トパーズ色の
檸檬の飛び散る果汁をトパーズ色と称したのは誰であったか。
夜の静寂に万華鏡を覗き込みながら羽田未央は考える。
彼女の目には無限彩色の輝きが映っている。凝縮された宇宙に彼女は意識を浮遊させ戯れる。
今夜は初秋の晩とて月光が冴え渡っている。
未央にはこの月光が、人を喰らわんばかりのように思えて少々、恐ろしい。過ぎた光輝は未央には無粋と感じられてならず、しかしそれならば己が手に持ち陶酔している万華鏡は何なのだと問われれば答える言の葉を持たない。
所詮、人間は矛盾に満ちているのだからと自己弁護に走る。未央はそれが卑怯と思えず、寧ろ痛快であった。
万華鏡を置き、窓の外に目を遣れば、家々の屋根の上を黒繻子の猫が身軽に渡り歩いている。その軽快な様に、未央は、さてはあの猫はこの煩いばかりの月光にはしゃいでいるのではないかと思う。
人も猫も月に踊る。しかし軽々に踊らされるは愚かではないか?
未央は部屋の隅に転がる手毬に視線を移す。亡き祖母の形見でもある手毬は網代とでも名付けられた技法によるものであったか、定かではない。
かくの如く未央の部屋には美麗な物が点在していた。それは装丁の凝った本であったり、鉱石の標本であったりした。未央は寝つけない時、気分のままにそれらを手に取り、弄ぶ。嘲弄ではない。未央は美しい物に敬意を払いその手に持つ。
「未央、起きてる?」
襖の向こうから静かな声がかかる。
「昌太郎。起きてるよ。今、帰り?」
「少し前。呑みに付き合わされてね」
「大変だね」
同じ住まいにいる、未央と同い年、従兄弟で十八の昌太郎は未央と異なり大学に通っている。それで未央は彼のことを時々、「学士様」と呼んでからかったりするのだ。
未央は大学に通っていない。彼女には別の「仕事」がある。その仕事には昌太郎も関わる。
特殊な力を持つ人間にしか出来ない仕事だ。即ち、美しい物を愛で、醜悪に敏感な者などがその部類だ。
「三丁目の角、欅の樹の下に」
「見つけた?」
「うん」
未央の行動は早い。腰を上げると寝巻から洋服に着替える。夜は冷える時節だ。未央は水色のシャツに焦げ茶のズボンを穿き、薄手のグレーのコートを纏った。
「お待たせ」
ずっと襖の外で待たせていた昌太郎に声を掛ける。
昌太郎は白シャツに黒いジャケットを着て黒いズボンを穿き、赤いネクタイをしている。赤いネクタイには白銀のネクタイピンが光る。十八の割に大人びた顔立ちで、造作は悪くないほうだ。対する未央も容姿で退けは取らない。真っ直ぐ伸びた絹糸のような黒髪は、彼女の背中を覆い、色白の肌に、唇は普通のそれより赤い。右目が金色のオッドアイで、それが彼女の容姿を常ならざるものに見せていた。家の者を起こさないよう、玄関を出る。尤も家の人間も、未央と昌太郎の仕事は理解していた為、気づかれても咎められることはない。
只、未央と昌太郎が就寝している家人を起こしたくなかったのだ。
外の空気は澄んでいた。
未央の後ろを昌太郎が付き従うように歩く。グレーの後ろに黒。色がより濃くなっている。
建物の作る黒い影が、そこかしこに生まれている。生まれる時は産声でも上げるのだろうか。三丁目の角、欅の樹の根本にそれはあった。
ふるふると揺れる青い輝き。悲しみの凝りであると未央は既に看破していた。未央は樹の根本に蹲り、涙にも似た青の輝きにそっと触れた。
「行者、今、搦めの綱を解き、ほとほと三途の道に、放ち道ぎり。オン・アビラウンケン・ソワカ」
未央の澄んだ声が響くと、青がゆらりと揺らいだ。あたりに白い光が満ちる。
「吾妹子は 常世の国に 住みけらし 昔見しより 変若ましにけり」
未央が最後に囁くと、白い光は夜空目掛けて昇って行った。
それを見送った昌太郎は傍らの未央にくすりと声を掛けた。
「おだてる歌を使ったね」
「女性の嘆きを慰撫するのは紳士の常でしょう」
「未央は女性だろうに」
未央が最後に悲しみに囚われ、動けなくなっていた魂に送った歌は、万葉集。
旧知の女性と久し振りに逢った男が、以前より若返ったと誉めそやすものだ。
「今夜は僕の出番はなかったね」
「その内、ガソリンになってもらうから安心して」
「せめてハイオクにしてくれよ」
未央は陰陽師の流れを汲む歌人。
呪術と、歌の力で彷徨う魂を慰め、道を示し、邪悪なるものは滅する。
金の右目はその力を有する証である稀有な目だ。
昌太郎と共に未央は歩き出す。余韻を味わうようにゆっくりと。
「――――流石に眠くなってきたな」
「未央はいつも夜更かしが過ぎるんだよ」
「昼より夜を私は愛する。昼は今宵の月以上に何もかもを曝け出して無粋だ。昌太郎。私は美しいものが見たいんだよ。夜を逃すとそれは見られない」
未央の持論である。
昌太郎は肩を竦めた。二人の歩く後ろ、ついて来る黒猫がいる。未央も昌太郎も気づいていたが意に介さず、家に向かう。
昌太郎と歩きながら、トパーズ色と称したのは高村光太郎だったと未央は思い出していた。