びいどろ
今宵は弓張の月だ。
未央は真紅のびいどろを同じように薄く赤い唇にあてがい、鳴る微かな音を楽しんでいた。びいどろを鳴らしていると、浅く広い夜という名の世界が自分に引き寄せられ凝縮されていくように感じる。
真紅のびいどろには紫に水色の尾羽を持つ鳥が描かれている。長崎の土産にと買い求めてきたのは父だったか。もうだいぶん昔のことなので、よく憶えていない。それにしても如何にもな土産物ではある。未央は寒色系の色を好むが、このびいどろはそれを考慮せず土産とされたようだ。それともただ単に父が、未央の好みを知らなかっただけか。子供の趣味嗜好というものは往々にして軽んじられる傾向が多い。
しばらく窓辺でびいどろを鳴らしていると、やがてそれにも飽いてくる。折しも空には未央の気儘を許すような柔軟な月が出ている。未央はびいどろを机上に置き、紺色のブラウスに黒いジーンズを穿きグレーのコートを羽織ると、春と夏の野山の様子が描かれた襖を開けた。
掌の中で家の鍵を弄びながら夜の、誰もいない道を歩くのは爽快な気分だった。眠り微睡み油断している小さな生き物たちが未央の気配に驚き身を隠す。
黒繻子の猫にまた会った。
よく見れば猫は右目が金色、左が青のオッドアイだった。何やら同胞を見つけた心地で、未央は跪き、猫に手を差し伸べる。猫は警戒心なく、その滑らかな被毛を未央の手に擦りつける。
奔放な命がここに一つ。
けれどこの命とて、常に奔放ではいられまい。自分を脅かす者に逃げ惑うこともあるだろう。飢えに苦しむこともあるだろう。他愛なく咽喉を鳴らす猫にそんなことを考える。するとそれまで無意識に遮断したものだったか、虫の清らかなすだく音色が聴こえてくる。それは全くの突然だった。未央がコートのポケットに入れたびいどろの危うい膨らみを思い出すのと同様の突然だった。
猫は身を翻し去って行った。
この気紛れも猫の美徳と考える未央は、惜しむことなくそれを見送る。
びいどろを鳴らしながら未央は夜道を歩いた。まるでハーメルンの音楽隊にでもなった気持ちで心はわくわくした。途中、フロック・コートに山高帽を合わせた紳士と出逢う。フロック・コートの色は黒。つまりは礼装だ。このような秋の夜、住宅街で行き会うには些か奇異な恰好である。まあ、女一人、びいどろを吹き鳴らして歩いていた未央に言えたことではない。そうして未央はこの紳士に対してしなければならないことがあった。
それは紳士の肩口にじっとり湿って蹲るもの。怨念の体現者。
どこで恨みを負ったか知らぬが、これでは肩が重たかろうと、未央は唇を動かした。
幸いにして紳士は未央と同時に脚を止めている。
「しかしくま、つるせみの、いともれとおる、ありしふゑ、つみひとの、のろいとく」
呪詛返しの秘言である。決してみだりに多用してはならないものだ。
「求められずに一人 蹲る部屋の隅 伸ばされた手に戸惑い やがて笑む 陽だまりの中」
更に五行歌を詠むことで残った負の念を払う。
紳士は未央の為したことを理解したものだったか、只、山高帽を取り、会釈するとまた歩き出した。未央はその後ろ姿をじっと見送った。そして、その姿は角を曲がり見えなくなったところで、再び思い出したようにびいどろを鳴らした。
「未央」
このような深夜、このような場所で自分の名を呼ぶ者など限られている。黒いジャケットに禍々しい程、映える赤いネクタイを締めた昌太郎が立っていた。綺麗な眉宇は僅かにひそめられている。ああ、失敗したと未央は思った。
「どうして、一人で出たの」
「……弓張の、月だったから」
答えにならない答えを返した未央に、昌太郎は溜息を吐いた。
「心配させないでくれ。相手が未央の呪力を上回る場合だった時はどうする」
「……ごめんなさい」
同じ年の従兄弟は、いつでも未央の保護者であり庇護者たらんとする。そういうものを男気と言うのかどうか、未央には解らない。昌太郎は未央の持つびいどろを見る。その目には嫌悪があった。未央が道行の供に選んだのが自分ではなくびいどろであることが恨めしいのだ。それから昌太郎は帰ろう、とだけ告げると、未央の横に並んで歩き出した。
未央はびいどろを鳴らそうとして、昌太郎は嫌がるかもしれないと思った。だから予め許可を得て、彼の機嫌を損ねまいとした。
「昌太郎。びいどろを吹いても良い?」
普段はそこまで昌太郎の心情に頓着しない未央だが、今回は心配させた負い目がある。
昌太郎は目を弓張の形にして答えた。
「良いよ。未央は、いつでも思うように振る舞って良いんだ。僕がそれに合わせるから。……そういう風なのが、僕らの在り様なんだろう」
弓張月の照らす中、未央がびいどろを吹き鳴らす音が、二人の影のように寄り添った。
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