雪の記憶
「ねぇ、レグン。レグンは、冬って好き?」
「うーん、どうだろうね。リュフェスタも冬は厳しい方だけど、備えはあるし、冬の女王が基本的には冬の厳しさを和らげてくれるからね。死者が出たとしても、運悪く病を患ったか、酔っ払いかぐらいだったからね」
「そう。リュフェスタって良い国ね。この国とは大違いだわ」
シュネーはそう言って、窓の外に見える石造りの街並みを、見下ろす。
素朴と言えば聞こえはいいが、貧しさの目立つ佇まいだ。
小さい家が多く、竈に火を入れられない家さえある。
誰もが必要とするから、貧民にとっては薪は貴重品だ。
冬支度で十分な量を確保出来なければ、一家の弱い者から順番に命を落としかねない。
雪に振り込められ、人の往来が絶えた中、誰にも気が付かれずに家族が凍死していたなんてことも、ままある。
自分自身のものではないそういう貧しさを、幼い頃に目にして、刻み付けられた記憶を、シュネーは忘れることが出来ない。
城に出入りしていた下働きの後をたまたま追い掛けて、知り合った町の子どもたち。
お人好しで、人の粗相を押し付けられた下働きの彼女の一家が困窮するのを、見ているしかなかった。
唯一の後継者など名ばかりで、冷遇されているシュネーに彼らをどうこう出来る力などなくて、雪に振り込められて行き来が途絶えたある日。
やっと城を抜け出し、シュネーが手に出来るだけの僅かな食べ物を持って彼らの元へ向かって。
人だかりに胸騒ぎを覚えたシュネーは、顔見知りになった近所のおばちゃんにサッと目元を覆われてその場から引き離された。
『見るんじゃないよ、清めが済むまでは闇に魅入られるかもしれないからね』
俯きがちに家へと入る年嵩の術者の、擦り切れた濃い灰色のローブの色もはっきりと覚えている。
空は、どこか灰色がかった鈍い青をしていて、そこに申し訳程度に光る太陽も、どこかくすんで弱々しい色をしていた。
口元を覆っていた布がずれて吸い込んだ空気は、喉を焼く冷たさで、かじかむ指先は針で刺されたように痛んだ。
『可哀そうに、この寒いのに焚き付ける木もなけりゃ、食い物もないんじゃ、ね。幸いなのは、生き残りがいないことかねぇ』
背を丸めてあかぎれだらけの手を擦り合わせるその人も、古着を何枚も重ね、しのぎ切れない寒さに身を震わせていたのを、覚えている。
忘れられないのだ。
容易く消える命のことが。
失われたそれを、まだ最悪の状況じゃないと、静かに受け入れる人々のことが。
シュネーは、知らなかった。
そんな風に失われていく命のことを、考えたことすらなかった。
身を翻して城の自室に逃げ帰り、温かなベッドに包まって泣いた。
暖炉には赤々と炎が踊り、音に気付いて駆け寄って来たロザリーの母のリネットに抱き着いて、気が済むまで泣いた。
今思えば、あの頃は母が亡くなったばかりで人恋しかったのだろうと思う。
それが、思いがけず悲惨な結果になった。
度々城を抜け出すシュネーの様子を気に掛けながらも、リネットは何も言わずに好きにさせてくれていた。
そして、シュネーが逃げ帰ったその日も、何も問わなかった。
何も言わずシュネーの背を撫で続けるリネットの手も、あかぎれひとつなく白く滑らかで、そのことがシュネーには妙に胸に迫った。
「シュネー」
名を呼ばれて、シュネーは物思いから現実に引き戻され、レグンを見つめる。
柔らかく微笑むレグンは、訪れる春を思わせる。
「貴女なら、出来るよ」
思い出の中で、同じようなことを言われた。
灰色に沈んだ世界、くすんだ色味の中で、まっすぐに見つめる瞳だけが鮮やかな緑だった。
魔を退ける柊のような、冬に枯れない宿木のような、枯れない生命の色。
『お前なら、出来るよ』
ニッと、歯を見せて笑った痩せっぽちの少年。
もう、どこにもいないけれど。
この胸に、残していってくれた思いがある。
知らず知らず託された、この思いを、忘れない。
私に出来るのは、それだけだから。
「ねぇ、レグン」
「うん?」
「雪って、何色をしていると思う?」
「白っていう人もいるみたいだけどね、私はごく薄い灰色か、水色かそういう色かな」
深く垂れこめた雲から舞い落ちる雪を、窓越しに眺めながらレグンは思案気に言う。
その答えに、シュネーは振り返る。
「そうよね、わたくしもそう思うわ」
そして、冷たいものと言われると、どうしても雪の記憶が拭えないから。
凍り付いた石造りの家と、音を奪って降り積もる雪。曇った空の重苦しい色。
「この冷たさを、いつか、豊かで美しい記憶に変えて見せるわ」
「そうだね。そう出来るよう、私も微力ながら尽力させていただくよ」
そう言って微笑むレグンが、シュネーの手をそっと取る。
指先を優しく握り込んで、温める。
その温もりに、いつか傷ついた痛みが、悔しさが、悲しみが。
そっと融けていくような気がした。
この手を取り、共に歩んでくれる人がいれば、きっと。
「頼りにしているわ、わたくしの旦那様」
シュネーはレグンに、そっと背を預けた。