菫の空
夜には夜の色というものがあって、それは毎夜、一色には定まらない。常人の目には定まっているように見えこそすれ、よく目を凝らす粋人であれば、その違いが解ろうというものだ。無論、夜に美を見出そうとする未央などは後者である。今宵は菫色の夜だと未央は思った。奇妙なことに春の花色をした秋の夜なのである。
しかしそうしたちぐはぐもまた自然の妙だった。
今日の未央は普段より更に遅い、ともすれば朝に近くあるかのような夜を渡っている。未央の後ろを、夜に溶け込むような服装をした昌太郎が歩く。未央の数歩、後ろを行くその姿は、幼い子供の歩みを見守る親にも似ていた。あながちその発想は間違いではなく、だからこそ未央は背後の昌太郎に、いつもささやかな苛立ちを感じるのだった。菫色の空を見上げて、嘆息する。その耳が、か細い声を捉えた。
しくりしくりと泣く水色の女性。
比喩ではなく、真実、身体全体が水色に発光しているのだ。
そこは未央の母がよく行くスーパーの近くの駐車場だった。
未央と昌太郎の鋭敏な感覚は、既に女性の只人とは異なる気配を察知している。より危険と考えたのだろう、昌太郎が未央より前に出て女性の正面に立った。凛然とした面持ちだが、紡がれる声は穏やかで優し気だった。
「こんばんは」
水色の女性は、この段になって初めて昌太郎たちの存在に気づいたようだった。涙に濡れた顔を上げる。
「何が悲しくて泣いておられるのですか」
「……あの子が死んでしまったから」
女性の答えで、未央も昌太郎も思い出した。数日前、この駐車場のすぐ近くで、交通事故があった。スピード違反の車が、横断歩道を歩いていた男の子をはねた。確か即死だったと記憶している。この女性はその母か。過ぎた悲嘆は人ならざるものを招き寄せる。女性が憑かれていると、昌太郎たちは判断した。
彼女を凝視すれば纏う水色に粒々と濁った泡があった。性質の悪い妖に付け込まれたと見える。未央が昌太郎の領分を侵さないように、彼の後ろから声を投げる。
「人はいずれ死ぬもの」
それは悲嘆に暮れる女性には余りに過酷な言の葉。
「――――あの子はまだ六歳だったのに」
「この世に生を受けたなら、死はその最終の門。年齢の長短は関係ない」
「それは愛情を知らない人の言うこと。貴方、人を愛したことがないのでしょう、ええ? そうでしょう!」
「ある。愛すればこそ私は生きる」
昌太郎がちらりと未央を振り返る。菫色の空の下、彼女は敢然として立っている。
女性はかぶりを振る。
「愛は消えた……。あの子が死んだその時に」
昌太郎が白銀のネクタイピンを抜き取る。それを宙にかざすとみるみる長大になり、やがて一振りの刀となった。刀は美しかった。銀色の露を総身に纏うようだった。濃い紫の組紐が、柄に綺麗に結び留められている。
澄明なる刀の出現に、女性を覆う水色の中の濁った泡が荒れ狂い、激しい動きを見せた。
未央が指を組み、女性に向ける。女性から水色が濁った泡ごとずるりと出てくる。その水色は人間に似た形を取り、昌太郎に襲い掛かった。
昌太郎は刀を垂らしていた。
命を無駄にする無謀な構えに見えた。だが、妖が肉薄した瞬間、その銀刀を一閃した。続いて間髪置かず一閃、更に一閃。妖の攻撃を避けながらの、全く無駄のない流麗な動きだった。水色は、微塵となってゆらゆらしばらくその場に留まっていたが、跡形もなく溶けて消えた。
妖から解放された女性が着るのは、何の因果か菫色のワンピースだった。
「銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」
未央が詠んだのは女性を慰撫する和歌だった。わざと彼女を挑発し、妖が女性より分離するよう仕向けたが、それと矛盾するように今、子は何よりの宝だと言っている。女性は顔を覆ってすすり泣いた。その泣き方は水色に覆われて賑々しく泣いていた時より静かで、物寂しかった。
「昌太郎。彼女を家まで送って」
「構わないが。未央一人で大丈夫か」
昌太郎の目には懸念の色がある。
「大丈夫。それに、これは命令だから」
昌太郎が目を瞠る。
未央の淑やかな声で下す命令に、昌太郎は逆らうことが出来ない。逆らおうとすれば物理的、心情的な面に絶大な負荷が掛かる。いつもであれば昌太郎の人格と矜持を尊重して命令を下さない未央だが、今日は別だった。
「…………鎮まれ、白虎」
昌太郎が刀に語り掛けると、刀は今度は見る間に縮小し、また元のネクタイピンの形に収まった。そのネクタイピンをネクタイに着ける。昌太郎が着ていた黒いジャケットを女性の肩に掛けて遠ざかる。
未央が街を囲む山の端を見ると、菫色を払う曙光が滲んでいるところだった。