氷桜
未央は黄昏の空を窓から眺めた。冷えて来た。いよいよ、冬の到来だろうか。先日、千と万の玉に潜った影響で、心身の疲労がまだ取れていない。他人の玉に潜るのということは、それだけ負荷のかかることなのだ。黄昏の空は荘厳で、大きな黒い鳥が琥珀の空を喰らっているようだ。
陽が沈むと、暖房をつける。今季初だ。昌太郎が声を掛けたので、部屋に招き入れる。手にはコーンポタージュの入ったマグカップ。絵麻の気遣いだろう。ありがたい。
二人でぽつぽつと他愛ないことを話しながらポタージュを飲む。クルトンのカリカリした歯応えが楽しい。今夜は何となく夜歩きする気力が湧かない。そんな日もある。花鳥が描かれた襖の向こう、再度、声がかかる。九百合だ。応じると、彼は意外な客を連れていた。
茨木鶴羽と清畠青海波。
すかさず昌太郎が未央の前に出て、白銀のネクタイピンに手を遣る。九百合が彼を制した。
「今回は仕合じゃないよ。正式な客だってさ。当主の許可も得ている」
「こんばんは。未央。昌太郎」
「何しに来たの、鶴羽」
鶴羽が黒い道行の袖を口元に当てる。小柄な彼女から、得も言われぬ気品と色香が生じる。
「つれないことを。昨今、何やら忙しない様子。労いに桜酒を持って来たのよ」
それは桜の精を溜めて作られた液だ。酒と言うがアルコールは入っていない。青海波が持つ白い徳利が、たぽん、と鳴った。
「たまには気が利くのね。鶴羽。座りなさいよ。つまみを用意するわ」
「必要ない。絵麻殿から先程、海老の天婦羅とカニ缶を頂いたゆえ」
よく見れば青海波の、徳利を持たないほうの手には皿がある。妙に至れり尽くせりの状況に、未央は溜息を吐いた。今夜は鶴羽たちを上客と見なさねばならないらしい。座卓の上に桜酒と肴が並ぶ。そして鶴羽が銀の扇子を振ると、未央の部屋の天井に桜が咲いた。
「座興よ。季節に合わせて氷の花と洒落こもうではないか」
鶴羽の言葉通り、桜はどれも氷に閉じ込められ凍てついていた。未央は桜酒を一口、口に含み、天婦羅に手を伸ばす。このタイミングで鶴羽が来たということは、茜坂斎王の件も露見しているのだろうか。香ばしい海老が、舌先で震える。
「妹御のことしか知らぬ。要らぬ心配は無用」
狙い澄ましたかのように告げる鶴羽を、どこまで信用して良いものか。九百合は相変わらずマイペースに飲み食いしているが、昌太郎は警戒する顔つきで鶴羽たちを見ている。未央は天を仰いだ。冷たい氷の花びらが、ともすれば降って来て儚く溶ける。
「春雨は いたくな降りそ 桜花
いまだ見なくに
散らまく惜しも」
そっと万葉集を詠むと、落花が緩やかになった。鶴羽はにこやかに飲んでいる。青海波も、飲食するという事実が、改めて彼も人間であるということを認識させる。いつも鶴羽に従う人形のように感じてしまっていたのは、反省する必要があるだろう。今はこの氷花を目で味わおう。戦端が開く時は、否応なく開くのだ。未央の持っている盃に、ひとひらの氷花が落ちる。未央はふ、と目を和ませて、それを桜酒ごと呑み干した。