柘榴
未央は部屋の窓硝子から緑混じりの紺色を眺めていた。
今宵の夜空は全体が少し白んでいる。窓は僅か、開けているので夜気に紛れて金木犀の香りがする。人を甘やかすような香り。芳香に目元を和ませると、部屋の外から昌太郎の声がした。
「気が乗らないな」
「珍しいね。未央が夜に外出しないなんて」
「そんな日もある。……少し疲れている」
「『お茶会』だろう。裏街道を通るのにも気が張るからな。補充する?」
「うん」
未央は頷くと昌太郎と向かい合い、手を組み合わせて目を閉じた。それは猛き風ではない。飽くまで温順に流れ込む癒しの息吹だった。昌太郎から未央の中に流れ込む。温かく、満ち足りる。二人を淡い燐光が包んでいた。その光が消えると、互いに目を開ける。確かな信頼が双方の目にある。
「屴瑠伯父さんから『お茶会』の仔細を訊かれたよ」
「父さんも羽田公爵家の当主だからね。あちこちの情勢は、気になるのでしょう」
昌太郎が目を伏せると長い睫毛もそれに倣った。
「倉持さんを警戒しているようだった」
「それは、当然でしょう。昨今、陰陽歌人の注目株は彼だし、それに、昌太郎の兄だ」
昌太郎の母であり、屴瑠の妹でもある女性は既に他界している。その死を見届け、最期の鎮魂を為して魂を慰撫したのは屴瑠だ。仲の良い兄妹だったと聴く。それゆえ、妹が嫁ぎ、そして離縁した家である倉持家の人間の動向は否応なく気にかかるものであり、そして耳に入れば胸中、複雑になるのだろう。未央はこうした人間の渡世のしがらみが苦手であった。煩わしく鬱陶しいと感じる。
自らに負わされた宿命さえなければ、陰陽歌人としての務めも果たさなかったかもしれない。けれど現実として未央には課されたさだめがあり、それを怠ること甚だしければ命にさえ係わる。だからこそ、陰陽歌人を名乗っている。幸いにして未央は夜が好きであり、夜の散策は苦ではない。
「半月さんの無花果は美味しかったな。私は柘榴も好きだけど。柘榴は小さな粒が紅玉の塊みたいだ。ああ、またあの赤が見たいな。私の中で柘榴のイメージは紅玉なんだ」
「未央らしい」
「近所に柘榴の実る家がある」
「いけないよ」
「昌太郎……」
何、と言おうとして叶わなかった。
昌太郎の口から紅玉があとからあとから溢れて零れ落ちたからだ。それらは畳の上に散らばりてんでに弾け、青い藺草を赤く彩った。
「術にかかったな」
未央が素早く立ち上がる。その時も昌太郎は紅玉を吐き続けていた。術をかけたのは部外者だ。しかしここは絵麻の結界内。部外者が干渉することの出来ない領域だ。
であれば、恐らく夢を伝い、異空間に呼ばれたのだ。未央の疲弊の隙を突いた抜け目のなさ。紅玉を吐かせ続ける狂乱じみた道楽の技。昌太郎がかかったのは、彼には術式に対する免疫が少ないからだ。普段はその分を未央がサポートしている。
「誰。姿を見せなさい」
こうする間にも昌太郎は苦しそうに紅玉を吐き続けている。
「白虎」
未央が呼ぶと昌太郎のネクタイピンが優美な一頭の白虎に変じた。
「昌太郎を守れ」
未央の命令に応じて白虎は昌太郎の身体の周りをぐるりと巡った。目は未央の右目と同じ、金色だ。今の未央と同じく、強く輝いている。
ふわ、とピンクの着物に黒い道行を着た小柄な女性が舞い降りる。傍らには黒い単衣に白い袴を合わせ長髪を束ねた屈強そうな剣士。
「茨木鶴羽。どういう積りか知らぬが、過ぎた悪ふざけは侯爵家の威信を傷つけよう」
呼びかけられた女性は銀色の扇子で口元を覆い目を細くした。
「こんばんは、未央。『お茶会』ではお会い出来ませんでしたねえ。聞くところによると大層な啖呵を切ったとか」
「昌太郎を頼みにしていると言っただけだが?」
「それその言の葉。そこで苦しんでいるだけの男に向けるには少々、箔をつけ過ぎではないかえ?」
「貴方に解ってもらおうとは思わない」
「悲しいわ。私は貴方が好きなのに」
「なら好意の示し方を間違えている」
「間違えてはないわ。お近づきになる手段として、まずは連れの低能を知らしめて差し上げただけですもの」
「――――低能」
「ええ。何か間違いがあるかや?」
「間違いだらけだ。白虎。来い」
未央を取り巻く空気が変わる。触れれば切れそうな戦意に溢れている。昌太郎を守っていた白虎は未央の声に従い刀剣の形状をとると未央の右手に収まった。
「オン・アロリキヤ・ソワカ」
未央が真言を唱えると大輪の蓮の花が彼女と昌太郎を中心にふわりと開花した。
「聖観音の真言。表すは泥のような諸法に染まらぬ心の在り様。素晴らしいわ、未央。その呪術、呪力、武術まで。兼ね備えた陰陽歌人は世広しと言えど貴方くらいでしょう。ゆえにますます、そこに蹲り貴方に守られるだけの男の存在が無価値と思える。青海波」
それまで黙して鶴羽の傍らに控えていた剣士が頷き、すらりと腰の刀を抜く。
「陰陽歌人同士の仕合はご法度の筈」
「あらあら、先に抜いた貴方がそれをお言い? これはね、未央、演舞よ。問題ないわ。それにこの異界を覗き見る者もいない」
果たして結界術の達人である絵麻はどうかと未央は瞬時、思ったが、殺到した青海波の刀を受けるか避けるかの思考にすぐ切り替えた。膂力を比較して、まずは避ける。未央の肩に青海波の刀の切っ先が触れてシャツが小さく破損する。次は未央から仕掛けた。上段から斬りかかる。受け留められ刀同士の火花が散る。二度、三度と切り結ぶ内に、未央にも成程、これは演舞だなと呑み込めてきた。
青海波は本気ではない。本気であれば昌太郎はともかく、未央程度の遣い手相手、すぐに蹴散らす実力を秘めている。これが茨木鶴羽の懐刀。
そう判断した時、バラバラッと、赤い礫が青海波を襲った。
この機を逃さず未央は攻め、青海波の首にぴたりと刃を突き付けた。
それを見て取った鶴羽が扇子を音高く閉じる。
「止め!」
青海波は鶴羽の声にすぐさま応じ、未央の剣先から退くと刀を鞘に仕舞った。
未央が振り返ると、昌太郎が紅玉を吐きながら尚もそれを掴み、青海波に投げつけようとしているところだった。素早く歩み寄り、その手を押さえる。
「昌太郎、もう良い。勝負はついた」
「ええ、まあ、そういうことにしておきましょう」
鶴羽が宣言したとそれは同時だった。
紅玉を吐いていた昌太郎が、〝未央になった〟。
そして未央は昌太郎に。
「これは。どういうこと」
本来の姿を取り戻した昌太郎が答える。
「僕にかかった術を、未央が代替わりした。僕と未央の姿も入れ替えて」
「……貴方は呪術を使えぬ筈」
「未央の遠隔操作だ。後は僕が未央らしく振る舞ってみただけだ。彼女に呪力を補充しておいて良かったよ。こんなことになるのなら」
「ならば青海波との演舞も、本気ではなかったということ」
「それはお互い様だろう?」
「……」
鶴羽が何もせずとも未央の口から零れる紅玉は止まった。未央が自力で解呪したのだ。よろめきながら立ち上がる。
「解ったか、鶴羽。昌太郎は低能ではない。有する呪力の膨大であることは陰陽歌人に比肩する者はいない。膨大過ぎるゆえにその操り方が掴めていないというだけ」
「……成程。であれば、未央の隣に在るも多少は納得出来るというもの。事実、貴方の身代わりを彼は立派に勤めていた」
ふ、と笑みを刷いた鶴羽の顔は、あどけない年相応の少女のそれだった。対してこれまでの経緯から、未央の顔は剣呑だった。
「怖いお顔。仕方ないわね。仲直りしましょう、未央」
「都合の良い」
「そう言わないで。お詫びにこの空間の浄化をしてゆくから」
鶴羽は閉じた扇子を顎に当てた。
「私たちの 心は あたたかだった
山は 優しく 陽に照らされてゐた
希望と夢と 小鳥と花と 私たちの友だちだつた」
荒んでいた空間が、やわやわとして和む。
「立原道造。鶴羽の得手だな」
「ええ。彼程、青春を心に訴える詩人はいないわ。入院中、欲しいものはと訊かれて『五月の風をゼリーにして持ってきてください』などのたまう。そんな詩人は稀有でしょうよ。それでは今夜はこのへんで。ごめんあそばしませ、未央、昌太郎」
昌太郎が目を覚ますと、未央の部屋で布団の上に横たわる彼女の傍に胡坐を掻いて座っていた。まだ眠っている未央の表情に苦悶の色はないが、昌太郎は心配で未央の肩を揺すった。
「未央」
「……昌太郎」
「大丈夫か。災難だったな」
「全くだ。紅玉を吐き続けるなんて、どこかの耽美派の小説で読んだ時には苦しそうだと思ったけど、実際はそれ以上だった」
「うん。茨木鶴羽の術もその本を読んでの影響なんだろうな」
しばらく二人は無言だった。どこかしら浮遊するような感覚で座っていた。金木犀の甘い香りがまだしている。当分は続くのだろう。空は緑混じりの紺から藤色に変化している。自分を苦しめた紅玉だが、可能なら一粒二粒、持ち帰りたかったなどと未央は思う。とかく未央は美しいものに滅法弱いのだ。
「未央、ありがとう。助かった」
「私の台詞だ。いつもいつも、昌太郎に助けられているのに」
「そんなことはない。僕は呪術の才がない。未央に役立ててもらって本望なんだよ。――――いつか、陰陽歌人の世界に君臨してくれ。それが僕の夢だ」
一途な瞳で語る昌太郎に、未央は言うことが出来なかった。それは自分の夢ではないとは、言うことが出来なかった。
只、生き延びて美しいものを愛でることさえ出来れば、陰陽歌人の肩書などどうでも良いのだ、などとは。