ビターチョコ、ミルクチョコ
未央はぷかりと宙に浮かんでいた。
世界は鼠色だった。銀鼠色だった。ざあざあと雨が降って、未央は蓮の花色をした単衣を着て四肢をほうぼうに伸ばしていた。この上ない解放感が彼女の心を歓喜で満たしていた。雨に打たれ、濡れることすら心地好い。
ここは何て落ち着くのだろう。夜に通じる静穏がある。その上で、夜には欠けた浄化作用をも備えている。未央は満たされていた。未央は孤独だった。
髪の毛が張り付く頬の上、唇が舟の形になる。吊り上がった口の端。
未央は孤独だった。
未央は満たされていた。
目が覚めると真っ先に、枕元に置いた蓮根硝子のペーパーウェイトの淡い黄緑が視界に入った。その向こうに、黒い胡坐。上へと視線を巡らせれば、よく見知った顔があった。
「昌太郎」
「おはよう。珍しいね。未央が夜に寝ているなんて」
未央は敷いた布団の上で、上布団は掛けず横になっていた。起き上がりながら長い髪の毛を整える。
「……」
未央は夢の内容を反芻していた。そしてそれを昌太郎に告げまいと思った。
独りで耐えられるのは強者ではない。弱者だ。何という唾棄すべき弱さ。
未央には人に対する執着が足りない。家族、友人知人、そして昌太郎に対してさえも。死なれるのは嫌だと思う。そしてそこまでに留まる。嫌だ、以上の感傷が湧かない。自分は正常ではないのだ。未央の心を昌太郎が知れば、彼は落胆するだろう。
未央は起き上がった。白い麻のハイネックシャツブラウスに、濃紺のズボンを穿いている。蓮の花色は夢の中だけであったらしい。
「昌太郎。ネクタイピンを貸して」
昌太郎は何も訊かず未央の乞うまま、白銀色のネクタイピンを赤いネクタイから抜き取り、未央の差し出した掌に置いた。未央はそのネクタイピンを愛おし気に撫でる。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・南斗・北斗・三台・玉女・刃」
護身の九字を唱える。所作は無用。未央であれば言霊だけでそれは成る。そして未央は九字のあとに、更に一文字を加えて十字とした。九字の最後に加える一字は、特化させたい効能による。未央は昌太郎の遣う刀の勇壮たることを祈念して刃と唱えた。
「何か予兆でも?」
「風が凪いでいるでしょう。だから」
未央から返されたネクタイピンをネクタイに着けながら昌太郎は尋ねる。
未央は理由になっていないような答えを返した。
そして当たり前のようにハンガーからグレーのコートを取り、羽織る。
昌太郎を誘う右目の金。言葉は簡潔。
「行こうか」
曇天の夜だった。
水の気配はしないが月も星も霞んでいる。未央の履く黒い艶のあるウィングチップシューズが小さくコツコツと音を立てる。対して、昌太郎の茶色い革靴は静かだ。夜は異界と近しい。黒く蒼く青く赤く白く赤くあらゆる色を混ぜたくったような混濁を内に秘めている。未央は人による喧騒は好まないが、こうした特有の空気のせめぎ合いは心楽しいと感じていた。衛兵が死に囚人が逃れ母が狂い息子が濡れて、そんな錯乱がこの夜には満ち溢れている。狂騒による静謐。
その邂逅はとても急なことだった。
向かいから、深緑色の単衣を着た人物が来る。後ろで一つに纏めた髪は純白。同じく純白の睫毛に縁取られた瞳は青い。アルビノだ。前髪も伸ばして後ろで纏めているので、その白い額が殊更眩しく見える。薄い唇が湾曲を描いた。
「未央じゃないか」
「九百合」
女性と見紛う青年は、華やかな顔を綻ばせる。どこかしら狂った、華のさざめきだった。昌太郎は九百合の黒い帯に差し込まれた根付けを注視する。それこそが肝心だからだ。値付けは麗しくも颯爽とした九百合には不似合いな赤い達磨だった。頭の横に小さな銀の鈴がついて、ちりんと鳴る。
九百合は未央と同じく陰陽歌人だ。数少ない未央の友人と言える。男性にしては長髪であるのは、朱鷺耶や未央と同様、呪力が宿る髪を重んじるからである。しかしその呪力は、本来であれば未央のように結ばず流しておくことが肝心だ。朱鷺耶は自身の実力に対する絶対の自信と、日常に邪魔であることから九百合のように後ろで纏めているが、九百合が髪を纏めているのは、彼が歌人であることより陰陽を交えた「武人」であることに重きを置いているからである。
九百合は己に矜持を抱き、そして未央には往年の友人として接するが、昌太郎に対しては、それ以上の執心を持っていた。
「やあ、昌太郎」
「九百合。このあたりで会うのは珍しいな」
昌太郎は九百合に応じながら指文字で未央に「退け」と言った。
だが未央は聴かない。それどころか腕を組み、超然として二人の対峙を見守る構えである。昌太郎は胸中、慨嘆した。
「良い夜だね」
「曇っている」
「仕合うには支障ないよ」
「九百合。何度も言うけど、僕では君の相手にならない。昔、道場で十本の内、せいぜい僕が取れたのは二、三本だっただろう」
「そう。昔はね。今は五分でないとどうして言える? ましてお前には未央がついている」
九百合は達磨の根付けに手を遣る。幽けく歌う銀の鈴。
まだ昌太郎の剣の腕前が今より未熟だった頃から、九百合は昌太郎に執着していた。彼は自分に劣る者を一顧だにしない。昌太郎はその例外だった。いずれは、自分と同等、いや、それ以上の剣客になるであろう確信が九百合にはあった。そして実際、目の前の昌太郎からは秘めた実力が感じ取られた。
未央は面白いことになったと微笑んでいる。
昌太郎のネクタイピンには護身の十字を施した。九百合との仕合がどうあれ、命には別条あるまい。
練達者同士の仕合は見ていて爽快である。美しい。
だからこそ、未央は九百合と昌太郎が咲かせる刃の華に期待するのだ。
ぽーん。
高く、チリチリ鳴りながら、達磨の根付けが放り投げられた。
それが合図だった。
昌太郎は先にぐん、と革靴で地面を蹴って斬り込んだ。九百合は下駄を履いている。素足でなければ分が悪いであろうに、あえてそのまま、昌太郎と仕合う積りなのだ。彼らの刀に銘があるとすれば、昌太郎の刀は「白虎」、九百合の刀は「達磨切り」だった。その刀身の中に練り上げられた呪力はそのまま刀の強度となる。そして昌太郎の白虎は、異例の刀だった。九百合はそれを知っている。異例たらしめる白虎を昌太郎に授けたのが誰なのかも。
ふ、と九百合の表情が凪いだ。今宵の風に似て。
横ざま、九百合は昌太郎の刀と切り結んだ。儚い火花が散る。
周囲には周到に未央が結界を張り終えている。ゆえに入る邪魔はない。
今度は正眼に構えた昌太郎に、九百合が下段から切り上げる。擦り流し、首筋を狙うところを退いて間合いを測る。九百合の白髪が何本か舞った。だらり、と昌太郎が刀を下げる。隙の塊と見えてさにあらず。昌太郎の剣技独特の構えだ。そこから放たれるのは神速の刃。
勘で危険を察知した九百合が刀を刺突の構えにする。突進し、しかしその姿さえ美しく、昌太郎は迎え撃つ。両者一歩も譲らない。
未央はコートのポケットからチョコレートを取り出して皓歯を立てた。
ビターチョコだ。ミルクチョコも好きだが、今日はビターの気分だった。解っている。今の自分は昌太郎に少しばかり意地悪で、そして薄情だ。そろそろ助け船を出さねば、二人共、意固地なところがあるし、きりがない。
「死霊を切りて放てよ梓弓、引き取り給え、経の文字」
死霊成仏の呪歌供養である。剣戟の音に満ちていたあたり一帯が、途端に水を打ったように静かになった。昌太郎も九百合も瞬きしている。
「そこまで。九百合、雑霊に付け込まれるようではまだまだだね。剣術の精進も良いが、私たちの本分は陰陽歌人。忘れないことだ」
くちゃくちゃとチョコレートを齧りながら未央は冷然と言い放った。
九百合の目が険しくなったのはほんの一瞬。彼は刀を元の達磨に戻すと、肩を竦めた。
「八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり」
九百合は百人一首に拘りを持つ。
九百合が歌を詠むと、清涼な一陣の風が吹いた。今夜はずっと風が凪いでいたが、ここになってようやく秋らしい、肌に冷たい風が吹き始めた。昌太郎もとうに刀をネクタイピンに戻している。
「九百合。昌太郎も。カロリー消費してお腹が空いたでしょう。チョコレート食べる?」
未央のこの言葉に、昌太郎と九百合は異口同音に、出来れば水が欲しいと言った。未央はくすりと笑い、九百合を手招きうちにお出でと言った。渋面になった昌太郎のことは、放っておくことにした。