彼の悪い癖
その夜は空気が澄んで、そのぶん肌には冷たく感じられた。
未央の夜の散歩の同行者は昌太郎一人に九百合も追加された。当分は昌太郎と九百合が未央のガードにつくということで話が成されていた。夜の外出を控えれば最善なのだが、未央には陰陽歌人として、務めを果たさなければならない事情があった。
ゆえに屴瑠と絵麻がくれぐれもと昌太郎と九百合に長女の護衛を頼んだのだ。屴瑠が出れば手っ取り早いのだが、彼には昼間の務めもある。そして、なるべく若い者に任せようという考えがあり、九百合たちに委ねたのだ。
九百合に未央の事情を話したと聴いた時、屴瑠は九百合の信頼に足る人物であるかを未央と昌太郎に尋ねた。そして二人は揃って是と答えた。九百合の白い髪の一房を見た屴瑠は、信じようと一言、言った。
「空が葛の粉で固めたように綺麗だ」
「未央は詩人だな。確かに俺より陰陽歌人の素質あるよ」
「あんただって百人一首通でしょう」
「それだけだしね」
未央を真ん中にして向かって左に昌太郎、右に九百合がついてゆっくり歩く。呑気なようでいて、昌太郎は白銀のネクタイピンに触れていたし、九百合は達磨の根付けから指を離さなかった。
「朱雀やーい」
「ちょっと九百合」
「だって早く片をつけたいじゃん。俺、膠着状態とかが一番嫌いなんだよ」
「九百合の剣は天賦のものだが惜しむらくは性急が過ぎるとお師匠が言っていたな」
昌太郎の言葉に九百合はむ、と口を噤む。確かに彼は、一撃必殺を好む傾向があった。しかし昌太郎のような実力者相手となると、早く仕合を終わらせるのは勿体ないと、じっくり時間をかけもする。
一目で裕福と判る家の傍、未央が足を止めた。
その家には庭にプールがあり、水面が星を映してゆらゆら揺れていた。昌太郎と九百合も感知した。
「……水子だ」
水色の透き通った塊がふるふると宙に浮いている。恐らくはこの家の女性の腹から生きて出ることの叶わなかった赤ん坊の魂。どんな家にもそれなりの嘆きや痛みはある。
「早馳風の神、取次ぎ給え」
微風が吹いた。
優しい風だった。
「眉根掻き 鼻ひ紐解け 待つらむか いつかも見むと 思へる我を」
未央が詠むと白い光が生まれ、未央の胸元に縋るように飛び込んだ。未央は慈しみ深い手つきでそれを抱き、そして空に放った。あたりに満ちていた悲嘆の気配が清々しく祓われた。
「恋歌だけど良かったの?」
九百合が光を目で追ってから尋ねる。
「逢えないことを嘆き逢いたいと望む歌だから。良いでしょう」
未央は微笑した。豪邸を一瞥する。悲しみの痛手がもう癒えているのかどうか、彼女に知る術はない。再び歩を進める未央は、コートのポケットから筒状の硝子瓶を取り出し、その中から金平糖をざらりと手に出した。昌太郎と九百合に要るかと目線で尋ねたが、二人は揃って首を横に振った。いつ、朱雀の男が現れるか解らない。両手は常に自由にしておきたい。
薄いピンク、緑、黄色、青、色とりどりの星の形をした甘味は、呪術を行使した未央の緊張と疲労を優しく癒した。どうせこの一連の行動も、朱鷺耶はあの使い魔の鸚鵡を通してみている。いずれ朱鷺耶に未央の事情が全て知られるのも時間の問題であるような気がした。
九百合が立ち止まる。続けて昌太郎も。
未央はそれで初めて行く手に佇む人影を認めた。
その人物は全体が水色と青で構成されていた。長い髪はなびくまま。憂いある瞳も水色。和装に、鎧を組み込んだような風変りな衣服を身に着けている。
「主が、望みますゆえ」
彼が口にしたのはそれだけだった。
次の刹那、彼の繰り出した刃と刃を合わせたのは九百合だった。昌太郎は他に敵がいないか見回しながら未央を背後にする。キン、と澄んだ金属音が何度か重なる。
「……九百合の悪い癖だ」
仕合を見ていた昌太郎が苦い声で言う。
九百合は水色と青の男性との仕合を楽しんでいた。書を読むように楽を奏でるように、刀を繰ることを悦んでいた。
だが、喜色に満ちた時の九百合に勝てる相手はそういない。
男は羽田家の門前に立ち、家を見上げていた。
「……まるで難攻不落の城だな」
絵麻の施した結界は完璧で、男につけいる隙を与えない。男はくるりと踵を返した。
「行きは良い良い、帰りは怖い 怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ」
歌う男の右目が金色に輝いた。
屴瑠は書斎の窓から男の姿を視認していた。右手が動きかけ、留まる。まだ龍神を出すべき時ではない。昌太郎と九百合がいる。朱鷺耶もやりようによってはこちらに就かせることが出来る。
何より。
ここを潜り抜けられないようでは畢竟、未央の命もそこまでとなるだろう。




