溺れる夢と女神の手
『小さな広場の真ん中で』に登場した隣国第三王子と公爵家令嬢のその後。単品でもお読みいただけるかと思いますが、お時間があればシリーズ頭からお読みいただけると幸いです。
「……なんですよぉ」
「……………………」
「……ことだしぃ」
「…………………」
もう自分が何を言っているのかわからない。
教えられたことを、ちゃんと話せているだろうか?
相手の返事も頭には入ってこない。
ここは、どこの国だっけ?
目の前に座っている女の子は誰だっけ?
女の子がうんざりしてる。
だけど、今夜はこの子と話をするんですよ、と世話係に言われた。
世話係がいなければ私はどうしていいかわからない。
私はこの大陸では中規模の王国の第三王子として生まれた。
王子だから、それなりの待遇を受け、それなりの教育を受けてきた。
だが、どうにも私は普通だったらしい。
外交のために国外へ婿に出そうと思っても、売り込めるポイントが無いと嘆かれた。
見た目も普通。
モブ王族、とでも言えばいいのだろうか?
王族なんて、好き勝手して贅沢が出来るんだろうと思われがちだ。
だけど、体面を保つためにやらなきゃいけないことは山ほどあり、やってはいけないことは星の数。
誇りとか矜持を持っている者は、最後まで泳ぎ切れるかもしれない。
平凡な私は、周りの『あれしろ』『これするな』に従うだけの人形になり果て、溺れる寸前。
いや、もう既に沈んでしまっているのかもしれない。
成人を迎えて、国からも追い出された。
表向きの理由は、外遊して婚姻相手を探すこと。
一緒に溺れてくれるお姫様なんて、いるのかな?
水の底で、死ぬまで一緒にゆらゆら揺れてくれる人なんているのかな?
目の前の女の子が誰かと話していた。
視線を巡らせれば、真っ白い浮き玉が二つ見えた。
大きくて丸くて、しっかり浮かんでる。
浮き玉がついて来いと呼んでいた。
私は黙ってついていった。
先導されるまま夜会の会場を出て、王宮を出て、馬車に乗ったような気がする。
ぼんやりと夜景を見ながら、着いた先は大きな屋敷。
馬車を降りると、大きな毛の塊が飛んできて私に飛びついた。
私はひっくり返って、そのまま意識を失ったようだ。
ここは、どこだろう?
すっかり朝になっていた。
昨夜は王宮で夜会に出席していたはずだ。
王宮の客室とは違う。
手に触れたものを、思わず握ってしまった。
柔らかく温かいもの。
それはモソモソと動き、私の手を離れた。
仰向けに寝た私の上に乗りあがって来ると、口を寄せ、舌を出して、私の顔を舐めまわした。
なんとか起き上がって見まわすと、そこは大きなソファがいくつか置かれた応接間のようだった。
私にまとわりついているのは…大きな茶色い犬だ。
顎の下を撫でてやると、気持ちよさげに目を細めて大人しくなった。
なんだか少し頭が痛い。
いつもの薬も飲まなければ。世話係はどこにいるんだろう?
カチャリと音がして、庭に面したガラス戸が開いた。
「おはようございます、殿下」
入ってきたのはすらりと背の高い女性。
膝下丈のシンプルなワンピースに白いエプロンを重ねて着ている。
…胸のあたりの盛り上がりが、ちょっと尋常ではない気がした。
「昨夜はわたくしの犬が失礼いたしました。
殿下に飛びつくなんて、いけない子ですわね。
頭は打っていないはずですが、後からお医者様に見ていただきましょう。
殿下がジョン、その茶色い犬の名ですわ、を抱き締めて離さないので仕方なく、この離れのソファで寝ていただきましたの。
食事の前にお風呂と、お着替えをなさって」
離れの奥から従僕が数人出てきて面倒を見てくれた。
爽やかなハーブの香るお湯に浸かると、少し気分が良くなる。
用意してくれた着替えは肌触りが良くゆるりとしたシルエットで、リラックスできそうだった。
応接間は掃除されたようで、クッションが整えられていた。
ガラス戸から出ると、テラスに置かれたテーブルに朝食の用意がされていた。
昨夜のことをよく覚えていない私に、彼女は自己紹介してくれた。
ここは公爵家の屋敷で、彼女はこの家のご令嬢。
母親である公爵夫人亡き後、彼女がここの女主人を務めているそうだ。
「兄が戻ってくれば、お払い箱ですわ」と明るく笑う。
新婚の兄上は細君と共に、現公爵を先生役に領地で修行中だという。
彼女があれこれ勧めてくれたが、あまり食は進まない。
味もよくわからなくなったのは、いつからだろうか。
「食欲が無いのは、いつからですの?」
どうしてそんなことを訊くのだろう?
「昨日こちらへ貴方を運んだ者が、体重がとても軽いと申していましたので」
国を出てからずっと、食欲はあまり無かった気がする。
旅の疲れと緊張のせいだと、気にも留めていなかった。
ろくに答えられない私を彼女は責めない。
食事の後「少しお散歩でもなさって」とジョンではない犬をつないだリードを渡してきた。
この犬は大人しく、私を庭の奥へと誘った。
やがてガゼボに着くと従僕が待っていた。
勧められた椅子に座り、ハーブティーを飲んだ。
離れへ戻ると、昼食をどうするか訊かれた。
食欲がないので断る。
すると、医師が来ているので診察を受けるように言われた。
「…世話係に確認しないと」
私の世話係が、勝手に医師に会ってはいけないと言っていた気がする。
だが、医師は落ち着いて言った。
「お嬢様が殿下の世話係と会って確認してくださいますから大丈夫ですよ」
それなら安心だ。
診察を終えた医師は明るい表情で
「長く外遊をされているので、疲れが溜まっています。
こちらに滞在なさって、ゆっくりされたほうがいいですよ」と言う。
日程は世話係が組んでいるのだ。私には決められなかった。
「そうだ、薬を飲まないと…」
「世話係の方が用意されているお薬ですか?」
医師の質問に頷いた。
国を出された私の気分が落ち込まないように、と世話係が毎日用意してくれるのだ。
「お国を離れてから時間も経っていますし、手持ちも少ないかもしれません。
処方を確認して私のほうで同じものを用意しますので、ご安心ください」
それはありがたい。
それから一か月の間、私は公爵家の離れに世話になった。
軽い食事と犬との散歩。ハーブティーを毎日飲み、ハーブの湯に浸かる。
ベッドで眠っていると、いつも誰かが部屋に入ってきて覗き込み、そっと頭を撫でてくれた。
そうされると落ち着いて深く眠ることが出来た。
令嬢は毎日来て、何か要る物がないか訊いてくれた。
よく暇つぶしの本を差し入れてくれたが、ある日話し相手が欲しいと言ってみた。
「わたくしでよろしければ」と言ってくれたのでお願いした。
彼女とは犬の話で盛り上がった。
ジョンは元々、捨て犬だったそうだ。
領地で手が付けられない暴れ犬だったのだが、彼女が「いけない子!」と叱ると大人しく腹を見せたらしい。
ちょっとわかる気がする、と言えば「どういう意味ですの?」と顔を覗き込まれた。
大げさに顰めた顔に思わず噴き出した。
「まあ、乙女の顔を見て笑うなんて!」と言いながら、彼女も笑っていた。
しばらくぶりに医師の診察を受けた。
「かなり体力が回復したので、もう心配ないでしょう」と言われた。
礼を言うと「それは、お嬢様に仰ってください」と苦笑された。
その後、令嬢と医師と共に応接室でお茶を飲んだ。
「お話したいことがありますの」と言う彼女の声は緊張していた。
「殿下の世話係の男のことですが、一足先に国に帰ってもらいました」
ここに来て以来、彼とは一度も会っていないことを思い出した。
「彼は元気ですか?」
「…ええ、いまのところ」
「?」
「…彼は殿下のことを陥れていたのですわ。殿下に渡していた薬は…」
令嬢は言い淀んだ。医師が後を引き継ぐ。
「調べましたところ、あの薬は気力を無くさせ、思考を奪う効果がありました」
「……」
「薬そのものは強くないのですが、毎日飲むとなると無気力状態が続きます。
食欲も減退して十分な栄養も摂れず、あのままでは衰弱死もあり得ました」
「…私は危ないところだったのですか?」
「はい、お嬢様が気付かなければ、あるいは…」
まさかと思ったが、思い当たることも多かった。
国を出て以来、世話係はあの男一人。
滞在先では、その場にいるメイドや従僕の世話になったが、直接私に触れるような世話はあまりさせなかった。
しかも、世話係は言葉巧みに私がボンクラである、とその時会う王女や令嬢に言い含めていたという。
それではいつになっても縁談がまとまるはずもない。
「…目的は何なのでしょう?」
令嬢が答えた。
「お金ですわ。
殿下の外遊を案内し、世話をするとなるとかなりな額が入ります。
しかも、従僕なども現地で頼むからと連れてこなかった。
実際には雇っていない者の賃金も請求していたようです」
国を渡り歩き、時間をかけるほど経費は膨らみ、世話係の懐が潤う寸法だ。
彼女がちらりとガラス戸のほうを見た。
従僕が戸を開けると、庭からジョンが入ってきた。
私の足元に座って、顔を見上げてくる。
ジョンの頭を撫でると、私の心は少し落ち着いた。
「…殿下が弱っていき、行動が消極的になるのも都合が良かったようです。
世話の手間も減りますし、他との接触が減ってバレにくいですわ。
最期は…フラフラと危ない場所に出かけていき、事故にあったと……」
彼女は俯いてしまった。
私のことで、つらい話をさせてしまって申し訳なかった。
「貴女はどうして気付いたのですか?」
隷属と衰弱を悟られないよう、巧妙にコントロールされていたのだ。
王族や、その周りの者たちも気付かないほどに。
「殿下が、わたくしに助けを求めている気がしたのです」
その時、真っ白い浮き玉のことを思い出した。
思わず彼女の胸に視線を走らせてしまった。
急激に顔が熱くなる。
「どうかなさいましたの?」と心配してくれる彼女とは裏腹に
「すっかり快癒されたようで何よりです」と医師がニンマリしていた。
薬の成分と効用を知った彼女は、この国の王太子殿下に相談したそうだ。
世話係は拘束されて尋問を受けた。
密偵による調査では、今回の件に私の国の王室や貴族は関係していなかったという。
世話係の処分については、祖国の預かりとなった。
こんなことになった以上、一旦国に戻らなければならない。
世話になった礼を述べ、帰る旨を伝えると彼女は少し考えるふうだった。
「とても言いにくいことなのですが……
いくら成人された男性とはいえ、貴方を世話係にまかせっきりだった王室をわたくしは信用できません。
出来れば、お帰りにならないでいただきたいわ」
今回のことに、私の家族である王室が積極的に関与した証拠はない。
だが、ここまで放置されたというのは……
「そうですね。
あの国で、私は必要とされていない。
ずっと、普通過ぎてつまらない王子だと言われ、それを受け入れていた私を救う者はいなかった。
でも……せっかく貴女に助けていただいたのだ、出来る限り浮き上がれるよう足掻くことにしましょう」
伏し目がちになっていた彼女は、表情を和らげて頷いた。
そして少し悪戯っぽく、私にある提案をする。
「殿下に対して不遜とは思いますけれど…
特に国でのお仕事が無いのでしたら、わたくしを手伝っていただけませんか?」
「手伝う?」
「女主人もそろそろお役御免ですし、領地の一部を借りて犬の保護をしようと思っていますの」
「ジョンのような子を?」
「ええ、大掛かりなものは無理ですけれど、わたくしに出来る範囲で」
「たいへん失礼だが、婚約者は探さないのですか?」
考えるより先に言葉が出た。
彼女はふふっと笑った。
「わたくし見た目のせいで、淫らな女だと思われがちですの。
貴族の世界には期待しておりませんわ」
私を助けてくれたのは、強くて格好いい女性なのだと改めて思った。
「殿下がどんな道を選ばれても、わたくしは応援いたしますわ」
「ありがとうございます」
「また、お会いできます?」
「王家と縁切りして、平民の男になっても雇ってもらえますか?」
「大歓迎ですわ!」
自国へ向けて出発した私は、国境の町で一泊した。
その夜、夢の中で溺れていた私を、大きなホタテ貝に乗った女神が軽々と拾い上げてくれた。
古い絵画にあるような簡素な衣装の女神は素晴らしいスタイルで、顔を見ればかの令嬢だった。
貝の舟には犬のジョンが乗っており、女神のキスの代わりに私の顔をベロリと舐めた。