水中花
金魚のいない金魚鉢。
その水に未央はさながら紙の遺体のような物を落とす。音もなくそれは水に沈み、そうして色鮮やかな花を咲かせる。
水中花だ。
未央は自分の意識を水中花と同化させる。水に揺蕩いながら沈み、開花する。
赤と青の混濁。紫の一歩手前。
未央は進む。水の森の中を。
そしてやがて森林に遭遇する。樹はどれも幹が太く大きい。水の中なのに緑の香りがする。未央は深く息を吸い込む。幹に触れる。ざらりとして、そして温かい。未央は水中花のままで樹の深奥に潜水する。赤と青の混濁が樹木に溶け行く。
樹の中は広くてとても深かった。緑や茶などの色があるかと思えば、水中花の彩りがある。成程、この森林は水中花の化生なのだ。花が樹に化けるとは面白いこと。未央の赤い唇は弧を描いて歩を進める。
時に落ちて死んだ虫がいる。魚もいる。それらの在り様を未央は横目に見ながら、所以を探ろうとはしない。未央にとってはオブジェのような物だからだ。ここは架空世界。命を悼み歌を詠む必要もない。
意識が深く、より深くへと潜っていく。もうここは果てのない黒だ。青でも赤でも、緑や茶色その他のどんな色でもない。只、時折、真珠めいた艶をそこかしこに見せる。未央はそれが気に入った。その真珠にそっと触れる。ぽろりと珠が転がり落ちて、未央の手に乗る。それは生きているかのように、未央の掌をころころ転がり回った。
それがくすぐったくて、未央はくすくす笑う。
「お楽しみだね」
声に振り向けば昌太郎がいつもの服装で凛と立っている。
「昌太郎……。来たの」
「未央の意識が浮遊していたから、危険もあるかもしれないと思ってね」
「……」
未央は昌太郎の赤いネクタイに着けられた白銀のネクタイピンを見る。今の昌太郎が不機嫌であることだけは確かだった。彼は未央の不用意な言動を嫌う。昌太郎を支配しているのは未央だが、未央は昌太郎の気持ちを平らかにする必要性を感じた。
だが肝心のその方法が解らず、未央は真珠を転がしながら闇を歩く。ここは夜ではないが、夜の黒にとてもよく似ている。
「星や月があれば完璧だね」
昌太郎が未央の気持ちを読んだかのように言ったので、未央は驚いた。
「私もそう思った」
未央がそう言うと、そう、と答えて昌太郎は微笑む。機嫌の悪さは、少しは収まったのだろうか。
黒の中を蝶が横切った。紺青瑠璃の、美しい蝶だった。それはひどく未央の気に入った。樹木の奥底の黒は何と豊かな世界なのだろう。よもや赤とも青ともつかぬ水中花に、ここまで魅了されるとは思わなかった。
あえて真珠色ではなく黒い部分を撫でると、そこは樹皮と同じでざらりとした手触りだった。どんどん突き進む未央の後ろを、諦め顔の昌太郎がついて行く。森林は水中花の化生たりと言えども確固とした一つの宇宙を持っていた。未央が惹かれるのも解る。彼女は美しいものが大好きなのだ。それゆえに危険に近づくとしても歩みを止めない。
昌太郎は従姉妹のそうしたところを危ぶんでいた。だからこそのネクタイピンであり、だからこその自分の存在であり――――――――。
未央の背中を追いながら、昌太郎は自分の傲慢を呑み込む。
水中花の化生たる森はまだまだ奥が深そうだった。