未だ央ならざるもの
京都の『お茶会』から戻った未央は深い眠りを貪った。彼女が夜、本格的に就寝することは異例であり、それだけ未央にとって『お茶会』が気を張るものであったと知れる。昌太郎は彼女の寝顔を一瞥すると部屋を出た。
未央は夢の中で京都の五条通を俯瞰していた。
今、彼女は天であり月であった。
烏丸通と交差したあたりで、異変に気付く。それは古来、京都の住人、貴賤を問わず恐れさせた妖怪の群れ。百鬼夜行の出現だった。鬼に始まり木魅や天狗、山姥、犬神など種々様々な人ならざるものが蠢いている。百鬼夜行は遭うと命がないと言われる。ゆえに恐れられ、これを避ける術を数多の人たちが試みて来た。しかし遭う時は遭う。
藤色の男が、何ら恐れる様子なく、この百鬼夜行の行く手を遮るところを未央は見た。
朱鷺耶だ。
当然、鬼たちはいきり立つ。たかが人間に自分たちの行く手を阻まれる道理はない。
朱鷺耶は笑みを刷いた唇を動かした。
「神の御息は我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば穢れは在らじ。残らじ。阿那清々(すがすが)し、阿那清々し」
息吹法による祓を朱鷺耶が朗々と唱えると、百鬼夜行の間にざわめきが走る。清浄なる気が、彼らを戸惑わせたのだ。朱鷺耶はにっこり笑う。
「こんばんは。君たちの力、少し頂戴させてもらうよ」
朱鷺耶が藤色のスーツから呪符を取り出すと、一匹の巨大な赤鬼が彼の背後に顕現した。赤鬼は息を大きく吸って、そこらの妖怪たち、そして同胞でもあろう鬼たちの呪力や妖力、神通力を吸収した。力を削がれた百鬼夜行は形無しとなり、胡散霧消する。ほんの数秒足らずの出来事だった。
「ギャア、ギャア、ノゾキミシテルヤツガイルゾ!」
急に現れた朱鷺耶の使い魔の鸚鵡が騒ぎ立てる。朱鷺耶はおや、と小さく呟き、天を仰いだ。彼と目が合った、と未央は感じた。朱鷺耶は見えない筈の未央にはっきり焦点を当てて笑顔になる。今しがた百鬼夜行をあしらったとは思えない笑顔だった。藤色のスーツは温和な色を湛え、世に妖怪などないようにさえ思わせる。
「元気かい? 『お茶会』は負担だったろう。昌太郎の為によく頑張ったものだ。しかし覗き見は感心しないな。私がこうして使役する鬼神の強化を行っていること、出来れば他言無用に願いたい」
未央は聴いたことがある。
『鬼使いの朱鷺耶』という二つ名を。
陰陽歌人の中でも、鬼神クラスを使役出来る存在は限られる。使役には非常に危険が伴う為、なまなかな術者では命さえ落としかねないからだ。それを成している朱鷺耶であるからこそ、爵位を上げろとの声も出る。
百鬼夜行が去ったあとの通りは瘴気がまだ濃く残っていた。
「みおろせば、眠れる都、ああこれや、最後の日、近づける血潮の城か。夜の霧は、墓の如、ものみなを封じ込めぬ」
石川啄木詩集『眠れる都』の一篇だ。この言霊を朱鷺耶が発した時、未央には、通りに満ちていた瘴気に半透明のドーム型の蓋がされ、そのままずぶずぶ地中に沈んでいくのが見えた。
いつの間にか灼熱の赤き鬼神は消え、鸚鵡の使い魔だけが朱鷺耶の肩に留まっていた。
ふつり、とそこで映像は遮断された。
目覚めた未央は起き上がり、髪を掻き遣った。呪力の為に伸ばしているとは言え、鬱陶しい髪だ。時刻は午前二時を回ったあたりである。昌太郎は起きているだろうか。未央は夜の散策の為に着ていた部屋着のまま、昌太郎の部屋を訪ねた。
「倉持さんが?」
昌太郎は万一の時の為に起きていて、未央が夢で見聞きしたことを聴いた。彼は睡眠時間が短くても支障ないタイプだ。だからこそ、昼間は大学に通い、夜は未央の散策に付き合うことも出来る。
「うん。朱鷺耶は間違いなく超一級の能力者だ。倉持の爵位が上がるのも時間の問題でしょう」
朱鷺耶が詠じたのは詩であり正確には歌ではないが、陰陽歌人は詩も俳句も幅広く扱う。使うものに歌が多い為に歌人と総称されるだけだ。
朱鷺耶は倉持家の長男として着々と力を蓄えつつある。現に未央はその一端である場面を見た。対してその異母弟の昌太郎は、母の実家に居候して、歌人でもなく未央を補佐するという微妙な立場である。未央が歯痒く思うのはそこであった。
未央は、昌太郎のネクタイピンであり且つ刀にも変じる白虎を式神としている。白虎程の存在を式とするにはそれなりのリスクが伴う。朱鷺耶が指摘したように、戦いにおいて仕損じれば実際の使役者である昌太郎の命は危うい。鬼神も白虎も、その点は共通している。それでも昌太郎が白虎と共存していられるのは、白虎が認める武を昌太郎が持つと同時に彼がそれだけの膨大な呪力を有しているからだった。だからこそ、未央の呪力が枯渇した際、素早くそれを供給出来る。
そして――――。
「昌太郎。私は〝未だ央ならざる者〟。昌太郎が私に尽くしてくれる限り、私が昌太郎を守る」
はは、と昌太郎は苦笑する。眉尻が下がると、端正な顔が幼く見える。
「それじゃ男が廃るよ。未央は自分のことだけ考えてくれ。これでも自衛には長けている」
「済まない」
「何が」
「私の命を長らえさせる為に、昌太郎の命を短くしている」
昌太郎は跪いて、未央の髪を一房掬い、額に当てた。
「構わない。言っただろう。僕の命は未央のものだ。未だ央ならざると言われようと、僕の央であり『王』は未央なのだから。生きてくれ」




