キス魔王はためらわない ~熱中症で倒れたら可愛い幼馴染に”ちゅー”され、俺は《覚醒》した。確実に告白を成功させるため、巧妙な作戦で”誘い受け”して好意を確かめるとしよう~
御門秀一は、炎天下の公園をひた走る。
暖かく湿った空気を吸い込み、必死に喘ぐ。
乾かぬ汗を拭い、足の筋肉を酷使する。
「はあっ……はあっ……!」
秀一は今から1時間以上前にランニングをスタートさせ、現在の走行距離は10キロ目前である。
なぜ秀一がそんな長距離を必死に走るのかと言うと、彼には目標があるからだ。
──それは、クラスのみんなを見返すこと。
秀一は県内有数の名門校でトップクラスの成績を収めているが、しかし運動神経が壊滅的である。
そのせいでよく「運動音痴」とクラスメイトからいじられていた。
これではいけないと思い至り、秀一は一ヶ月前からランニングを毎日行っている。
少し慣れてきたので、今日は10キロに初挑戦しているのだ。
しかし今は、8月の夕立直後。
公園には大量の水たまりが残っており、夕方ではあるものの直射日光はまだまだ強い。
そうなってくると必然的に、気温や湿度がとても高くなる。
不快指数MAXだ。
(それでもっ……俺はっ……)
走り続ける。
なぜなら身体をいじめ抜くことこそが、肉体改造への近道だと信じてやまないからだ。
秀一は、言うなれば修行僧なのだ。
石畳からの輻射熱や湿気を一身に浴びながら、地面を強く蹴る。
そのたびに靴ずれや筋肉の酷使によって、足が痛くなる。
(あ、れ……?)
突如、目の前の景色が歪み、チカチカし始めた。
筋肉が緩み脚がもつれ、そのまま石畳に倒れ込む。
石畳は水で濡れているため、火傷するほど熱くはないが、生ぬるくて気持ちが悪い。
足を擦りむいてしまったのか、ヒリヒリする。
(お、おかしいな……)
何度も立ち上がろうとするが、筋肉が言うことを聞かない。
頭痛や吐き気がする。
これは明らかに熱中症の症状だ。
気温・湿度がともに高い状態で無理な運動をしたせいで大量の汗をかき、脱水症状を起こしている。
「──しゅーくん、大丈夫!?」
異変に気づいた少女が、秀一のもとに近づいてくる。
彼女の名前は末広宮子、家が隣同士の幼馴染だ。
秀一と同じ高校2年だが、身体つきや顔つきはとても幼くて可愛い。
だがその一方で、腰まで伸ばされた黒髪が綺麗で、妖艶さも感じる。
どうして宮子がこの公園にいるのか、その理由は分からない。
恐らく散歩でもしていたのだろう。
炎天下の中ご苦労なことだ。
……まあ、軽度の熱中症になってしまった秀一が言えたことでないが。
「どうしちゃったの!?」
「ね、熱中症……」
「ええっ!? 今ここで!?」
「今ここで」というのはどういう意味だろうか。
何故か身悶えしている宮子に、秀一は問われてしまう。
宮子はしばらく考える素振りを見せた後、目を細め、うっとりとした表情を見せた。
「うん、いいよ……」
「えっ……何が……?」
「さっき転んじゃったのは、わたしの気を引くためなんだよね……? 心配しちゃったけど、許してあげる……」
宮子にギュッと抱きしめられる。
わけがわからないまま、小さくて可愛らしい唇が迫ってきた。
「ちゅ……ん……」
(え、ええええええええっ!?)
秀一は宮子に唇を奪われ、驚きを隠せずにいる。
どうして熱中症の真っ只中で幼馴染にキスをされたのか、まったく理解できずにいる。
(宮子……宮子みやこ! みやこ……)
だが秀一は驚きよりも、宮子の愛情を強く感じている。
唇の柔らかさに心がとろけ、甘い香りに酔いしれ、心が満たされていく。
あまりの快感に、意識がだんだん遠のいていく。
「えへへ……キスしたのって、いつぶりだろうね……?」
宮子の惚けきった表情を見て、秀一は昇天しかける。
本物の天使っているんだ、と思ってしまうほどだった。
だが鋼の意思をもって、気を張り続ける。
ここで眠ってしまえば、間違いなく死んでしまう。
「俺を木陰に連れてってくれ……スポドリ買ってきてくれ……頼む……」
「もう、しゅーくんは甘えん坊さんだね……よしよし──でもわかった、言われたとおりにするね?」
宮子は何故か猫撫で声で子供扱いをした後、秀一の肩を支えて木陰に向かった。
◇ ◇ ◇
それから数十分後……
「ええええええええええええええっ!? しゅーくん、熱中症だったの!?」
どうやら今頃気づいたらしい。
少し快復した秀一がことのあらましを伝えると、宮子は顔を真っ赤にしながら叫んだ。
木陰とスポドリ、もっと言うならばこの高温多湿な環境があれば、「熱中症」というワードが出てくるのは容易いはずだが……
「ご、ごめんねっ! ──どうして気づかなかったんだろう……しゅーくんが目の前で倒れて、それで焦っちゃって、『ちゅーしよう』って言われてドキドキしちゃって、キスしちゃて、それでそれで──」
「ち、ちょっと待て宮子! 俺、お前にキスを要求したのか!?」
「したよ! 覚えてないの!?」
秀一には、そんな覚えはない。
確かに宮子のことは大好きだが、それはあくまで"like"であって"love"ではなかった。
宮子とは同じ高校に通っているが、学校一可愛いと思っている。
健全な男子として、性欲を感じることは普通にあった。
しかしキスを要求するほどの勇気なんて、秀一にはなかったはずだ。
熱で頭が溶けたのだろうか。
ふと、宮子がなにかに気づいたのか、顔を両手で覆い始める。
「──あっ……あああああああああっ……恥ずかしいいいいいいいいいいいいっ……バカバカバカっ……!」
「ど、どうしたんだ!?」
「わたし、早とちりしちゃったんだ……──しゅーくんは熱中症なわけなんでしょ……?」
「ああ、宮子のおかげで良くなってきたけどな。本当にありがとう。見つけてくれたのが、お前で良かった」
「えへへ……じゃなくって! たぶんさっき、しゅーくんは『熱中症』って言ったんだと思う! それをわたしが『ねっ、ちゅーしよう?』って聞き間違ったんだよ! うわあんっ……」
「熱中症」と口にしていたのを、秀一は思い出す。
確かに宮子の言う通り、「熱中症」という単語の発音は、キスをせがむ時の文言のそれとよく似ている。
イントネーションは違うが。
(でも、なんで宮子は俺にキスしてくれんただろう?)
「ねっ、ちゅーしよう?」と頼まれても、それを断ることは出来たはずだ。
宮子は従順で優柔不断なところはあるが、それでもキスを軽々しくするような子ではない。
……子供の頃は遊びでたくさんキスしていたけど、流石にそれも小学校高学年の頃には卒業しているし、秀一以外とはしていないはず。
秀一には、キスをしてくれた理由を宮子本人から聞き出す勇気はなかった。
今の関係性を崩したくなかったからだ。
万が一「友だちでいよう? ……ね?」なんて言われたら、ショックで一週間は寝込むに違いない。
「しゅーくん……わたしのこと、嫌いになっちゃった……?」
「な、なるわけ……ないだろ……」
「キスされて……嫌じゃなかった……?」
「恥ずかしい……けど嫌じゃない。小学校の時に散々やってきたことだし、な」
目に涙を溜めていた宮子は、「よかったあ……」と嬉しそうに笑う。
頬を流れ落ちる雫に日光が反射し、秀一は美しさを感じた。
「と、とにかくだな! もうそろそろ帰るぞ!」
「うん! えへへ……」
秀一と宮子は、公園をあとにした。
◇ ◇ ◇
「──決めた。俺は宮子に、もう一度キスしてもらう」
自宅に戻った秀一は夕食をとった後、自室で謎の決意を固める。
「さっさと告白しろよ」とのそしりは免れないが、今はまだその時期ではない。
婉曲的なキスの誘いに宮子が応じるかどうか、それを確かめるのが先だ。
あくまで「婉曲的」というのがミソだ。
直接的な表現を使ってしまうと、後で言い逃れが出来ない。
そして「自分からキスしない」というのもポイントだ。
宮子の意思を尊重するためである。
(────俺は、キス魔王……)
名門校の優等生たらしめている頭脳を、今こそフル回転させるときだ。
たとえ周りに「ヘタレ」だと蔑まれようとも、「変態」だと罵られようとも、これだけは譲れない。
宮子の好意を安全確実に確認するため。
そしてキスの快感をもう一度味わうため。
「──今日は徹夜で、キスされる方法を考えよう」
実は明日の朝、宮子と会う約束をしている。
宮子いわく「ちゃんと元気になったか心配なので、お見舞いしたい」とのことだった。
秀一のオールナイト宣言はまさに本末転倒もいいところだが、そんなことを気にしていては「キス魔王」の名が廃れるというものだ。
明日の勝負に向けて、秀一は思考を加速させる。
紙とペンを取り出し、思いついたことをひたすら書き留めていく。
秀一はアイディア出しに有効な「ブレインストーミング」を、たった一人で行っているのだ。
優等生たる彼は生産性を上げるために、普段からこうした行いをしている。
──そして、時は流れ……
「ハハハ……ついに完成したぞ、完璧な作戦がッ!」
翌朝の5時……
秀一は徹夜の末、ついに幼馴染の宮子にキスされる作戦を完成させた。
「その労力を告白に使え」と言われそうだが、それは野暮というものだ。
なぜなら秀一は、振られることを極度に恐れているからである。
「うひゃひゃ! やった、やったぞ! フォオオオオオオオオウッ!」
いわゆる、深夜のテンションだ。
秀一はベッドの上で飛び跳ね、はしゃいでいる。
こんなところを親に見つかったら、間違いなく大目玉を食らうことになるだろう。
だがそんなことがどうでも良くなるくらい、秀一は喜びに満ち溢れていた。
「──ククク……今からはしゃいでも仕方がない。仮眠するとしよう」
今日の9時頃、さっそく宮子が家にやってくる。
「あまりガッツリ寝すぎてもよくない」との判断から、秀一は机の上で居眠りを始めた。
◇ ◇ ◇
7時……
秀一は日光に照らされながら、満を持して覚醒する。
「幼馴染にキスされる方法」を徹夜で考え抜くほどの努力家だが、曲がりなりにも優等生である秀一は規則正しい生活を送っている。
決めた時間に起床するなど朝飯前だ。
……まあ、どんな時間に起きても結局は「朝飯前」なのだが。
朝の支度を一通り済ませて勉強をしていると、インターホンが鳴り響いた。
時刻は9時──
「いよいよ、だな」
秀一は自室を出て、玄関に向かう。
ドアを開けると、少し緊張した面持ちの幼馴染の宮子がいた。
恐らく、秀一が元気になったか心配なのだろう。
宮子の顔を見ていると、昨日のキスを思い出してドキドキしてしまう。
だがランニングで身につけた呼吸法と心肺機能を駆使して、なんとか平常心を取り戻す。
「フッ……宮子、よくぞ参った──」
キリッとした笑顔を見せ、魔王っぽい声を作る。
深夜のテンションは、ほんの僅かに残っていたらしい。
だがそれはもう、宮子の笑顔を見て霧散した。
「おはよう、しゅーくん! もう元気になった?」
「ああ、おかげさまでな。ありがとう」
「うん! えへへ……」
宮子は笑顔を満開に咲かせる。
まるで小学生のような可愛さだ。
しかし異性として意識してしまっている現状では、背徳感の塊でしかない。
その笑顔の破壊力は、対物ライフルに匹敵する。
だが秀一はその銃弾をなんとかかわし、次の言葉を紡ぎ出す。
「さあ、上がってくれ」
「ありがとう、お邪魔しまーす」
秀一は宮子を連れて、部屋に連れ込む。
部屋はすでに掃除済みだ。
秀一と宮子は、テレビを見ながら雑談する。
今は熱中症特集をやっており、昨日熱中症で体調不良となった秀一にとっては耳が痛い。
「宮子、熱中症には本当に気をつけてくれよ?」
「うん……しゅーくんもね。それにしても、しゅーくんはすごいなあ……毎日公園で走ってるんでしょ?」
「ありがとう」
宮子は目をキラキラと輝かせていた。
運動がそれほど得意でない宮子は、炎天下で走る秀一を雲の上の存在と思って尊敬しているのかもしれない。
「運動音痴」とバカにしてくるクラスメイトを見返すため、と言ったらどんな反応をするか……
秀一は少しだけ、自分の卑しさを痛感する。
しばらく雑談した後、今度は動画配信サイトでアニメを観ることにした。
今観ているのは、現代日本を舞台としたファンタジー作品だ。
『──Ewige......Eisstatue.』
アニメの「魔女」が冷徹に敵を見据え、静かにボソリと詠唱する。
敵はみるみるうちに氷漬けとなり、一つの「芸術作品」が完成した。
「──今女の子が詠唱しただろ? 実はこれ、ドイツ語で『永遠の氷像』っていう意味なんだよね」
「ええっ、そうなの!? しゅーくん賢いね!」
秀一は日本語・英語だけでなく、ドイツ語にも精通しているトリリンガルだ。
宮子はこのことを知っているはずだが、やはり驚きを隠せずにいるようだ。
ちなみに秀一は、ドイツ語を中学二年生の時に習得した。
……あまり触れないで欲しい過去だ。
しかし、今日だけはその中二病に感謝している。
秀一は”Tschüss, Steiner.”というドイツ語の一文が書かれた一つのメモ書きを取り出し、宮子に見せた。
今日のために用意した「資料」である。
「これ、なんて読むの?」
「『チュース、シュタイナー』だ。”Tschüss”は『バイバイ』っていう意味の挨拶言葉で、”Steiner”っていうのは人名だな。つまり”Tschüss, Steiner.”で『バイバイ、シュタイナー』という意味だ」
「え、ええっ!? も、もう一回言って!? これ、なんて読むの!?」
「Tschüss, Steiner. チュース、シュタイナー。ちゅー……したいなー?」
「あうっ……!」
宮子は顔を真っ赤にしながら、瞳孔を大きく開かせている。
必死に呼吸を整えた後、秀一の両肩に手を乗せる。
「うん……しよ?」
宮子はまぶたをギュッと閉じ、唇を軽くすぼる。
うさぎのような可愛らしさを、全身からほとばしらせている。
宮子はゆっくりと、秀一に顔を近づけていく。
秀一は目を閉じ、宮子を待ち受ける──
「ちゅ……ん」
宮子の唇は柔らかい。
まるでマシュマロのようだ。
それに唇からは、チョコレートのような甘い香りがする。
恐らくはリップクリームの香料だろう。
チョコレートの芳香は、秀一をその気にさせるくらいの魔力を秘めている。
唇と唇を合わせるだけの軽いキスだが、それでも秀一は多幸感を味わえた。
心拍数が大きく跳ね上がり、顔が熱くなってくる。
それは宮子も同様で、彼女は瞳を潤ませ赤面させていた。
「キス、しちゃったね……」
「ああ、そうだな……」
「わたしたち恋人同士じゃないのに、イケナイことシちゃったね……えへへ」
言葉とは裏腹に、宮子の表情はだらしなくとろけていた。
見ているだけで、秀一の心までもがとろかされそうになる。
(でも宮子は本当に、俺の告白を受けてくれるのだろうか……?)
キス魔王・秀一が宮子にキスをさせた理由は、昨日の唇の感触をもう一度味わいたかったから、というのもある。
だがそれ以外に、秀一に対する宮子の好意……すなわち告白の成功率を確認するため、というのがメインだ。
昨日に引き続きキスをされたことで、脈ナシではないことは確認できたのだが……
秀一はまだまだ計りかねている。
宮子は今回のキスを受けて「恋人同士じゃないのに、イケナイことシちゃったね」と言っている。
あえてそう言った理由……すなわち、そのメッセージの裏についてはいくつか考えられる。
1つ目は、「わたしと恋人になって」
2つ目は、「今のキスは遊びだよ」
3つ目は……特に何も考えずに、脊髄反射的に発言した。
この3通りが考えられる。
小学生の頃は宮子とよく遊びでキスをしていたので、2つ目の可能性は否定出来ない。
また、宮子は「熱中症」を「ねっ、ちゅーしよう?」と聞き間違えるほどのうっかりさんなので、3つ目の可能性もある。
となれば、告白するのは時期尚早だ。
優等生たるもの、判断材料は集められるだけ集めるべきである。
今の状況で告白するのは、ただの蛮勇だ。
……ああ、宮子が余計なことを口走らなければ、何も考えずに告白できたのに。
などと秀一は考えたが、結局はヘタれてしまうに違いない。
このあと秀一と宮子は夏休みの宿題を一緒にする。
そして昼前、宮子は「お大事にね?」と言って帰宅した。
「──プランA、失敗。これより、プランBに移行する」
宮子の甘い香りだけが残った自室──
秀一はPCデスクに座り、次なる作戦の準備を始めた。
◇ ◇ ◇
一週間後、夏休み中の登校日がやってきた。
うだるような暑さの中、秀一は支度を済ませて家を出る。
家の門前には、何故か宮子の姿があった。
宮子とは家が隣同士だが、普段はバラバラに登校している。
何か用なのだろうか。
「おはよう、しゅーくん」
「おはよう。宮子、今日はどうしたんだ?」
「うん……あのね? 一緒に学校、いこっ?」
宮子は上目遣いで、少しだけ甘ったるい声で言う。
宮子が好きな秀一としては、これの誘いに乗らない手はない。
「よし、行こう」
「うん! あの……手、握っていい……かな?」
「いいよ」
「ありがとう! えへへ……」
秀一は宮子に左手を握られ、ドキドキしてしまう。
夏の暑さもあるため、手汗が気になって仕方がない。
一方の宮子の手だが、少し温かい。
けれど手汗は感じず、触り心地がとても良かった。
学校に到着した秀一と宮子は、学友たちと久しぶりの再会を果たす。
男友達と夏休み中の出来事を語らい合っていた秀一だったが……
「──御門君、なんですかその黒い肌は!?」
「うわっ!?」
背後から大声で叫ばれ、秀一は思わずたじろいでしまう。
後ろを振り向くと、そこにはクラスメイトの美少女・伏見姫華が立っていた。
日焼けなど感じさせず、汗一つかいていない、雪のような白い肌。
長い黒髪は手入れがきちんとされていて、とても綺麗だ。
身長はそこそこ高く、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。
「御門君ともあろうお方が、外で遊び呆けていたというのですか!? 不良になってしまったのですか!? なんと嘆かわしいっ……!」
秀一の記憶が正しければ、姫華は風紀委員も務めていたはずだ。
確かに風紀の乱れを取り締まるのは大事だが、外で遊ぶくらいどうってことはないと秀一は思う。
それをわきまえた上で、正直に答えた。
「遊んでなんかない」
「えっ……じ、じゃあ……日焼けサロン……? 優等生って思ってたけど、結構やんちゃなのね……?」
「それも違う。俺、毎日ランニングしてたんだよ」
「え、ええっ!?」
姫華は目をパチパチとさせ、瞠目している。
キス魔王こと御門秀一は、学校では一応「運動音痴」で通っているのだ。
姫華が驚くのも無理もない。
「こんな暑い中、よく走れますね……私なんて、歩くのすら億劫ですよ」
「まあな。だがそれを乗り越えれば『悟れる』んだ」
秀一は1週間前のキスを思い出す。
あの時公園で熱中症にならなければ、宮子にキスされることはなかった。
朦朧とした意識の中で、快楽と愛情を味わうことなんて出来なかった。
キス魔王として覚醒することもなかった。
まあそれを馬鹿正直に風紀委員に伝えるわけにも行かないので、「悟り」という言葉で片付けているわけだが。
「熱中症には気をつけてくださいね?」
「あ、ああ……気をつける」
もうやらかした後だが。
秀一は変な冷や汗をかきながら返事をする。
「と、ところで……末広さんとは、どうなのですか……? クラスでも異常に仲が良すぎる気がしますが、もしかして夏休み中に会ったりしているのでしょうか……?」
「非常に」の聞き間違いかな?
秀一はそう思いながら、何故か顔を真っ赤にして身悶えている姫華に返事する。
「宮子……えっと、末広さんは家が隣同士だからな、よく会ってるよ」
「あっ……」
姫華は、固まってしまった。
秀一が目元で手を振り「おーい」と呼びかけても、なんの反応もない。
姫華はどういうわけか、放心しているようだった。
◇ ◇ ◇
そのあと全校集会が行われ、ホームルームなどが終了し、ついに放課後となった。
「しゅーくん、一緒に帰ろう?」
「そうだな……その前に、ちょっと屋上で風に当たりたいんだが」
「うん、わたしも一緒に行くよ……いい、かな……?」
「もちろんだ」
秀一と宮子は、誰もいない屋上へ上がる。
雲ひとつない青空が広がっており、風が非常に気持ちがいい。
……まあ、蒸し暑くなければの話だが。
「宮子、今日昼飯はどうするんだ?」
「ママが作ってくれてると思うから、お家で食べるよ」
「そうか……実はな、通販で『似鱚』の缶詰を買ったんだよ。それが昨日届いたから、今日の昼に食べようかなって思ってて」
似鱚とは、鱚によく似た全長20センチほどの魚である。
秀一が購入したものは京都府産で、一缶500円プラス送料300円で、合計800円もする品物だ。
ちなみに、本物の鱚は手に入らなかった。
「キスの、缶詰っ……!?」
「いや、実は似鱚ってのは鱚とは別種らしいんだ。生物学的には何の関係もないんだって。まったく紛らわしいよな」
「うん、そうだね……」
「でも似鱚、食べたい? キス……欲しい?」
「うん、ほしいな……?」
宮子は瞳を潤ませ、上目遣いで秀一を見つめた。
その可愛さに、秀一は生唾を飲む。
「じゃあタッパーを持って、俺の家に来てくれ。分けてあげよう」
「ううん、今じゃなきゃダメ。早くキスがほしい」
「宮子は欲しがりさんだな」
「もう、しゅーくんのいじわる──少ししゃがんで?」
言われた通り、秀一は宮子に目線を合わせるように屈む。
宮子に両頬を優しく撫でられ、ドキドキしてしまう。
「じゃあ……キス、いただきまーす……」
艶のある唇が、ゆっくりと近づいていく。
秀一はこれから行われるであろう「儀式」を想像し、そして夏の暑さに頭をやられ、鼻息が荒くなる。
新鮮な空気はとても熱くむせ返るほどだが、それすらも心地が良い。
唇と唇が触れる……
──その直前。
「──あなた達、何をやってるのですか!?」
「うわあっ!」
女の金切り声が聞こえてきたので、秀一と宮子は驚きのあまり、後ろに転んでしまう。
声の主は、クラスメイトで風紀委員の伏見姫華だった。
(もしかして、キスしようとしてたところ見られてたのか!?)
屋上だと人目につかないと思って選んだのだが、どうやらそれは間違いだったらしい。
「学校」という聖地は風紀委員のテリトリー……敵陣で不埒なことは出来ないようだ。
顔が熱くなるのを感じながら、秀一は立ち上がる。
まあ、灼熱の太陽に照らされているので、最初から火照っているのだが。
しゃがみこんだままの宮子に、手を差し伸べる。
「立てるか?」
「うん……ありがとう」
「ちょっとあなた達、こんなときにまでイチャイチャしないでください!」
「イチャイチャなんてしてねえよ!」
まったく失礼な話である。
へたり込んだ女の子に手を差し伸べることの、どこが「イチャイチャ」だというのだ。
秀一は苛立ちを隠せないまま、風紀委員・伏見姫華と相対する。
「イチャイチャしてましたよね? もし私が通りかからなければ……その、キス……しようとしてました、よね……?」
(通りかかった……?)
どうして姫華は屋上まで足を運んだのか、秀一は疑問に思っている。
普通屋上には誰もいないので、風紀委員の巡回コースからは除外されていると思うのだが。
いや、「誰もいない」という共通認識の裏をかいて、巡回していたのだろう。
そうなってくると、この伏見姫華という女は策士なのかもしれない。
「確かにキスしようとしたけど……」
「学校での不純異性交遊は禁止されています。反省しなさい!」
確かに学校で宮子にキスさせることは、良くないことだと秀一は分かっていた。
だがそんなふうに頭ごなしに叱られると、反省したくなくなってくるのはどうしてだろうか。
たった今目覚めた反骨精神と、そして持ち前の頭脳を活かし、秀一は毅然とした対応を取る。
「そんなの校則に書いてたのか? 書いてあるなら遵守するけど、そんな項目なかっただろ」
校則は生徒手帳にびっしりと書かれているのだが、秀一は手帳をもらった直後に完読している。
不純異性交遊を禁ずる項目など、なかったはずだ。
姫華は生徒手帳を確認するまでもなく、ドヤ顔で頷く。
「確かに『校則』には書かれていませんね。ですが生徒手帳の15ページ目を開いてください」
そのページには「県立薬師高校生としての心得」という、校則とは別枠の決まりごとが書かれてある。
そこには「交際」の項目があり「異性との交際は、いついかなる場合も節度を守り、責任と自覚を持ち、他人から誤解を受けることのないように注意しましょう」とあった。
「これは校則じゃないだろ。罰則規定なんてないから、遵守する必要はない」
「あります! 私達の仕事は『学校の風紀の乱れを抑制すること』です。ですからあなた達のような不純異性交遊を取り締まる義務があります。ですから私達の指示にしたがって──」
「──わたしの恋は、不純なんかじゃないッ!」
宮子は突如、今まで聞いたことのないくらいの大声で叫んだ。
やまびこが響き渡っており、秀一も姫華も驚きを隠せない。
「す、末広さん……?」
「わたし、しゅーくんとは小学校の頃からずっと一緒だった。いっぱい遊んだし、男の子にいじめられたときも身を挺して助けてくれた。頑張って勉強してる姿を見て、わたしもいっぱい勉強した」
宮子はどうやら、秀一との思い出を語っているようだ。
自分たちの行為が「不純」ではないことを証明するために──
「それに、クラスのみんなから『運動音痴』ってからかわれてるけど、それを改善するために毎日ランニングしてた。熱中症になってまで、頑張って努力してきたの!」
どうやらランニングを始めた動機は、宮子には筒抜けだったらしい。
流石は幼馴染、以心伝心の関係だ。
(でもおかしいな、誰にも言ってないはずなのに)
だが、たとえ浅ましい動機だとバレていても、宮子は変わらず秀一に寄り添っている。
秀一はそれを嬉しく思った。
「しゅーくんはカッコいい! だからわたし、しゅーくんのことがずっと好きだったの! カノジョになりたい、お嫁さんになりたいってずっと思ってたの! だから不純だなんて言わないでッ!」
宮子の気持ちを聞いて、秀一は胸が締め付けられるような思いがした。
そう……宮子は最初から、秀一を好きでいたのだ。
わざわざ告白成功率を確かめるために、「キス魔王」として行動しなくても良かったのだ。
宮子の純粋な心を利用したようで、秀一は申し訳なく思う。
だがそれ以上に、好きだった相手と相思相愛だったという事実を知れてとても嬉しかった。
「そ、そんなの嫌……いえ、認められないですよ! 現に、あなた達はちゃんと付き合っているのですか? まだ付き合っていないんですよね!」
姫華の指摘通り、今の秀一と宮子は彼氏彼女の関係ではない。
ただの幼馴染だ。
それは「カノジョになりたい」という宮子の言葉から、容易に類推できるはずだ。
宮子はうつむき加減になり、何も言えずにいる。
唇を噛み締め、スカートの裾をギュッと握りしめている。
「──いいや、俺たちはたった今から恋人になるんだ」
「しゅー、くん……?」
「なっ……」
秀一は宮子の小さな右肩をポンと叩き、姫華に向かって宣言する。
そして宮子の両肩に手を乗せ、目線をしっかりと合わせた。
「宮子、俺はお前が好きだ」
「あうっ……!」
宮子は顔を真っ赤にしながら、秀一から顔を背ける。
だが「俺の目を見てくれ」と秀一が優しく囁くと、まっすぐ見つめ返した。
宮子の目は潤んでおり、見ただけで心拍数が一気に上がってしまう。
しかし告白成功率が100パーセントだと判断した秀一にとっては、告白に何の支障もない。
優等生たる秀一は、確実な勝機を逃すことはありえない。
「宮子はいつも俺の傍にいてくれたな。勉強してる時はちょうどいいタイミングで差し入れを持ってきてくれた。怪我をしたときも、熱中症になったときも、いつも助けに来てくれた。俺が努力できたのも、全部宮子のおかげなんだ」
「そう、なんだ……良かった……嫌がられたらどうしようって、ずっと思ってたの……」
「嫌がるわけがない──今まで支えてくれてありがとう。俺も一緒に支えていくから、恋人として寄り添いたいんだが……どうだろう?」
「ううっ……うわああああああんっ……やっとわたし、しゅーくんの恋人になれたんだねええっ……!」
泣きじゃくる宮子に抱きつかれた秀一は、彼女の背中を優しく撫でる。
腰まで伸ばされた髪の触り心地と、そして宮子の温かさが手のひらに伝わる。
宮子の甘い香りが鼻孔をくすぐり、甘美な気分となる。
「ふ、不潔よ不潔……こんなの、ありえないッ!」
秀一の告白を黙って聞いていた風紀委員・伏見姫華は、捨て台詞とともに走り去った。
秀一と宮子の邪魔するものは、誰もいない。
澄み切った蒼穹と、真夏の太陽が、二人の恋愛成就を祝福してくれている。
抱き合っていた二人は、一度離れる。
宮子は恥ずかしそうに目を背けながら、言った。
「あの……今度はしゅーくんからキス、して……? いつもわたしからだったでしょ……?」
そう……秀一は宮子の意思を尊重するため、常に「誘い受け」を心がけていたのだ。
もし自分からキスして嫌がられたらどうしようと、ずっと思い悩んでいたのだ。
だが、今はもう違う。
秀一と宮子は晴れて恋人となり、なおかつ宮子はキスを望んでいる。
秀一は勇気を振り絞り、宮子の小さな唇を塞いだ。
「ちゅ……ん……はあっ……」
秀一は宮子を抱きしめ、宮子の唇に舌を這わせた。
宮子が甘い声を上げながら口を少し開けたところで、舌を口の中に入れる。
この暑い日に、宮子とのキスはあまりにも甘美だった。
秀一は舌を動かし、甘い唾液で水分補給を試みる。
舌と舌が絡み合うこと、そして相思相愛の相手との行為は、秀一にかつてないほどの快感と多幸感をもたらした。
──しばらく濃密なキスを交わした後、二人は唇を離す。
宮子は名残惜しそうにしていたが、それは秀一も同じだ。
「大人のキス、しちゃったね……わたしたち、もう大人なんだね……えへへ」
「フッ、宮子はまだまだお子様だな」
「もう、バカにして……」
「でも、俺は宮子のそういうところが可愛くて好きだ。子供っぽいところが、大好きなんだ」
「えっ!? ──そ、そう言ってくれるのなら、ちょっとうれしいかも……」
宮子は顔を真っ赤にしながら、伏し目がちに言った。
「さあ、帰って沖ぎすの缶詰を食べよう。きっとうまいぞ?」
「うん!」
秀一と宮子は恋人繋ぎをして、屋上をあとにした。
◇ ◇ ◇
9月初旬。
ついに夏休みは終わり、二学期が始まるのだ。
自宅の玄関で靴を履き、秀一は家を出る。
すると登校日の時と同じように、家の門前では宮子が待っていた。
「おはよう、宮子」
「しゅーくん、おはよう!」
「自分の家で待ってくれてても良かったのに。日焼けとか、大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。だってしゅーくんが家を出るタイミングで、わたしも家を出て待てばいいだけだから」
確かに秀一は規則正しい生活を送っている。
分刻みでスケジュールを管理し、それに従って行動している。
宮子もそれを分かっているのだろう。
(でももし俺が寝坊したら、宮子が小麦色の肌になってしまうな)
予定通りに事が運ぶことは、実は少ない。
熱中症で倒れたのも想定外、「キス魔王」として徹夜で作戦を練ったのも想定外だったのだ。
状況は刻一刻と変わっていくのだから、当然といえば当然だ。
それでも宮子は待つというのだ。
感服するより他にない。
だが、どうしてそれが可能なのだろうか。
秀一の行動を逐一チェックしているのだろうか。
(まさか、な)
宮子は幼少期から、秀一が怪我をした時はすぐに駆けつけてくれた。
勉強している最中、ベストタイミングで差し入れを持ってきてくれていた。
そして今年の夏休み、熱中症になった時に助けてくれた。
これはすべて、本当に偶然なのだろうか。
いや、宮子の気遣い力の賜物である。
「──どうしたの? 行くよ?」
「え……あ、ああっ!」
秀一は登校日の時と同じように、宮子と手を握る。
だが一つ違うのは、それが恋人繋ぎということだ。
二人仲良く道を歩き、しばらくして学校に到着する。
階段を上り、教室にたどり着く。
引き戸を開けて中に入ると、突如パパパーンッという破裂音が聞こえてきた。
「きゃっ!?」
「──っ、敵襲か!?」
「御門君、末広さん! 交際スタートおめでとう!」
キス魔王こと御門秀一は身構えたが、どうやら敵襲ではなかったらしい。
先程の破裂音は、クラスメイト達によるクラッカーの音だったのだ。
「え、ええっ!?」
宮子は髪にかかった残骸をはたきながら、周りをキョロキョロと見渡す。
「いやー、二人がいつ付き合い始めるかか、一学期の頃からずっとやきもきさせられてたんだよなあ」
「でも良かったわね、末広さん。大好きな幼馴染くんと恋人になれて」
クラスメイト達は口々に秀一と宮子を祝福する。
秀一はとても嬉しく思うが、一方でどこから情報が漏れたのかが気になった。
「どうして俺と宮子が付き合ってるのを知ってるんだ?」
「登校日の時、お前と末広さんがキスしてたって噂があってな。準備してたんだ」
恐らく、秀一と宮子にサプライズするために、二人を除いたグループチャットでもしていたのだろう。
となると、噂の出どころは──
「──これくらい許してくださいね。ですが、勝負を諦めたわけではありませんので」
秀一はすれ違いざまに、伏見姫華に耳元で囁かれた。
恐らく噂を広めたのは姫華、登校日の時の意趣返しなのだろう。
秀一は、後ろを振り向かなかった。
なぜなら姫華よりも、宮子のほうが大切だから。
「御門。その鍛え上げた身体で末広を守ってやれ。筋肉は決して、お前を裏切らない」
「ああ──言われなくても!」
筋骨隆々のクラスメイトは、秀一のトレーニングの成果を見抜いている様子だった。
嬉しくなった秀一は、彼とグータッチする。
ちょっと、痛かった。
クラスメイト達からの質問攻めに遭った後チャイムが鳴り、ホームルームや始業式が執り行わる。
そして教師たちからの話を一通り聞き終えた後、放課後となった。
秀一は宮子を連れて、屋上を訪れる。
9月の残暑が厳しいが、秀一の心はとても澄み切っていた。
「ねえねえ、今日は何するの?」
「今日は……ポッキーゲームだ!」
保冷バッグからポッキーの箱を取り出し、見せびらかすようにして掲げる。
宮子は「わーい! ぱちぱちぱち……」と、手を叩いて喜んでいた。
包装を破り、1本のポッキーを取り出す。
保冷剤のおかげで、冷たさを保っていた。
「ん……冷たくて気持ちいい……」
秀一はポッキーを宮子に咥えさせる。
唇をすぼめている宮子の顔が、とても可愛らしく感じられた。
「じゃあ……行くぞ」
「うん……」
秀一はポッキーの一端を咥え、かじり始めた。
最後までお読みくださりありがとうございました。
熱中症にはどうかお気をつけください。
運動をされている方は特に、水分補給と体調管理を忘れずに。
閑話休題。
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