天使のスープ
天使のマチルダは、人間の世界で食堂を開いている。
メニューはスープのみで、一日に一人しか味わうことが出来ない。
客がカウンター席に座って悩みを打ち明けると、マチルダは厨房にある大きな鍋に材料をぶち込み、グルグルとかき混ぜながら透き通るような声で歌う。
瞬く間に出来上がる天使のスープ。
飲み干せば悩みは消え去り、幸福感に包まれる。
要するに、麻薬のようなものである。
そんな怪しげなスープを飲みに来るのは、まともな人間ではない。
悪人、罪人、世捨て人。
行き場をなくした人間達が最後に辿り着くのが、マチルダの食堂だ。
今夜も一人の男が、月明かりに照らされた食堂の扉を押し開けて中に入ってくる。
「昔、子供を捨てたんだ」
彼はカウンター席に着くなり話し始める。
マチルダは何も言わずに男の目を見つめた。
すると彼は視線を泳がせながら
「……本当は捨てたんじゃない。売ったんだ。酒代が欲しくて、売った」
と呟く。
それを聞いたマチルダが
「願いは?」
と尋ねると
「許されたい」
と男が答える。
マチルダは頷いて厨房に入り、スープを作り始めた。
棚に並べられた無数の小瓶の中から、いくつか選んで手に取り、鍋の中へと入れていく。
瓶の中身が足されるたびにスープは色を変え、食欲をそそる香りが漂い出す。
男は待ちきれないようにカウンターから身を乗り出し、厨房を覗き込んでいる。
マチルダは完成したスープを皿に注いで差し出した。
彼はスプーンでひと匙すくい、口をつける。
ほう、とため息を一つ漏らしてから、ゆっくりと味わうように残りのスープを胃袋におさめた。
皿を空にした男は、穏やかな笑みを浮かべていかにも幸福そうであった。
マチルダはそっと彼の手に触れて生命力を吸い取る。
指先から、男の人生が流れ込んできた。
貧しい農村に生まれ、人買いに売られた幼少期。
家畜のような扱いに耐えきれず、売られた屋敷を飛び出して路上生活を始めた少年期。
犯罪に手を染めながら命を繋いだ青年期。
そして彼は、一人の子供に出会った。
教会の前に佇むその少年に、かつての自分を重ね合わせたのだろうか。
若かりし頃の男は、持っていたパンをひとかけ少年の手に握らせてやった。
その日から、少年と男は行動を共にするようになった。
数年が経ったある日、二人に転機が訪れる。
悪党どもが旅の商人を襲っている場面に出くわしたのだ。
相手は三人、こちらは二人。
獲物を横取りするには、少し分が悪い。
だが、成長した少年は自分の腕っぷしに自信があったし、血の気も多かった。
止める間もなく少年が三人組の暴漢に殴りかかっていくので、仕方なく男も棒切れを拾って加勢し、何とか撃退することに成功した。
危ないところを助けてもらったと勘違いした商人は、震える声で感謝の言葉を述べた後、二人を護衛として雇いたいと言い出した。
提示された金額はなかなかのものだったし、途中で面倒になったら始末して金品を奪えばいい。
そう考えた二人は、商人の護衛をしながら旅のお供をすることにした。
一つ誤算があったとすれば、この商人が信じられないくらいのお人好しだったということだ。
商人は薬草についての知識が豊富で、作った薬を売り歩きながら旅をしていた。
立ち寄った町や村で「薬の作り方を教えてほしい」と頼まれることがあると、彼は惜しげもなく自分の知識を分け与えてやる。
「そんなことをしたら、薬が売れなくなるじゃないか」
と男が忠告したら
「いいんだよ。ここに定住するわけじゃないし、俺が去った後に薬が必要になった時、作れる人間がいれば助かるだろう? 俺は金儲けがしたいわけじゃないんだ。人助けがしたいんだよ」
と聖人のような言葉が返ってきた。
バカバカしい。
人に親切にしたって、良いことなんか何もないのに。
いつか痛い目をみて泣くことになるぞ。
男はそう思う反面、もしもこの商人に酷いことをするような奴がいたら、俺はきっとそいつを許さないだろうな、とも思った。
少年もすっかり商人に懐き、薬の作り方を教わりながら、助手のような役割を担うようになっていった。
そしてある日、大きな町で薬を売っていると、商人達は老婦人が住むお屋敷に呼ばれて、病の治療を依頼された。
商人は手を尽くして治療に励んだが、なかなか回復しない。
日に日に弱っていく老婦人だったが、献身的な看病を続ける商人のことを心から信頼し、いつしか二人は本物の家族のように打ち解けた間柄となっていった。
しかし懸命な治療も虚しく、数ヶ月に及ぶ闘病の末に老婦人はこの世を去った。
涙にくれる商人に、老婦人の遺言が告げられた。
それは、全ての財産をこの商人に譲るというものだった。
財産といっても、ちょっとした蓄えくらいしか無かったが、お屋敷と合わせれば悪くない話だ。
老婦人に身寄りはなく、商人が相続を断れば、どこかの悪党が聞きつけて財産を掠め取っていくかもしれない。
男は固辞する商人を説得して、なんとか相続させた。
さて、この後どうするか。
男は腕を組んで考え込む。
商人を始末して財産を奪い取り、少年と山分けするか。
だが、頭に浮かんだその考えを、実行する気にはなれなかった。
かと言って、さんざん悪行の限りを尽くしてきた自分に、今更まともな暮らしが出来るとも思わない。
だから、男は商人に言った。
「お屋敷も手に入ったし、腰を落ち着けるんだろう? だったらここでお別れだな」
「寂しいことを言うね。君達もここで暮らせば良いじゃないか。薬屋を開くつもりだから、手伝ってくれよ」
男は商人の申し出を鼻で笑い飛ばす。
「冗談じゃない。そんなつまらない暮らしはお断りだ。俺は何にも縛られずに自由にやりたいんだよ。ただ、金貨を一袋くれたら、あいつは置いていってもいいぞ」
男の言葉に、商人は眉をひそめる。
「どういうつもりだ? あの子を売るって言うのか?」
「そうだよ。助手がいた方が助かるだろう? 早く金貨をよこせよ」
商人は考え直して欲しいと懇願したが、男は意見を変えなかった。
男を引き留めることはできないと悟った商人は
「……これは、あの子を買うための金じゃない。これまでの護衛のお礼だ」
と言って、金貨を袋に入れて差し出した。
「何でもいいよ。俺はもう、善人面した奴らと一緒に生きるのはうんざりなんだ」
男は奪い取るようにして金貨の入った袋を引ったくると、少年に別れも告げず、姿を消した。
そこからの男の人生は、酷いものだった。
酒に溺れて、騙し騙され、奪い奪われ、何もかもを失い、最後に救いを求めて天使の食堂へと辿り着いたのだ。
「吸い取りすぎじゃない?」
あどけない声に振り向くと、見習い天使のフレデリカがマチルダを見上げている。
確かに、生命力を吸い取り過ぎてしまったようだ。
男はカラカラに乾いて小さくなり、萎びたニンジンのようになって床に転がっている。
「そうね、ちょっと吸い取り過ぎたわ。これじゃあ、あまり良いスープの素にはならないわね」
マチルダは干からびた男を摘み上げ、カウンターの上に置いてある空き瓶の一つに放り込む。
「ねえ、この人は許されたの?」
フレデリカが瓶の中身を指差しながらマチルダに尋ねる。
「ええ、もちろんよ。天使のスープを飲めば、どんな願いだって叶うんだから。命と引き換えにね」
マチルダは優しい声で答えながら瓶の蓋を閉め、厨房の中にある棚の片隅に、新しく手に入れたスープの材料を並べた。