招待状と通行証
未央がネクタイピンを昌太郎に返す挙措は、どこかしら儀式めいていた。昌太郎は未央の言葉の意味を測りながら赤いネクタイに白銀のネクタイピンを着ける。
その時、窓硝子を透過して現れたものがあった。
「トキヤヨリノツカイ。オチャカイヘコラレタシ。オチャカイヘコラレタシ!」
赤に青に緑に黄色。
とりどりの極彩色の鸚鵡は、はらりと畳に何か落とすと、また来た時のように硝子をないもののように飛んで出て行った。昌太郎が、鸚鵡の落とした栞のような物を拾い上げる。それは木の葉の形をして金色で薄く、朱鷺の模様が透かし彫りにしてあり、上に紫紺の房がついて美しかった。
「朱鷺耶さんに会ったんだね。ユーモレスクと何か関係あるの?」
昌太郎の勘の良さにやれやれと未央は頷く。
「昼間、陰陽歌人の仕事を手伝った。その時に流れていた曲がユモレスク」
「成程」
昌太郎の眼差しの鋭利は消えない。
「解決後、私たちの為と言って『お茶会』に誘われた。だからこれは、朱鷺耶からの『お茶会』の招待状であると同時に〝裏街道〟の通行証だ」
「さっきのは倉持さんの使い魔だ」
「うん。うちの結界を通れるのは、母さんが許可した者だけだ。数は限られている」
「『お茶会』に行くの?」
「行かない」
「……倉持さんは諦めないよ」
「だから逃げる」
未央が金色の栞をほっそりした親指と人差し指で摘まんで弄ぶ。赤い唇が弧を描く。
「逃げる?」
「そう。せっかく裏街道の通行証があるんだ。ちょっと遠出をしよう。朱鷺耶も拙速はしない性分の筈」
未央のこうした鷹揚さは、母である絵麻に通じるところがあった。
未央たちは福岡県博多に住んでいる。『お茶会』の行われる京都は遠く、その為の招待状であり、距離と時間を短縮する異能を持つ道を、円滑に通りやすくする通行証なのだが、未央はこれを利用しようとほくそ笑んだ。
翌日、昌太郎と未央は家人に言い置いてから、裏街道を使う旅に出た。絵麻は何か察するところがあるのか、朱鷺耶さんによろしくね、と未央に言ったが、それは余り羽目を外し過ぎるなという絵麻なりの忠告だった。
裏街道というのは、その名の通り、常人の通る表の道とは異なる、暗い道である。通るにはそれなりの呪力や神通力、または妖力が必要である。何かの間違いで普通の人間が迷い込んでしまえば、菩薩とすれ違いぎょっとしたり、はたまた逆に妖怪に喰われることもある。未央も昌太郎も陰陽歌人とその相方ゆえに裏街道を通るに支障はないのだが、朱鷺耶クラスより貰った通行証があると格段に道を進みやすくなる。
かくして裏街道を抜け、未央たちが出たのは山口県は岩国だった。錦帯橋で有名な城下町と知られ、名物も多い。未央が逃亡先に岩国を選んだのは、岩国でも名の知れた旅館である『半月庵』と古くから懇意だったからである。『半月庵』は明治生まれの作家・宇野千代が『おはん』、『風の音』等の舞台としたことによっても知られる旅館だった。未央の急な予約にも関わらず、特別室であるさくらの間を用意してくれた。
眺めは上々であり、さくらの間と言うだけあって、桜の樹が硝子戸の外に枝を伸ばしている。床の間の広さは十畳と申し分ない。
「二人で寝るの? この部屋で」
「十分、広いでしょう」
そういう問題ではない、と昌太郎は思ったが、この無頓着が未央の気質でもあることは、昔からよく承知していた。黙々と荷物の整理をし、その間に未央は押し入れに置いてあった浴衣を持って大浴場に向かった。
「美味い!」
『半月庵』は明治二年、茶室として誕生した料亭旅館である。その料理の素材は全て丹念に吟味され、美味として提供される。
未央の歓声を聴いた女将は笑顔になる。
「うちのウニは雲丹ではなく海胆、と書くんですよ。雲ではなく海なのです。これはもう一等、上物である証です」
「へえ」
給仕の度、さりげなく料理の解説をしてくれる。
「無花果天婦羅、松茸ご飯とか。もう、この時期に『お茶会』に誘った朱鷺耶に感謝したいくらいっ。最高。無花果の甘さに塩が絶妙なバランスで、松茸ご飯の香り高さと来たら……!」
「それは良かった」
未央の後ろ、昌太郎の目に映る位置に、朱鷺耶が立っていた。むせる未央に、昌太郎がテーブルに置いてあったお茶を注いでやる。
「仲が良いね」
「どうして貴方が」
声が出ない未央に代わって昌太郎が尋ねる。
「通行証が動けば発行した人間にその位置が知れる。それに、未央やお前が素直に『お茶会』に来るとも思えなかったしね。倉持もここを贔屓している。滑り込んだという訳さ。なまじ、ここに来ることが無駄足だった訳でもない」
「と、言うと?」
「さくらの間の掛け軸を見ただろう。何も感じなかったのか?」
昌太郎は未央を見る。未央は、今は落ち着いた表情で朱鷺耶に視線を据えていた。
「あとで対処しようと思っていた」
「悠長な話だな。あ、女将さん、五橋の冷やを一合お願いします」
いつの間にか相席になっていた朱鷺耶が女将に岩国では有名な銘酒を注文する。酒が呑みたくても呑めない未成年である未央は歯軋りした。どちらが悠長だと思う。
部屋に戻るとなぜか布団が三組、敷かれていた。これには未央も鷹揚ではいられない。どうせ朱鷺耶が賢しらに動いたのだろう。
「おい、エセ紳士」
「私のことかな」
「他に誰がいる。隣のぼたんの間に移れ」
「嫌だよ。狭い」
「なら改善案を出そう。私がこのさくらの間に寝る。あんたは昌太郎と兄弟仲良くぼたんで寝ろ」
「未央!」
「それは改悪案だな」
昌太郎と朱鷺耶が揃って異議を唱える。
昌太郎と朱鷺耶は、異母兄弟だ。未央の父の妹が、昌太郎の母だ。二人は複雑な関係にあり、昌太郎は未央と話す時には頑なに朱鷺耶を苗字で呼ぶ。
虫のすだく音色は実に風情があり、この部屋からの夜景を見ながらであれば尚、快いことであろうが、今、この場に集う三人の間には剣呑な空気が漂っていた。
最初に論点を変えたのは、意外にも未央だった。然るべき措置を講じねばならないことを、陰陽歌人として優先したのである。
「鵜飼いの絵だな」
床の間の掛け軸を見遣る。未央のこの一言で、昌太郎も朱鷺耶も気持ちが切り替わる。
寂しかったのだろうと未央は思う。掛け軸には鵜飼いの舟に鵜が二羽。
淡い金、墨色、朱、水緑、青。
色合いは清かに静謐で美しい。
だが未央は鵜たちの声を聴いた。二羽だけでは心許ないような声にならない声を聴いた。
「俺が先に行く。朱鷺耶兄さんは殿を」
この昌太郎の言葉を、朱鷺耶は軽く嗤ったが、異論はないようだった。
昌太郎を先頭に、三人の姿はするりと掛け軸の中に溶け込んだ。