どんぐりころころ
夕暮れもだいぶ過ぎた頃、昌太郎は大学から帰宅すると、艶めく黒檀で作られた団栗のストラップのついた鍵を取り出した。
「どんぐりころころどんぐりこ」
ぱちん、とシャボン玉が弾けるような音が鳴る。
昌太郎に対してのみ、未央の母である絵麻が張った結界が消失したのだ。団栗のストラップは呪具、童謡の歌詞は合言葉となる言霊だ。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい、昌太郎さん」
屴瑠はまだ帰宅していないらしく、未央と千と万、そして絵麻はとうに夕食を済ませたらしい。昌太郎は私室に鞄を置き、ジャケットを脱いでハンガーに掛けると、食卓に着いて食事をした。厚揚げと小松菜の煮浸しは厚揚げの汁が旨味を十分に含んでおり、小松菜の青い風味を互いに引き立てる。昌太郎の好物の一つだ。未央には渋い好みと言われている。出汁巻き卵を食べ、海老フライをタルタルソースで食べてなめこの味噌汁を飲んだ。
昌太郎は未央程のグルメではないが、絵麻の作る食事はいつも美味しいと思い、感謝もしている。
「ご馳走様でした」
「はい、どうも。昌太郎さん、未央のこと、よろしくね。誰に似たのか跳ねっ返りなんだから」
明らかに未央のそれは絵麻に通じるものがあると昌太郎は思ったが、賢明にも口には出さなかった。未央は父・屴瑠のどっしり構えたところと、母・絵麻の女傑のようなところを併せ持っている。加えて自由奔放であるのは、本人特有だ。
昌太郎は入浴し、まだ夜は浅いがジャケットを羽織り直すと、未央の部屋を訪ねた。未央の部屋は昌太郎の部屋の斜向かいだ。烏がまだ鳴いている。近頃は深夜でも烏が鳴く。時間の感覚を狂わせられたのだろうか。そうであればその咎は人間にある。
「未央。入って良いかい」
「良いよ」
昌太郎が襖を開けると、未央は生成の麻のボートネックを着て、黒いデニムを穿いている。だらしなく寝そべり、色とりどりのビー玉やおはじきを細い指で突いてはあっちに動かしこっちに動かししている。
「暇?」
「うん。でも、もうすぐ暇でもなくなるからね」
「と、言うと?」
「『お茶会』」
「やっぱり行くの」
「行かざるを得ないでしょう。朱鷺耶は岩国まで来た上に、私たちの為に『お茶会』を日延べさせたと聴いた。自尊心の強い男だ。余り駄々をこねてこじらせると後が面倒だ」
羽田家も陰陽歌人の家柄として名家だが、倉持家も名家だ。だからこそ、屴瑠の妹と朱鷺耶と昌太郎の父の縁組も成し得た。結局は屴瑠の妹、つまり昌太郎の母は離婚して実家に戻り、その息子である昌太郎も母の旧姓である羽田の苗字を名乗ることとなった。
加えて述べるなら、絵麻は陰陽歌人ではない。結界術に特化した家の出だ。屴瑠との結婚が成立したのは、それだけ絵麻の家と絵麻自身の実力が強かった為である。
「宵闇に、色硝子が灯るのは美しい」
未央は寝そべったまま、またビー玉を弄る。蕩けるような透明の硝子は、未央のひどく好むものではあった。
「だからと言って、夜にステンドグラス見たさに教会に忍び込むんじゃないよ」
未央には前科があった。ぺろりと小さく舌を出す。
それから表情を改める。
「私はね、昌太郎。喜ばしく美しいものであればそれで良いのさ。満たされる。だから、朱鷺耶の持つような陰陽歌人としての矜持や権力志向も、九百合の剣の道に傾ける情熱も興味ない。好きなようにすれば良い。但し、それが私の愛でる種々のものを損なうとなれば話は別だ。――――――――看過出来ない」
その声は冷え冷えとしているようでいて、内に熱が籠るようでもあり、いつも鷹揚に構える未央の真実を珍しく感じさせた。
「……僕を好きに使うと良い。この、」
言い差して昌太郎は赤いネクタイから白銀のネクタイピンを抜き取る。
「ネクタイピンがなくとも、僕の命は未央のものなのだから」
憂い含む眼差しで、未央は従兄弟を見遣る。溜息が赤い唇から漏れ出た。
「解っていないな、昌太郎。昌太郎もまた、私が愛でるものの一つなのだよ」
それから、未央は興が覚めたようにおはじきとビー玉をざらりと集めた。乱暴に掴み取り、宙で手放す。
畳に散乱した色彩たちは、それぞれが生きるものであるかのように、てんでばらばらな方向へと自らの在り処を定めた。
トップ画像は美風慶伍さんから頂きました。