茜坂斎王
九百合の剣を水の奔流と例えたのは誰だったか。
剣術の師匠だったかもしれない。だとすればそれは、相当な賛辞だ。
昌太郎は九百合と水色の男の仕合を見ながら思う。同時にこれを仕掛けた黒幕の思惑を測る。何が狙いだ。まさか、自分と九百合と未央の三人を、この男一人で相手取らせようと考えた訳ではあるまい。そうだとすれば余りに甘い戦力の見積もりだ。
そこまで考えたところで、未央が叫んだ。
「九百合、早く始末をつけて! 〝手の内〟を知られる!」
九百合の青い双眸が煌めいた。
彼も理解したのだ。これは、最初から九百合の剣筋を露わにする為に仕組まれたことだと。そして相手はそれなりの腕だが、命を持たぬ式神。九百合の脅威ではない。
九百合はこそこそと人の力量を測る器の狭い人間を好かない。ゆえに振るう剣も、自ずと容赦ないものとなった。一度、退いて、間合いを測り、必殺の一撃を見舞った。袈裟懸けに斬られた相手は儚い霧となって消えた。その仮初の生の美しい散りざまに、九百合は束の間、心穏やかになった。
それは荒ぶる戦鬼の鎮静にも似ている。彼の形の良い唇が和歌を詠む。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」
屴瑠も好む式子内親王の恋歌を、九百合は式神を送る歌に選んだ。彼なりの敵への礼儀だった。
九百合が刀を一閃すると、それは鈴の音を立てる達磨の根付けに戻った。
「小手調べか。気に喰わない」
「けれど相手の手の内を知るには悪くない戦略だ」
「どうしてそれで終わりだと思うの?」
九百合と昌太郎の会話に、あどけない声が割り込む。
完全に不意を突かれた。九百合は達磨切りを、昌太郎は白虎を瞬時に呼び出した。
赤い少女が二人。赤い髪の毛をツインテールにして、赤い単衣と袴を穿いている。佩刀している。先程の昌太郎たちの隙を突いて、攻撃することも出来た筈だ。しなかったのは何の気紛れか。顔立ちは二人共よく似通っていて、目は紅だ。
「こんばんは。良い夜ね」
未央はこの二人に既視感を覚えた。妹の千と万に似ている。どこか浮世離れしたところが。それでいて秘めた力を感じさせながらもあどけないところが。
「女を斬るのは気が進まない」
「あら、まるで自分のほうが強いと信じてでもいるような言い方」
「信じているのよ、紅葉。笹原九百合は単細胞だから」
「そうなの? 楓」
くすくすと、少女たちが笑う。嘲り混じりの明かな挑発に乗る程、九百合も単純ではない。
びゅ、と刃が爆ぜた。
白虎と紅葉の刃がかち合った衝撃で火花が散る。紅葉のように美しい火花だ。未央に害となる相手に対して、昌太郎は例え相手が幼い少女と言えど、手加減する積りはなかった。これは先程の式とは違い、命がある。だとしても。
九百合もまた楓と切り結んでいた。成人男性と少女の膂力には差がある。力で押せば簡単にいなせる。その筈だった。しかし楓は、九百合がこれまで切り結んだどの男にも劣らず強力だった。気を抜けばこちらが真っ二つにされそうな気迫を感じる。ぎゃりぎゃりぎゃりと刀が歌う。命の歌。喪失の歌。
未央は怨敵調伏の呪言を唱えている。
「オン・ギャクギャク・ウンハッタ」
背後に気配を感じてはっと振り向くと、朱鷺耶が立っていた。肩には使い魔の鸚鵡。
「やあ。大変だね」
おっとりとした低い美声には、焦りの欠片もない。まるで傍観者のように異母弟と九百合の戦いを見ている。藤色のスーツには埃一つ見当たらない。戦場にいる者に相応しくない在り様だった。その上で、朱鷺耶の後ろには赤い鬼神が顕現していた。それは未央を守る為の行為とすぐに知れたので、未央は複雑な心中となった。
九百合の青い目と紅葉の赤い目が対峙する様子は絵になるが、二人は命を懸けて刀を振るっていた。身長も高く間合いのある九百合と互角の勝負をしてみせる少女がいるのだから、この世は広い。そう思うと同時に九百合はわくわくしていた。こんな高揚は、昌太郎相手でもなければ感じられるものではない。
だから未央が紅葉に放った呪符は、著しく彼の興を削いだ。氷のように透き通った青の呪符は紅葉に張り付きその視界を奪った。
未央は楓にも同様の呪符を放っていた。
間隙を逃す昌太郎たちではない。刀が振りかざされそれは星の光を受けて美しく煌めいた。朱鷺耶が未央を引き寄せたのは直後だ。気づけば未央は朱鷺耶の腕の中にいた。何を、と抗議しようとした未央は、見上げた朱鷺耶の顔が真剣であったので、言葉を失くした。
黒い単衣。曼殊沙華の咲く羽織りを肩に掛けている。長い漆黒の髪。
右目が爛々と金色に輝く男が立っていた。
「勝負あっただろう。その子たちを返してくれないか」
「茜坂斎王。仕掛けて来たのはそちらだろうに。大方、未央の守りを削ごうという腹積もりだったのだろうが、私がいる内には好きにさせない」
男に返答したのは朱鷺耶だった。恐らく今、ここにいる中で最も事情に通じている。ただ一点、未央の秘密を除いては。
斎王がく、と咽喉の奥で笑った。
「『鬼使いの朱鷺耶』。格下が、えらく必死になって力を溜めているな。涙ぐましいことだ」
「相手を見くびると手痛いしっぺ返しを食らうよ」
「それは怖いな。憶えておこう。紅葉、楓、おいで。帰るよ」
朱鷺耶はこの瞬間、迷った。今の自分の呪力の全て、そして鬼神を使えば斎王を殺すことが出来る。けれどそれは確信ではない。そしてそれが成されなかった場合、朱鷺耶の追うハンデは大きい。結局、朱鷺耶は動かなかった。
紅葉と楓は九百合と昌太郎から離れ、素直に斎王の元に寄った。
九百合も昌太郎も、新手の登場を警戒し、彼女たちを見送った。
そして悠々と斎王はその場を去った。
「羽田屴瑠によろしく」
最後のその声だけは笑みが含まれず、凍てついていた。