祭りの夜
晩秋もしくは初冬。
陰陽歌人たちによる、時季外れの祭りが行われる。それは深夜に始められ、空が白む前に終わる。今年もこの季節がやってきたかと、未央は着付けしながら思う。鏡台の前で大輪の菊が描かれた黒地の振袖を眺め、不備はないか確認する。純白の帯に赤い帯揚げ、藤紫の帯締め、帯留めはカットが細かく施されたトパーズだ。
その祭りは鎮魂祭と呼ばれ、集う陰陽歌人の女性は皆、菊の模様の着物を着るのが習わしである。言うまでもなく菊は仏花である。男性は黒無地の単衣が義務付けられる。その為、昌太郎も今夜ばかりはいつものジャケット姿ではなく和装となる。白銀のネクタイピンは帯に根付けのように差し込んである。
絵麻に着付けしてもらった昌太郎は声を掛けると未央の部屋の襖を開けた。いつもと趣の異なる従姉妹の艶姿をこっそり鑑賞する。冷えるかもしれないからと、絵麻が未央には薄青のカシミアストールを、昌太郎には紫紺のウールの襟巻を手渡した。二人は言わば羽田公爵家の当主名代であり、粗相をすることは許されない。絵麻の世話焼きはそうした事情にも起因する。
外に出るとやはり昼間より冷えている。二人は早速、それぞれストールを纏い襟巻を巻いた。
祭りは近所の公園で行われる。一般人が迷い込まないよう、陰陽歌人や人外しか入れないような結界が入念に張られている。数人の結界師が関わっているが、もし絵麻がいれば彼女一人でその大がかりな結界も事足りる。公園の入り口で、九百合が待っていた。もう祭囃子が聴こえてくる。
九百合はいつもの深緑の単衣ではなく、黒い単衣だ。奔放な青年だが礼儀は重んじる。未央たちと違って何も羽織っていない。寒さを感じていない顔つきだ。平然としているから、事実寒くないのかもしれない。
「九百合。おはよう」
「一応、今は夜なんだけど」
「私は少し前に起きた。だから、おはよう」
「おはよう」
未央の有無を言わせない圧に屈した九百合が渋々、妥協した。
三人揃って公園の結界内に入ると、多くの人で賑わっている。とりわけ女性は皆、菊花の着物を着ている為、花畑にでも迷い込んだような華やかさだ。対して黒い単衣の男性陣は完全に女性たちの引き立て役となっているが、九百合の相貌であれば、寧ろ地味な着物によって麗しい顔立ちが引き立つ。その証拠に、未央たちを見た女性陣がちらちら九百合を盗み見ている。本人は一向に意に介していない。彼は自分の美貌などより、剣術にこそ興味があるのだ。顔など目が二つに鼻と口が一つずつついていれば良いくらいの認識である。
色違いの蛍が飛んでいるのは祭りを主宰する陰陽歌人の粋な演出だ。ふわりふわりと金銀の蝶も舞っている。羽の生えた精霊も中にはいる。屋台も並んでいるが、当然、通常のそれとは異なる。音を奏でる宝玉を売る店があれば、燐光を纏う、人骨で作られたオブジェを売る店もあり、更には金魚掬いならぬ龍の子掬いまである。鬼の子供たちが集まっている。妖怪、精霊、陰陽歌人が入り混じり賑わっている。
未央は龍の子掬いをちらりと横目に見る。
「龍の売買は禁止されている筈だけどね」
「多分、あれは龍の子もどき。紛いものだよ。本物の龍の子がたかだか数百円で買える訳ない」
「羽田公爵とは違うしね」
未央の言葉に昌太郎が応じ、さりげなく九百合が付け加えたので、未央と昌太郎は黙った。
「どうしたの。葡萄飴があるよ。行こう」
「九百合、知ってるの」
「え? 羽田公爵の守護龍だろ? 反則的に強いから誰もが羽田公爵の顔色を窺ってるんじゃないのか」
「……極秘事項よ。あんたみたいに鋭いのは異常。口外しないでね。それこそ父さんに消されちゃうから」
「しないよ。おっかない。俺だって、喧嘩を売る相手くらい心得てる」
羽田屴瑠が龍を使役するという事実は、陰陽歌人の中でもごく限られた人間しか知らない。そしてその娘である未央は白虎を使役する。その状況は、羽田家の名を否応なく知らしめるものだった。東方の守護神と西方の守護神を相手取りたい人間などどこにもいない。例えば、如何に朱鷺耶の鬼神が強くても、屴瑠に伍するかと言えばそれはないのだ。だからこそ朱鷺耶は、秘められた未央の欠落を探ってもいる。
強者の弱点を探るのはセオリーである。
「やあ、こんばんは」
考えが呼んだのだろうか。黒い単衣に藤色のショールを纏った朱鷺耶と出くわした。彼の場合、ショールは防寒の為と言うよりファッションだろう。映える容姿に、先程までより一段と女性の視線が集中する。
「こんばんはりたくない」
「おかしな日本語を言ってはいけないな、未央。仮にも陰陽歌人だろう」
「九百合、行こう。葡萄飴、食べたい」
「うん」
「そう邪険にしないで。私は未央と敵対する意思などないのだから」
どの口がそれを言うと、未央は鼻白んだ。
「人のことこそこそ調べてる癖に。確かにあんたには敵対の意思はないのかもしれない。その代わり、弱みに付け込む積りは満々でしょう」
「悲しいな。私を信じてくれない」
「信じてるよ。あんたの野心を」
朱鷺耶の秀麗な面持ちが本当に悲し気に曇り、未央はこの男は役者で食べていけるかもしれないと考える。
ふわ、と金の蝶が未央の前をよぎる。そうかと思えば銀の蝶が未央の黒髪に留まった。色とりどりの蛍も彼女に群れ集い、未央はその場にいる誰よりも華やぎの只中にいた。くすくすと朱鷺耶が笑いを零す。
「虫たちは甘い呪力の持ち主をよく知っているね。この祭りにはそうした意味合いもある……。羽田公爵などが来たら大変だろうよ。彼が余りこうした催しに顔を出さず未央を名代として立てるのは、つまるところそうした事情があるからだろう」
「はい、未央。葡萄飴」
いつの間にか姿を消していた昌太郎が、葡萄飴を持って未央に渡した。
「昌太郎。俺のは?」
「え? 自分で買いなよ。男に奢る金はない」
冷たい昌太郎の物言いに渋面になった九百合だったが、その場を離れて葡萄飴を自分で買いに行った。未央の隣に昌太郎が戻ったから動いたのだ。昌太郎が不在だった為に九百合は未央の横に立ち、朱鷺耶を牽制していた。朱鷺耶にとっては九百合も異母弟も眼中にないところは変わりないようではあった。
葡萄飴は林檎飴の葡萄版で、種無しの巨峰が蜜で固められている。紫紺を艶めく透明が閉じ込めて鑑賞にも耐え得る。未央の好物の一つだ。いい加減、朱鷺耶の存在を鬱陶しく感じてきながらも糖蜜と果汁の甘さに舌鼓を打つ。
葡萄飴を売る老婆の元に九百合が行くと、実年齢が計り知れない老婆は、白っぽく濁った目で九百合を見た。余り見えていないのかもしれない。
「ばあちゃん、葡萄飴、一つ頂戴」
「あんた、笹原子爵のご令息かい」
「ご令息って柄じゃないけどそうだよ」
「羽田公爵の御令嬢とは親しいのかい」
「まあ、そこそこ? 良いから葡萄飴、頂戴よ」
急かす九百合に老婆が双眸を細めた。笑った表情に九百合には見えた。本当は違うのかもしれない。年経た人間の顔は、読み取りにくい時がある。
「黄昏時に気を付けておあげ」
「え?」
「はい、葡萄飴。五千円ね」
「いや、ぼったくりでしょ」
「今の情報を鑑みれば安いくらいさね」
「――――ばあちゃん。あんた、何者だ」
「ただの葡萄飴売りだよ。ほれ、五千円」
「…………」
不可解な面持ちを崩さない九百合が、それでも五千円を支払うと、老婆は毎度ありと言って笑い、欠けた歯を見せた。
遠ざかる九百合の後ろ姿は、黒い単衣に長い白髪が映えていた。じっとそれを目で追って、老婆は呟く。
「これで良かったかい」
「ああ、上々だ」
「礼は目に見える形が良いねえ」
「そうか」
そうか、という言葉と、青白い閃光が、老婆の心臓を貫いたのは同時だった。
夾竹桃の茂みから、黒い単衣を着た男が出てくる。
「欲を出し過ぎると為にならない。あの世で憶えておけ」
男は艶めいた絹糸に似た長い黒髪を後ろで結び、長い前髪を掻き上げた。
整った顔立ちの中、右目が金色に輝いていた。
未央たちと話していた朱鷺耶は、不意に口を噤んだ。かと思えば身を翻して駆け出す。呆気に取られた未央たちだが、彼の後に続いた。そうしなければならない気がした。途中ですれ違った九百合は目を丸くしている。
葡萄飴の並ぶ屋台の前で、朱鷺耶は足を止めた。飴を売っていたのであろう老婆が不自然な体勢で固まっている。その咽喉に、朱鷺耶は手を当てた。険しい表情になった朱鷺耶に、昌太郎が尋ねる。
「亡くなっている……?」
「そのようだ。自警団に連絡する必要があるな」
「朱鷺耶。気づくのが早かった。相手に心当たりがあるの」
昌太郎の問いには即答した朱鷺耶だったが、未央の問いには一呼吸置いた。彼は自分の言葉を噛み締めるように言った。
「ある。朱雀かもしれない」