蓮根硝子
さらさらと、足を水がくすぐっていく。清い水だ。
錦帯橋の下を流れる錦川のものだろう。霧がかかっている。未央は昌太郎と朱鷺耶に挟まれて、浅瀬を歩いていた。あたりはとても静かで、しみじみとした閑寂がある。ここを通れば良いのだろうと未央は思う。それだけで、浄化される心がある。
「岩国領の初代領主・吉川広家は随分、領民に慕われていてね。ここに封じられた時、職人たちも彼について根こそぎやって来てしまった、という次第で、元の領地の民衆には根に持たれたそうだよ」
「よく知ってるね」
「岩国に縁ある者の基本だよ」
さらりと嫌味を言われ、未央が柳眉をしかめた。さらさらと流れる水は淀みなく、時折、魚影が見えるのは鮎だろう。今夜の食事でも食べた。ふと上を見ると錦帯橋があり、そこに戦国の武人らしき人が立っている。そしてどこから湧いて出たのか、二羽の鵜が高い橋まで飛翔し、その人物の前にある手摺りに留まった。
未央たちにはそれが吉川広家と思われた。
「昌太郎、お得意の刀で一戦交えたらどうだい?」
「そんな必要がないことは兄さんが一番よく解っているだろう」
広家からは不穏な気配は感じられない。関ケ原を経て苦労をし通した人物であったが、こうして今も、岩国を守護している。それは迷える二羽の鵜であってさえも。柔らかな風が吹いた。温かな色の感じられる風だった。世界に優しい光が満ちた。
「結局、歌は必要なかったな」
博多に戻って、日常の夜が戻ってから昌太郎が未央に言う。未央は、それまで眺めていた「蓮根硝子」から視線を昌太郎に移した。
「広家公の力が大きかった。私たちはほんのささやかなきっかけを鵜たちに与えてやれば良かったから」
「鵜のいなくなった掛け軸を見たら旅館の人、驚くだろうな」
昌太郎の言葉に未央がくすりと笑う。
「確かに」
「倉持さんが啄木の歌でも詠むかと思ったよ」
「ああ、朱鷺耶は石川啄木が主だからね」
陰陽歌人にも、詠む歌にはそれぞれ違いがある。
未央は万葉集と自作の五行歌、朱鷺耶は石川啄木、というように。他にも百人一首に拘る陰陽歌人なども存在する。
「彼は優れた陰陽歌人だからね。全て解っていたんだよ。要不要の判別をつけるにはそれなりの年季が必要だ。それより昌太郎、この蓮根硝子、綺麗だろう。黄色とも緑ともつかない絶妙な透明感だ。ウラングラスにも似ている」
「盃やグラス、ペーパーウェイトに簪まで揃えて。余程、気に入ったんだね」
「美しいじゃないか。蓮根硝子は蓮根の収穫時期である今時分に、小さい蓮根や茎を燃料にして作られる。そこから生み出されたと考えると尚更に愛おしい」
未央は窓の外を眺める。清涼な風が入ってくる。
もうしばらくすると寒いくらいになるのだろう。今年はおかしな気候だった。
紺青瑠璃の空には、半月が浮かんでいた。