桜メモリアル
羽田屴瑠はひょろりとした痩身の、丸眼鏡のよく似合う学者然とした風貌をしている。式子内親王の和歌をこよなく愛する陰陽歌人であり羽田公爵家の当主である。枯草のような見た目とは裏腹に、陰陽歌人としての実力は揺ぎ無く確かなもので、そうであるからこそ羽田家の当主として陰陽歌人の激しい競争社会を泳ぎ抜くことも出来る。
愛情深い父親であり夫であると同時に、業界では決して敵に回したくない相手として周知されている。空気が明るい青と白に染まる早朝、屴瑠は既に起きて、書斎で読書をしていた。樫の木の扉をノックする音に応えれば娘である未央と屴瑠には甥にあたる昌太郎が入室した。
娘の夜歩き、それに伴う昌太郎の行動を知る屴瑠は読んでいた本に金色の鳳凰の透かし彫りが施された栞を挟んで閉じた。二人が揃ってこの時間帯に屴瑠を訪ねることは珍しい。余り歓迎出来ない何事かが起こったのだろうと察しはついた。
やがて未央が語ったのは予想よりも悪い報せだった。
「倉持朱鷺耶が。未央。お前の出生に気づきつつあると?」
「確証はないよ、父さん。でも彼は確かに何か勘づいている」
「……朱鷺耶君にも困ったものだな」
屴瑠が細く嘆息する。顔を傾けた拍子で丸眼鏡が光を受けて煌めきを零した。
「こう言っては何だが、彼に人望が少ないのは幸いだったな。集団で結束して未央のことを暴かれては敵わない。そうだな。九百合君あたりと話してみるか」
「朱鷺耶に九百合をぶつけるの?」
「こちらが労せずして憂いを払えればそれに越したことはない。――――気に喰わないという顔だね。未央」
「血が流れるのは嫌い。父さんのその考え方も、好きじゃない」
「好き嫌いで事が収まるなら、人生これ程楽なことはない」
父親の揶揄に未央は軽く唇を噛む。
絵麻もそうだが、屴瑠のように一見、人畜無害な草食動物に見える人間に限って、その実態は恐ろしいということはよくある。屴瑠は普段、飄々としておどけた態度もとる人だが、本質は怜悧で、非常に酷薄な面も持つ。
書斎に置いてある観葉植物のベンジャミンを一瞥した。
「勘だけど、九百合に朱鷺耶は荷が重い。恐らく勝てないよ。九百合の武は紛うことなく本物だけれど、朱鷺耶には鬼神もついている」
「『鬼使いの朱鷺耶』か。やれやれ。いよいよとなれば私が出張るとしよう。昌太郎」
「はい」
「未央を頼むよ。万一にも、不測の事態などないように」
「解っています」
屴瑠の書斎を出た二人は沈黙して廊下を歩いていた。
未央は父が昌太郎を軽んじているようにも思える言動をしたことが不満だった。歩調に合わせて長い黒髪が微細に揺れる。
未央は思い出す。
今より床がもっと目に近かった頃。懐かしい幼少期。昌太郎が羽田家に来たのは未央と昌太郎が十歳の時だった。昌太郎の母、つまり屴瑠の妹は離婚して一人で昌太郎を育てていたのだが、病を患い、兄である屴瑠に幼い息子を託して亡くなった。
昌太郎が来た当初、未央は家に異物が入って来たように感じて、馴染めなかった。
彼は大人しく物静かだったが、目に宿る光は聡明さを物語っていた。未央もまた早くから才気煥発で、陰陽歌人としての英才教育を受け、ゆえに学校の友人とは望めない知識の共有を昌太郎としたいと望んだ。だから昌太郎の一歩引いた控え目な態度は、未央にとっては歯痒いものだった。
当時、未央は自身の力を持て余していた。
戯れに契約を結んだ白虎の式神は両親を驚かせ、未央はますます熱を以て育てられたが、一方で彼女は孤独でもあった。大人びた少女の仄かな期待の拠り所が昌太郎だった。
ある春の日、未央は広い居間の縁側に腰掛け、脚をぶらぶら揺らしながら万葉集の和歌を口ずさんでいた。
「春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも」
折しも歌を反映するように夕日が緩慢に沈もうとしていた。太陽が最後の力を振り絞り黄金の光を投げかける。
「綺麗な歌だね」
いつの間にか昌太郎が未央の後ろに立っていた。未央は人の気配にはかなり敏いほうであったが、昌太郎に声を掛けられるまでその存在に気づかなかった。
「大伴家持よ。昌太郎も何か詠む?」
「僕、歌は余り得意じゃないんだ」
「意外。記憶力良さそうなのに」
「そうじゃなくて。歌に籠められた心に寄り添えないから。未央や伯父さんたちみたいに」
この瞬間のことを未央は鮮烈に記憶している。
残照が昌太郎の顔を縁取り、何かの絵画のようだった。黄昏時は、未央にとって特別な時間帯で、屴瑠たちからきつく外出を禁じられていた。それは未央の引け目だった。凡その才に恵まれた未央の、穿たれた穴のような欠損に、昌太郎というピースが奇跡のように嵌まった。その手応えを未央は確かに感じたのだ。
「武術は好き?」
「うん。身体を動かすのは好きだよ。これでも剣道を習ってたんだ」
「また習えば良い。父さんに頼んであげる」
初めて昌太郎が子供らしく顔を綻ばせた。
「ありがとう」
「昌太郎はきっと強くなる。そしたら私の白虎を使っても良い」
「白虎って、未央の大事な式神だろう?」
「うん。でも、良い。昌太郎に託す」
「…………」
「だから私と組んで」
「僕は陰陽歌人にはなれないよ?」
「それは私の役割。昌太郎は武と、呪力を補って。父さんが言ってた。昌太郎の呪力は桁外れだって」
昌太郎は目の前の綺麗な顔立ちをした少女の、真剣な表情を見つめた。最愛の母、唯一の家族であった母を亡くしこの家に来た。所詮は余所者だと、子供ながらに醒めた心で割り切っていた。だがこの少女は自分を必要だと言う。切羽詰まった右目の金色が、得難い宝石のように美しいと思った。今この瞬間、昌太郎は未央に生かされたのだと確信した。
「僕は未央を守る」
「私も、昌太郎を守る」
残照は名残すらなく消えていた。その中、幼い少年と少女の神聖な誓いをはらはらと涙のように花びらを散らす庭の桜だけが見ていた。
やがて未央の致命的な欠落を昌太郎は知ることになるのだが、そのことは彼の決意を強固なものにしこそすれ、弱めることはなかった。