に持って若菜の後を追いかけた。
「いい。サイズ合わないだろうし」
そうか、確かにそうだな。
俺は自分の間抜けさに嫌気がさしながら、若菜の少し後ろを歩く。
若菜がこちらを振り向き
「ついてこないでよ」
と言うので
「しょうがないだろ! 俺の家もこっちの方角なんだから」
と言い返したら、少し笑われた。
「明日、みんなに謝れよ」
「何で?」
「何でって……嘘ついたからだろ」
「誰にも迷惑かけてないじゃん」
「嘘つかれたら嫌だろ」
「花澤くんだって、嘘ついたことあるでしょ?」
「あるけどさ。でも、めったにないよ。……大体、何であんな嘘ついたんだよ」
「……嘘ついてる間だけは、幸せな気分でいられるから」
若菜の答えに、俺は足を止めた。
父親に殴られる日々から、母親と逃げ出してきた若菜。
彼女が幸福を感じられるのは、嘘をついている時だけなのかもしれない。
理想の両親と過ごす、夢みたいな生活。
彼女の嘘は、誰かを騙すためのものじゃない。
きっと、自分の心を守るためのものなのだ。
「……じゃあさ、嘘つくのは俺の前だけにしときなよ。いくらでも聞いてやるから」
「何それ。同情してんの?」
「違う。同情って、可哀想な奴だなって思うことだろ? 俺は別に早川のこと可哀想だと思ってないから。逆だから。だってお前、嘘ついて幸せな気分になることで、色んなことを乗り越えようとしてんだろ? 頑張ってるじゃん。全然、可哀想な奴じゃないじゃん。どっちかって言うと、凄い奴じゃん」
「……花澤くんって、変な人だね」
「よく言われるよ」
俺がムッとした顔をすると、若菜は声を上げて笑った。
その後も若菜は女子の中で孤立したままだったが、放課後はいつも俺と一緒に帰った。
「週末に東京へ行ったら、スカウトされたんだ」
「お母さんのモデル仲間だった人から、たくさん服とかメイクの道具をもらったの」
「東京に住んでた時の幼馴染から、電話で告白されちゃった」
そんな風に、若菜は俺の前でだけ嘘をつき続けた。
仲良くなるにつれて、俺は彼女のことを「早川」ではなく「若菜」と呼ぶようになり、彼女も俺のことを「花澤くん」ではなく「葵くん」と呼ぶようになった。
それから数ヶ月後のある日、若菜は突然引っ越すことになった。
若菜と母親の居場所を突き止めた父親が旅館に乗り込んできて、一悶着あったのだ。
何とか父親を追い返したものの「きっとまたやって来るだろうから、もうここにはいられない」ということで、この町を出て行くことにしたらしい。
「お母さんがモデルに復帰することになったから、東京に戻るね」
若菜は最後まで嘘をつき通して、俺の前から姿を消した。
十年が経ち、大学を卒業して旅館の後を継ぐために働き始めた頃、俺宛てに一通の封筒が届いた。
差出人の名前は無く、不審に思いながら封を開けると、中には演劇のチケットと一枚の便箋が入っていた。
『初めて、まともなセリフのある役をもらえました。もしよかったら、観に来てください』
便箋の右下の方には『早川若菜』と名前が記されていた。
チケットに記載された公演日は一ヶ月後。場所は東京だ。
俺は前もって休みを申請し、上京して観劇することにした。
劇場は想像よりもずっと狭くて小さなところで、観客の数もまばらだった。
どうやら、そんなに知名度のある劇団ではないらしい。
指定の席に着いた俺は、ふと不安に襲われた。
本当に、若菜は今日の公演に出演するのだろうか。
あの頃のように、嘘をついているのではないだろうか。
そこまで考えて、俺は自分の考えを打ち消した。
いや、違う。
もし嘘なら、もっと煌びやかな舞台を選んだはずだ。
だからきっと、若菜は今日の公演に出演する。
俺は、そう自分に言い聞かせた。
開演時間になり、幕が上がる。
真っ暗な舞台の上にスポットライトが当たり、一人の女性の姿が浮かび上がった。
若菜だ。
十年の月日が過ぎても、すぐに分かった。
彼女は、舞台の上でスポットライトを浴びながら、長いセリフを朗々と歌い上げるように口にした。
体の芯にまで届くような、美しい響きを持った声だった。
自分が幸せを感じるためだけに、嘘を積み重ねた少女。
大人になった彼女は今、観客に幸福なひと時を分け与えるために、眩しい光の中で偽りの役を演じている。
幕が降りた後、会いに行こう。
嘘が上手くなったなって、伝えよう。
そんなことを考えながら、俺は舞台の上に立つ若菜の姿を目に焼き付けていた。