表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/7

第6章:孤独な白少女の本音

 ユキの面会に行ってから、ちょうど1週間が経った12月9日。病院の言った通り、ユキは退院したのだった。相変わらず無表情のままだったが、やっぱりいるだけでもホッとするものだ。千尋も帰ってきたその日に、真っ先にユキにかけ寄り、そっと彼女を抱きしめていた。千尋が笑顔になったのを見て、その時は俺も安心したのだった。

 ただ俺としては、個人的に頭を抱えていた。理由は彼女と約束した、自主トレについてだ。あの日、俺は南の島に行くことと、全額自腹で行くことを約束した。しかし現実、まだそこまでのお金が溜まっていなかった。それもそのはずで、プロ野球選手の給料である年俸が500万円の俺は、毎月40万円ちょっともらうのだが、用具代等にお金をかけることもあるため、十分な貯金がなかったのだ。場所にもよるのだが、だいたい自主トレを行う場合、国内の場合はどんなに安くても1000万円は、海外の場合は億単位のお金がかかる。そんなお金、はっきり言って出せるはずがない。

 約束をしたにもかかわらず、あまりにも見切り発車だった。どうすれば良いものか? 千尋に頼めば、ユキのことを思って出してくれるかもしれない。ただそうなると、おそらく自主トレに行く権利ごと奪われる可能性が高い。少しムキになっているかもしれないが、やっぱり俺が一緒に行かなければ意味がないのだ。

 面会したあの日、ユキは間違いなく俺に心を開こうとしていた。千尋にも見せなかった顔だ。なぜなのかはまったく見当もつかない。ただもしかすると、千尋には話せない何かがあるのかもしれない。または親しい千尋に言うと、心配をかけて申し訳ないので、対して迷惑のかからない俺に言っているだけかもしれないのだが……。

 ただ理由なんてどうでもいい。とにかくこのチャンスを逃す訳にはいかない。そのためにも自主トレのことは、俺とユキだけの秘密にして、2人きりで行う必要があるのだ。だからこのことは当然、誰にも話さなかった。

 ただお金が足りない現実は変わらない。しかも誰にも相談できないという現実もある。俺は困り果てていた。そして解決策も見いだせないでいた。練習で汗をかいて、その時は忘れられても、やっぱり新しい方法は浮かんでこない。一体どうすれば良いものか?


「あんた、またそんな難しい顔をして」


 家でもそんな表情をしていれば、母親にもそんなことを言われてしまう。もちろん母親にも相談していない。野球にかかわることなので、少し迷惑をかけづらかったためだ。


「別に。大丈夫だよ」


 こう言って俺は、毎度毎度母親の心配をかわしていた。まぁ自分としては、練習もしているし、普段の俺と同じような生活を見せていたと思っていたから。

 しかしさすがは母親だ。1週間も同じような感じだったこともあるだろうが、その日は息子のちょっとした変化も見逃さなかった。


「あんた、私に嘘をついているでしょ? 毎日そんな表情をしていたことがないから、わかるのよ?」


 ……うるさいなぁ。正しいけど、あなたに言っても力を貸してはくれないでしょうよ。かなりの金を用意しろって……、たとえそれなりの理由があったとしても、額が額なので出せないだろうよ。そんな感じの顔をしていると、そんな顔も見事に母親は見透かすのである。


「その顔は……、母さんには絶対にできないだろうって顔ね。舐めないでちょうだい! 私だってできることは結構あるんだから」


 まぁ母親は確かにいろいろできるけどね。でもそういう問題じゃないんだよ、これは。手際とかの問題じゃなくて、金なんだから。


「とにかく私に話してみなさい。叶えてあげるから」


「無理だよ、母さんには」


「いいから、とにかく」


 ……ここまで言われたら、とりあえず言うしかない。このまま黙っていても、結局は聞かれるだけだろうしね。


「わかったよ。じゃあ言うだけ言うよ。実は1週間前に、自主トレの約束を、ある選手としたんだけどさ。そこで全額費用を負担するって言っちゃったわけ。だけどそれには、2人で1000万円以上、多ければ億単位の金がかかるわけさ。そんな金なんか、当然あるわけないじゃんか。だからどうすればいいのか悩んでいたんだよ」


「そうね。それは普通に難しいわね」


 な、その通りだろ。


「でも、そもそもなんでそんなことを言ったのよ」


「それは……、その選手が少し心を閉じていたからだよ。それで一緒に練習をすることで、心を開かせたかったんだ」


「随分大きなことを考えていたのね、あんた。でも相手は男なんでしょ。男だったら、自分で解決できるようにならないと」


 ここで俺は当然こう返す。


「いや。その選手は女子選手なんだよ」


 普通に返しただけのつもりだった。しかし母親の目の色が変わった。


「えっ!? あんた女子選手の心を開かせたいって思ったの!?」


 そうか。よくよく冷静に考えてみると、この人はチームに女子選手がいるということは知っていたけれど、俺が女子選手と同じ寮に入っていることは、俺が恥ずかしくて言えなかったから、知らなかったんだった。だからそこまで仲が良いというのも、知らないんだ。俺としては女心に無頓着なところがあるので、別に一緒じゃねーかという程度にしか考えていなかった。しかし母親はすぐにこう言った。


「ダメじゃないの! そういうことはすぐに言わなくちゃ! 母さんが力になったのに」


「いや。力になったところで何もできないでしょうよ」


 俺は至極当然のことを口にした。すると母さんは俺に顔を近づけた。


「あんた。私を誰だと思ってんの? 女の味方になったら、私は強いのよ」


 なんか久しぶりに、これほどまでに熱い気持ちを持った母さんを見た気がする。こうなると、黙ってはいられない性格なのは、俺と非常によく似ている。


「待ってなさい! 母さんにいい方法があるから」


「いや。金なんか借りれないでしょうよ。最低でも1000万円だよ」


「チッ、チッ、チッ。それが、借りられる宛があんのよ」


 マジかよ。だとすれば相当ありがたい話だ。母さんに対して、数週間は拝まなければならないだろう。そんなことを考えていると、母さんがネットを使って何かを調べ始めた。おいおい。まさか株とかFXとかに手を染めようってんじゃないだろうな?


「あら、大丈夫よ。株とかギャンブルには行かないから。ちゃんと信頼できる所から借りるの」

 まぁそれならまだいいのだけれど……。そう思うと、ネットでの検索作業が終わったのか、今度は電話をかけ始めた。本当に親戚や友達に宛があるのだろうか?


「はい。もしもし。私、中島友希の母です」


 うん? 俺の知り合いに電話をかけているのか? 俺は自分の記憶をたどってみるが、友達にそんなお金持ちなんていたっけ?


「そこをなんとか……。ご検討いただけませんか? 息子が困っているので、助けてあげたいんですよ」


 交渉は難航しているようだが、それでも母さんは説得を続ける。そして――、


「本当ですか!? はい! ありがとうございます! あなたたちの心意気には、本当に感謝いたします。今後息子も、大、大、だーい活躍をしてくれることと思いますので、よろしくお願いします」


 いや、嬉しいけど恥ずかしいわ。ついでに変なプレッシャーまでかけやがって。ただとりあえず貸してはいただけるようだ。それには感謝しかない。


「母さん。ありがとう」


 俺はその他の感情をとっぱらって、素直に感謝した。


「いいのよ。これくらい当然なんだから。それにしても良い球団に入ったわね。あんた」


 いきなり何を言い出すのか。まぁやりやすくなっていたので、嫌な球団でもないのだけど。


「まさかあっさりと社長がお金を出してくれるなんて。あんた、明日行ったら、感謝しなさいよ」


 ……何を言っているんだ。俺は少し嫌な予感がしたので、恐る恐る聞いてみる。


「ねぇ、母さん。今、どこに電話をかけたの?」


「どこって、調布フロンティアズよ」


 俺は一瞬固まった。パードゥン?


「聞こえなかったの? あんたが所属しているチームの、調布フロンティアズよ」


 俺は普通に慌てた。えっ、部外者で球団に直接電話をかけるやつなんて、普通いねぇよ!


「何してくれてるの! 母さん!」


 俺はいろんな思いが一斉に出た結果、この一言に凝縮されて発せられた。しかし母さんは、まったく表情を変えない。


「何って。だってこのまま何も言わなかったら、誰も力を貸してはくれなかったのよ。良かったじゃないの」


 いや。そうかもしれないけど、段階というものがあるだろ。なんでいきなりよりによって、球団の社長さんに声をかけちゃうかなぁ。


「でも良かったじゃないの。社長さん、とても優しかったわよ。快く出してくれるってさ。ついでにいくらでも良いって」


 そこまで言ってもらえるとありがたい話だが、来年は間違いなく活躍しなきゃいけないじゃんかよ。背負うものが、また1つできちゃったよ。俺は喜びとプレッシャーが一度に襲ってきたような感じがして、なんとも言えない気持ちになった。もちろん言いたいこともいろいろとあったが、ただせっかくもらったチャンスだ。やっぱり活かさなければ。俺は気持ちを作って、翌日に備えた。


 翌日、球団に行くといきなり監督から呼び出された。昨日のことなのは、言うまでもないだろう。


「おい。中島。自主トレをしたいというのは本当か?」


「はい」


「それで、ジークと一緒に練習して、彼女を救いたいのか?」


 随分大げさに言ってくれたな。


「はい。そうです」


「正直昨日、社長はものすごくビックリされていたぞ」


「申し訳ありません」


 と言っても、俺のせいじゃないんだけどなぁ……。


「こんなにも、正義感あふれる選手がいたなんて……、ってな」


 と思ったら、褒めていてくれたんかい! すごくありがたい話だけど。


「ぜひともジークを、お前の手で救ってあげてくれ。必ずお前ならできるから」


 監督はそう言って、俺の手を強く握った。確かにそうしてもらえるのは嬉しいが、普通こういうのって、監督がやるべき仕事じゃないですかね。

 とにもかくにも、こうして俺とユキの2人での自主トレが行われることが決定した。金額としては、実に5億円もの大金を出してくれるとのことだった。だからこんなに出してもらったら、プレッシャーが過度にかかるんだってば! ただこれだけのお金を出してくれたので、場所は海外を用意してくれて、期間として3日間も設けることができた。もう少し日程が欲しい部分もあったが、そこはお金を出してもらっている以上、注文はつけなかった。

 そしてその日のうちに、俺はユキにそれらを伝えに行った。相変わらず彼女は、伝えても表情を変えずに、黙ったままだったが、あれだけ病院で言っていたので、わかってはくれているはずだった。後は、当日である12月15日の集合場所を伝えて、来てくれることをひたすら祈った。


 自主トレ当日の、12月15日になった。俺は待ち合わせの空港に、早々と到着していた。待ち合わせの時間は午前8時だったが、6時30分ごろに到着していた。もちろん彼女がいるはずもない。そんなことはわかりきっている。ただこういう時というのは、どうしても早く行動をしてしまうものだ。はやる気持ちを抑えられないのだろうなぁ。ただこれほどまでに早くに来てしまうと、本当にやることがなかった。仕方がないので、本日のシミュレーションでもして、少しでもユキの心が開けるように努めよう。俺は必死にこの日の予定を立てて、用意をした。緊張したら、意味がなくなってしまうというのに……。

 そんなことを考えていると、時間はあっという間に経つものだ。準備は十分にできると思っていたのに、結局は緊張してしまっていた。俺は空港の時計を見た。現在の時刻は7時55分。約束の時間まであと5分だ。まず何より、ユキは来てくれるのだろうか? 約束をしたので来てくれるとは思うが、もし来なければ計画はすべて台無しとなってしまう。不安はどうしても付きまとう。

 ……と、その時だった。遠目に黒の長袖のTシャツを着て、少し色が落ちたジーパンを履いた少女が、ゆっくりとこちらへ向かってくるのが見えた。髪の長さは、1年前の講習会の時と同じであるミディアムヘアーの黒髪で、顔や手先といった見える素肌は、真っ白になっている。間違いなく、ユキ・ジークラーその人だった。

 俺は正直、来てくれない可能性もあると思っていたので、とても嬉しかった。その嬉しさが行動となって現れたのか、俺は真っ白な彼女の方向に駆けていき、迎えに行ってあげた。


「来てくれたんだね。どうもありがとう」


 俺は感謝の気持ちを彼女に伝える。喜んだ気持ちも伝えたつもりだ。


「……」


 しかしこの日の俺の最初の発言では、彼女からの返答は得られなかった。やっぱりまだまだ心を開くには、相当な時間が必要なようだ。まぁ、こればっかりは仕方がない。これだけストレスやら、キャプテンの重責やらを自分の心の中に溜めているのであれば、なかなか話すことはできないだろう。ましてや、普通の会話でさえしたことがあまりないわけだから、無理もない。俺は喜びの気持ちを一旦胸にしまって、彼女をエスコートした。

「じゃあ、行こうか」

 ユキは返事こそしなかったが、ちょっとだけ首を縦に振ってくれた。俺としてはそれだけでも、入団時と比べれば心を開いてくれていると実感ができたので、少しは安心ができた。少なくとも、1番厳しかった状況からは脱したようである。


 俺たちは出発ゲートを通り、飛行機の中に入った。もちろん相席である。普通男女が相席だと、いろいろと男としては考えてしまうものかもしれない。現実、彼女は身長が158㎝しかないため、傍から見ればそこそこ可愛らしい感じもした。ただ如何せん表情が暗かったためか、まったくそのようなほんのりした感じはなかった。この間に少しでも彼女との距離を縮めることを考えても良かったのかもしれないが、あまりにも暗い表情だったので、俺は自分からアクションを起こしづらかった。これはもちろん、今に始まったことではないが、これまで振り返ってみると、彼女とまともに2人きりで向き合ったことはなかったので、なかなかに辛かった。たまに俺も、体調のことや自主トレのトレーニングメニューのこと、それに千尋のことも彼女に投げかけた。ただどの質問に対しても、彼女は返答することはなかった。そのせいで飛行機の中では、最新機のエンジン音と、たまに流れるスチュワーデスのアナウンス音だけが聞こえていた。


 結構な時間が過ぎて、ようやく自主トレを行う国に到着した。プライバシーにかかわることなので、詳しくは伏せておくが、温暖な気候の、海外の南の島である。今は冬であるがとても暖かいので、夏と勘違いしそうにもなるほどだ。現に空港内を歩いている人たちも皆、半袖短パンの姿の人が多くいた。そうなると長袖長ズボンで来たユキは、周囲から見ると、どうしても浮いた存在になってしまっていた。

 ――余計にストレスをかけてしまったか。そう思った俺は、すぐにバス乗り場に走って行き、練習場に向かうバスに乗り込んだ。席は後ろの方に座って、周囲から身を隠すように座っていた。バスの中も飛行機同様、会話は何もなかった。内容がなにも浮かんでこないんだもん。仕方がない。


 そして俺たちが乗ったバスは、練習が行われるスタジアムの近くのバス停に着いた。この間にユキは一言も発していないが、俺の指示には従ってくれていた。俺はもちろん、それでホッとしていたが、これでストレスを与えているのであれば、かわいそうだとも思った。ただ本当に嫌なら、さすがに言う可能性が高いか。俺はそんなことを感じながら歩いていると、練習場に着いたのだった。

 こう言ってはなんだが、我々調布フロンティアズのスタジアムよりも、ずっと広いスタジアムだ。海外ではこれくらいが常識なのだろうか? いずれにしても芝はきれいに整備され、このスタジアムに置かれている用具の状態も、しっかりきれいに整理・整頓されていたので、とても気持ち良かった。練習環境については、問題はなさそうだ。後はユキとしっかり練習できるかだろう。

 しかし今日、これまでの間に俺はまだ、彼女の肉声を一言も聞いていない。俺としては、せめて人並みに話せるような間柄にはなっておきたいとは考えていたので、かなり出遅れている感じはあった。……果たしてここから挽回できるのか?


「着いたよ。とりあえずまずは……、守備の練習からしない?」


 ひとまず俺は最初に、彼女の得意分野である守備練習から行うことにした。やっぱり彼女のことを中心で考えたかったので、彼女が好きな練習からやらせて、その後苦手分野の物に取り組ませる作戦にした。後は、俺自身の守備技術の向上も、理由には含まれるだろう。俺自身も強い向上心を持ってやらねばならないだろうから。

 そんな気持ちを持ちながら、俺とユキは自分のグローブを取り出した。ノックの開始だ。ちなみに今回のノッカーは、現地の人に頼ませてもらっていた。これも調布フロンティアズの社長さんが用意してくれた人である。どこまでも太っ腹な人なんだなぁと思いながら、俺はありがたく感じていた。


 さっそく守備練習が始まった。一応俺もプロとして1年間戦ったので、うまくなっている自信はあった。現に動き出しも早くなり、守備範囲も広くなっていた。やっぱり高校生なので、成長してるんだと実感する。

 しかしユキの守備範囲には、それでも遠く及ばない。彼女の守備範囲は、はっきり言えば異次元だ。衝撃的に動き出しが早かったり、ボールを取る技術や投げる技術があるからこそ、スタメンで起用されているわけだし、キャプテンも任されているわけだ。その身体能力の高さには、やっぱり驚かされる。

 それは走塁練習でも同じだった。彼女の走塁技術は、これまた突出していた。試合にはケガの影響もあって、俺より出ていなかったにもかかわらず、彼女の成長曲線の方が、より大きくなっているように感じた。それを表すように、今年2月のキャンプでは、ベースランニングのタイムが、13秒96だったのだが、今回は13秒85になっていた。わずかに10分の1秒じゃないかと思うだろうが、野球というスポーツはこのわずかな違いが、大きく結果を左右する。

 走塁に関して言えば、野球において生死で表わされる、アウトかセーフかの判定に影響が出る。そのためわずかな時間であっても、ピンチになるかチャンスになるかが変わるのだ。わからない人のために言えば、今のままなら妖怪に襲われてしまう状況であったとしても、10分の1秒速くなれば逃げ切れるというシチュエーションがあったとすれば、みんなもなんとかそれくらい走れるようにするでしょ。そのくらい大事なことなのだよ。俺だってキャンプの時よりも速くなって、14秒90になったんだよ。これだけでもすごいことなのだよ。まぁ彼女のタイムと比べれば、全然なんだけど……。


「すごいよ、ジークラーさん。タイムが前から上がってるじゃないか」


 俺は少しでも彼女の心を開かせるために、少し過剰に褒めるように努めた。ただやっぱり彼女は、反応してはくれなかった。今日は機嫌が悪いのだろうか? それとも本来しゃべらないキャラという設定を守るために、戻っているのだろうか?

 ただとにかくここまでのユキの動きを見る限り、彼女の身体能力の高さは、相変わらずすごいと感じた。ただ春のキャンプの時にも話したが、守備よりも走塁よりもより大事なのは、打撃である。そしてそれはユキが最も苦手にしている分野である。

 当然俺としては、苦手分野にも取り組んでもらう気はあった。とりわけ打撃でのあの姿勢には大いに問題がある。元々、彼女が最もバッシングを喰らった最大の要因は、バントばかりする彼女の過剰なまでの消極的な姿勢にあった。その姿勢は絶対に治す必要がある。たとえどんなに苦手であっても、どんなに下手くそであっても、だ。


 さっそく打撃練習に入る。正直彼女が自信をなくす可能性もあったため、本気でやろうか悩んだが、ここはやっぱり現実を見せる必要もあると思ったので、本気を見せることにした。プロには俺よりもすごい打者がたくさんいる。正直俺も、今までに自信をなくした時はあったが、それでも己を奮い立たせて、なんとか1年を乗り切った。天才打者の俺でさえ自信をなくしたのであれば、彼女はひょっとすると、今でも自信をなくしているのかもしれない。俺よりもずっと大きな不安を抱えているのかもしれない。でもそんなのプロの世界では関係ない。とにかくプロ野球選手という肩書きを背負っている以上、やるしかないのだ。


「じゃあジークラーさん。俺がトスするから、その球を打ってくれ」


 俺がそう彼女に指示を出す。彼女はいつものようなぎこちない感じで、首を縦に振ってくれた。俺が彼女の打ちやすい場所に向かって、ボールをトスしていく。そのボールを彼女は淡々と打ち続けた。


「カン。カン。カン」


 物音があまりしない場所にあったため、ボールがバットに当たる音だけが、周囲に響き渡っていた。その状況がこの練習に対して、真摯に取り組んでいるかをよく表わしているように感じた。それにしても俺は冷静に感じるのだが、この子うまくなってないか?

 あれだけ消極的な姿勢だったので、一見すると下手になっているように見えたのだが、まったくと言っていいほど真逆だった。彼女の打撃技術は、明らかに上がっている。俺が見てなかっただけで、隠れて頑張っていたことがよくわかる。やっぱり打撃が下手だということは、おそらくユキ自身が一番わかっていたのだろうな。でもこれだけ上達しているなら、バントに頼る必要はないのではないかとは思ってしまう。もしかして、何か別に理由があるのだろうか?


「ユキ。すごく良かったよ。それを続ければ大丈夫」


 俺も彼女に自信を深めてもらいたかったので、力強い声をかけた。


「……」


 もちろんユキからの返事はない。ただもう慣れていたので、ユキの心に響いていればいいと、俺も割り切っていた。ユキは間違いなく成長している。後は、間違った姿勢を正し、自信をつけさせれば、ユキは間違いなく調布フロンティアズの主力になれる可能性は十分にある。もちろん俺よりも上に行くのはあまり気持ちが良くないし、それが女子選手だということのも少々気に入らないが、この際そこは完全に無視した。すべてはチームのために、いや、すべてはユキのためにと思っていたから――。


 1日目の練習が終わり、俺たちは予約してあったホテルに戻った。例によってここで俺はとんでもないことに気付いてしまう。男女で2人なのに、なんと一部屋しか予約してなかったのだ。なぜなのかを社長に問い合わせたところ、手違いで……とのことだった。おいおいマジかよ。

 俺はとりあえず荷物をまとめて端の方に置き、ユキと距離を置いて壁際の椅子に座った。さすがに彼女の近くにいると、いろいろと勘違いされる可能性も高いし、彼女自身も少々気が引けるだろうと思ったので。

 ただユキ・ジークラーは、そういうことがわかるような選手ではなさそうだった。たまに目線が合うのだが、その度に俺が遠くに座っているのを不思議そうな表情で見ていた。もちろんなにも言わないのだが、それが逆に、変に気を使うんだけどなぁ……。仕方がないので、ユキの方に近寄って行き、いろいろとアドバイスをすることにした。


「ねぇ、ジークラーさん。もし良かったら、今後のチームのことについて話さない?」


 なんか俺の言い方も、怪しいような……。


「……いいよ」


 !? あれ? 2人になった途端に、話してくれた。おいおい、ここで発言し始めるなよ。驚くし、変な想像もするじゃんかよ。俺がそんな風に取り乱していると、それに構わずにユキがこう言った。


「でもここで、2人でしゃべって何かを決めたとしても、それにみんなが賛成してくれなくちゃ意味がないよ。だから……」


 なんだ……。断っていたのか。俺はがっかりしたけれど、ごもっともな理由を言われてしまったので、身を引くことにした。

 ただ、彼女がしゃべってくれた。それは嬉しい話だった。そして今までの傾向からすると、どうやら俺と2人きりの時に話す傾向があるようだ。それも完全に2人きりで、外部の人が誰も聞いていないと確信できる時だけ。そう考えると、俺に対しては心を開いてもいいと考えてくれているのだろうか? だとすれば、少し嬉しい話ではある。そんなことを考えて、少しにやけていると、ユキがジト目でこちらを見てきた。俺はすぐに表情を引き締め直して、


「さ、明日も早いし。すぐに飯にして、寝よっか」


 と、少し優等生ぶったことを言うのだった。彼女はなにも言わなかったが、少し好感度が下がってしまったようだった……。


 翌日になった。今日は社長の粋な計らいもあって、地元の大学生のチームとの実戦形式の練習を用意してくれたようだった。やっぱり実戦形式の方が、より現実的で力が入りやすい。しかも相手は海外の大学生チーム。要するに、将来のメジャーリーガーがうようよいるわけだ。

 メジャーリーガーとは、アメリカで活躍している野球選手の事を言う。アメリカでは日本よりも野球の人気は圧倒的で、競技人口も多い。よって、日本よりもレベルが高いのである。もちろん、日本も世界的に見ればかなりのレベルであるし、アメリカに勝る部分というのもたくさん存在する。しかし総合力で見れば、アメリカの方が全然上だ。選手個々の能力もそうだし、1チームごとの収益力も桁違いに多いため、日本からアメリカに行くという選手も少なくない。つまり、大学生のチームと言っても、日本よりもレベルが高いため、プロと一緒にやるのと同じくらいの価値があるのだ。こうなりゃ当然、俺のやる気も上がる。天才打者の力が世界から見て、どのくらい通用するのかが確かめられる、良い機会だ。

 でももちろん、ユキのことも忘れないようにしなければいけない。あの消極的な姿勢が出てしまったら、まずいことになりかねないからだ。彼女はいったいどのような姿勢で他のチームの選手たちと接するのだろうか。


 さっそく昨日と同じ練習場に着いた。そこに着いて間もなく、俺は圧倒されてしまった。

 とにかくガタイのすごい選手が、山のようにいる。色白の選手も色黒の選手も、皆同じような鋼の肉体をしていたのだ。俺もパワーヒッターということもあって、それなりに筋肉には自信があったのだが、これでは勝負にならない。単純な力勝負では叶いそうもないのは、火を見るよりも明らかだ。

 ただこんなことで圧倒されているようでは、プロとしてはまだまだだ。もちろん力が及んでいないのはわかっていたが、それでもその現実に果敢に立ち向かっていくのがプロ野球選手。その覚悟をしっかり持って、俺は早速グラウンドに向かった。


「グッドモーニング!」

 俺は元気よく挨拶する。相手はほとんどがアメリカ人のため、これだけ元気に挨拶をすれば、「Oh!!」とか言ってくれて、元気に出迎えてくれるものと思っていた。だが……、


「○◎△$♪×¥●&%#※□◇#△」


 ……流暢な英語で返されてしまった。はっきり言って、俺の英語力はほぼ無いに等しい。そのため何を言ってるのかまったくわからなかった。それでも相手はそんなことがわからないので、さらに言葉を続けていく。


「○▼※△☆▲※◎★●!?」


 いや……。何を言っているのかわからないのですが。しかもさっきより少しだけ、語尾が強くなっている気が……。


「▲☆=¥!>♂×&◎♯£○!※□◇#△!!!」


 おいおい、顔まで近づけてきたぞ。このままだとやられちゃうかもしれない。どうすればいいんだ。俺があたふたしていた時だった。


「ハーイ。ナイス、トゥー、ミートゥー」


 流暢な英語で返してきてくれた。この高くてか細い声の主は……。俺がそう思って振り返ると、ユキがこちらに向かって来ていた。自身がとてもありそうだった。俺がお願いしますとでも言わんばかりの感じで、身を引っ込めると、任せなさいというよりも、当然できますよというような感じで、屈強な男たちに向かっていった。そして彼らと話し始めるのである。


「○◎※★●>♂×&◎♯」


 そうか。よくよく考えてみれば、彼女の名前はユキ・ジークラー。つまりアメリカの人だったのか。俺はそう解釈するのだった。それにしても、あれだけ俺や千尋はもちろん、自分たちのチームメイトにも話そうとしなかったのに、英語だとこれほどまでにコミュニケーションをとるのか。もしかして、日本語があんまりしゃべれないのかな? 俺はそう思って、念のため屈強な外国人たちとの会話に一段落がついたユキに聞いてみた。


「ねぇ、ジークラー。ちょっと失礼なことを聞くけど……」


「日本語なら、普通にしゃべれるよ。だから安心して」


 ユキはあっさりとした表情で、俺にそう言うのだった。そうなのか。だとすればやっぱりチームメイトにコミュニケーションを取らないのは、別の理由だったのか。


「それより早く練習を始めましょ。この人たちも早くやりたいって言ってるからさ」


「お、おう」


 俺は少し彼女に圧倒される形で返事をした。それにしても、明らかに俺といる時よりも口調が滑らかになっている。外国人の方が話しやすいのだろうか。確かにウチのチームには外国人選手はいないので、その考えは正しいかもしれない。でも千尋があれだけ一緒にいるのに、それなのに外国人の方が話しやすいというのは、やっぱり考えにくかった。彼女の謎は、まだまだたくさんありそうである。


 そんなこんなで練習が始まった。先ほど言ったように実戦形式のため、相手もそれなりに本気で挑んでくる。例えば走塁練習をしているときに相手は守備の確認をするのだが、返ってくる送球は、どれも本気でアウトにしに来ているものばかりであったため、なかなか積極的に走ることができなかった。


「○※□◇#△」


 消極的だった姿勢を咎められているのか、コーチと思われる外国人に声をかけられた。俺はその度に怖くなって萎縮してしまっていたのだが、ユキはまったくそのような様子を見せなかった。そのコーチのような人物にいろいろ言われても、「OK」などと返しながら、練習を続けていた。なぜ外国人相手だとここまでできるのかと俺は気になったが、彼女の英語力と、少々のフランクな感じがウケているのかなぁと思ったのだった。

 ただ俺は大変だ。英語がわからないので、どうしてもあたふたしてしまうところがあった。本来の力を発揮できないまま、午前中の走塁練習と守備練習を終えるのだった。


 打撃練習は午後だったので、その前に休憩がある。俺は練習がハードさであったことに加えて、コミュニケーションを取れなかったこともあって、精神的にも体力的にも参っていた。息遣いも普段より荒い。

 ――こんなんで、本当にプロとしてこれからやっていけるのか?

 そんな不安が頭をよぎると、また少々落ち込んでしまうのだった。

 そんなことを1人で考えていると、「はい」という声とともに、スポーツドリンクが俺の座っている机の目の前に置かれた。置いてくれたのはユキだった。


「結構冷やしておいたから、まずまずリフレッシュできると思うの。だから早めにどうぞ」


「あ、ありがとう」


 俺は感謝の言葉を述べたが、少し戸惑っていたのか、少し歯切れが悪くなってしまった。その理由はいたってシンプルだ。

 ――今日のユキは、本当によくしゃべるなぁ。

 普段の彼女であれば、まったくと言っていいほど口を開かないのに、今日に限ってはものすごくしゃべる。英語で話す方が話しやすいのだろうか? それとも外国人の方がいいのか? はたまた、自分のことを批判する人物がいないので、のびのびとやれているのだろうか? いずれにしても今は俺にとって、いろいろと聞けるチャンスかもしれない。そう考えて俺は、さっそく彼女に聞いてみることにした。


「ねぇ、ジークラーさん。千尋とはやっぱり仲良しなの?」


「……うん」


「感謝もしてるの?」


「……うん。いつも身の周りのことをしてくれるし、私に気をかけてくれるから、それが嬉しかったりする」


 歯切れは悪いが、答えてくれなかった質問にも、今は答えてくれるようだ。こうなったらいろいろと聞きだした方がいいかもしれない。そう思った俺は、少々強引に畳みかけるように聞いた。


「そしたらさ。入院してた時に俺がダメだって言ったら、ジークラーさんはそんなことないって言ってくれたじゃん。あれはどうしてなの?」


「……休まずに試合に出てたから」


 少し予想外だった。


「そうなんだ。ホームランとか打ってたけど、それは?」


「……別に。得意分野なんだから、打てて当然だと思うけど」


 意外と毒舌キャラなのか? 俺の自身があったホームランについては、「別に」という言葉とともに一掃されてしまった。それを見てユキは、こう返した。


「それよりも試合に出ることの方が大事だと思うよ。だって……、普通の会社じゃ休むなんてあんまり考えられないからさ……」


 確かに。それを言われるとその通りだ。ただ俺としては、そこはプロ野球選手なので、そこまで重要なことではない気もするのだが……。そう考えると、ユキがこう続けた。


「それに……、私だって……」


 俺は激しく動揺した。そこで自分の比較したら、そりゃ自分のみじめさに気付いてしまうのは、当然の展開だった。


「そ、そんなことないよ。君は女子選手なんだから、全部出るのはなかなか難しいって。ちゃんとスタメンに居続けたんだから、十分すごいんだよ」

 こういう時というのは、必死に人間はフォローをしようと試みるものだ。しかしそれは、決して彼女を元気づけられるかどうかはわからないもの。これを聞いたユキは、さらにへこんでいたのだ。


「そっか……。やっぱりあなたも、女子選手だから仕方がないって思うんだね……」


 俺は彼女と深く話したことがない。だからまさか、女子選手と男子選手の差別的な報道に対して、ショックを受けているとは思わなかったのだった。


「ご、ごめんよ。別にそんなつもりで言ったわけじゃないんだ」


「……」


 完全に黙り込んでしまった。せっかくいい雰囲気だったのに、最悪な空気にしてしまった。俺はそれから何も言えず、打撃練習まで沈黙の時間が続いたのだった。


「ヘイ! レッツゴーー!!」


 ある外国人選手の一言で、練習は再開された。いよいよ打撃練習の時間がやってきた。これまでの練習でも使う用具や練習内容、それに選手の心構えなどに驚きと感銘を受けながらやっていた俺だが、やっぱりメインの打撃練習は、より楽しみであった。相手は外国人選手ばかり。俺よりも相当な肉体を誇っている選手ばかりだ。このメンバーの中で、果たしてどれだけ俺の力が通用するのか? 力試しの時である。

 さっそく日本から持って来たバットを握る。すると早くも外国人選手たちが反応する。何を言ってるのかはもちろんわからなかったが、気落ちしていたと思っていたユキが通訳をしてくれた。


「なんでそんなに軽いものを使ってるのか? だって」


 はい? そんなことを言われましても、チームの中で使用しているバットを使用しているだけですけども……という話だった。プロ野球選手には自分のバットを持っているが、基本的にはそれぞれのチームに、用具がそれなりの数用意されている。その中の1つを監督が持って行って良いというので、今日は持って来たわけで、これはチーム内で使われているバットだった。しかし外国人選手たちは、そのバットの軽さに驚いていたのだった。となれば、当然相手はどんなバットを使っているのか気になる。俺はさっそく使っていたバットの1つを握ってみた。

 ……重い。ずっしりと重い。さすがに振ることはできるが、あんまり何度も振っていると、腕や肩だけでなく、腰や下半身まで痛くなりそうだった。もちろん体格に差はあるが、最初からこれだけの違いを見せられると、その時点で驚かされるものだ。俺はいきなり不安になった。でも自分が使い慣れているならば、それを変に変えない方がいいこともよく知っていた。自分に合わない物だと、それによってバランスを崩したり、もっと悪ければケガをすることだってある。変に背伸びはせず、そのままで打席に向かうことを決意した。


 さっそく打席に立つと、屈強な黒人の投手がマウンドに上がっていた。もうこの時点で少々ビビってしまうのだが、自分の中で気にしないように心がけた。そうしないと、勝負にならないから。

 1球目。外国人選手らしく、全身を使ったダイナミックなフォームで投じた。見た感じ、そこまで球速は出ていないように思った。しかも真ん中付近の甘い球。これは絶好球と言える。俺は迷いなくバットを振った。


「バキッ」


 俺は衝撃を受けた。ど真ん中の絶好球だったはずだったのに、バットが真っ二つに折れたのだ。

通常バットが折れるときは、球をしっかり捉えられていない時に起きやすいもの。力を加えているところが、打者の当てたと思っている場所と、実際に球が当たった場所にずれが生じることで、バットが折れる仕組みになっているのだ。

 では今回はどうだったか。もしかすると俺の思惑とは異なり、違うところに当たっていた可能性はある。ただそれだけがすべてではないというのが事実だろう。単純な力負けということだ。

 俺はこの1球で、完全にひるんでしまった。アメリカに行くと、大学生のレベルでこれだけの差が出てしまうのか。そのように愕然としてしまったからだった。そんな状況でまともに打てるはずがない。結局その投手との対戦で、見事に凡退してしまった俺は、その後に出てきた別の投手相手でも、同じように凡退し続けてしまうのだった。

 俺はひどく落ち込んだ。まったく通用しないなんてことが起こるとは思わなかったからだ。俺はベンチに下がって、下を向いて座ることしかできなかった。タオルがあるならば、顔を思いっきりつけたかったくらいだ。悔しいというよりも、情けないというのが本音だ。


「ヘイ!!」


 俺は突然の大声に驚いた。何だよ、いきなり。心を痛めているんだから、今はほっといてくれよ。そう思って前を見ると、俺の目の前には外国人選手はいなかった。では今の声は? そう思ってグラウンドの方に目をやると、マウンドに上がっていたとある外国人投手が、ユキに向かって何かを言っているのだった。あの表情を見る限りでは、怒っているように見える。一体どうしたというのか? そう思ってしばらく見ていると、彼女が再び打席に立った。

 と、その時だった。ユキがバットを横に寝かせたのだ。そう。彼女のバントにすぐ走る悪い癖が出たのだ。昨日の俺との2人での練習の時は、あの癖がまったく出なかったのに、ここにきていきなり出たのである。


「ヘイ!! △$♪×¥●&%#※!!」


 俺には最初の「ヘイ!!」の時点で、この外国人選手が何を言いたいのかだいたいわかる。


「おい、お前!! なんでずっとバントしてくるんだ!」


 このように言っているのはほぼ確実だった。しかもこれに「喧嘩売ってんのか!?」とか、「やる気あんのか!?」といったオプションも付いてきているかもしれない。俺は急いでユキの方に走って行き、一度打席を離れるように声をかけた。ユキは何も言えなかったが、今にも泣きそうな表情をしている。俺は彼女の意見を聴くこともないまま、ベンチの方に彼女を下げたのだった。半ば強制的ではあったが、ひとまず休憩することした。


 ベンチの中でも俺はずっとひどく落ち込んでいた。が、それもすぐにそれどころではないという気持ちになった。グラウンドの方では外国人選手たちが、コーチ陣に抗議している。おそらく俺らの能力や姿勢に対してだろう。ユキは下を向いたままで、何も話そうとしない。このままでは何も解決しない状況だったのは明らかだった。解決法を見出すためには……、やっぱりユキ本人にこの姿勢の理由を聞くしかない。そうしないと何も始まらないのだ。

 俺は近くにあったスポーツドリンクを一口飲んで、ふぅ~と一息をついて、ユキの方に歩み寄った。


「ねぇ、ジークラーさん。ちょっといいかな?」


 ユキは少し不意を突かれたのか、驚いた表情を見せた。しかしすぐに下を向いてしまった。その後は何も言わずに、下を向いたままだ。その変わらない状況を変えるべく、俺が声をかける。


「ねぇ、ジークラーさん。なんか怖い事とかある?」


 俺はとりあえず彼女にそう声をかけてみる。彼女は俺が何を言いたいのかを理解していたからなのか、口を真一文字に結んでいた。やっぱり話したくないと感じる。しかしそんなことでは、これから先の未来はない。少し攻め気味に言ってみる。


「やっぱり……。結果が出ないのが、怖いの?」


 ユキは余計に下を向く。当然だ。触れて欲しくないのだから。


「実は俺、プロになるまではなかなか結果が出なかったことがなかったんだよね。それで楽勝だと思ってこれまでやって来れた。プロでもそんな気持ちでやれると思ってたんだ」


「……」


「でもさ、やっぱりそんなことはなかったんだよね。プロの世界はそんな甘いものではなくて……。口ではわかってるつもりで言ってたけど、やっぱり心の方がわかってなかったんだよな。それでまったくダメになっちゃったから、怖くなっちゃったんだ。自業自得だよね。情けないよな」


「……どうして?」


 ユキが再び口を開いた。私の気持ちなんかわからないとか言われたらそれまでなので、その覚悟もしていたが、そうではなかった。


「どうして……? どうしてあなたは、そんなに自信を持ってバットを振れるの?」


 ここまで真っすぐに、彼女が俺に対して伝えてきたのは初めてだったかもしれない。どうやら俺が疑問に思っていたこととは逆のことを、ユキ自身も思っていたようだった。俺はユキの元に少し近寄って、理由を話すことにした。


「ただやみくもに振り回してるわけじゃないけど、俺は相手に強く見せたいっていうのが、第一にあるんだ。だってそれで相手投手に、こいつ簡単に抑えられるやつだなって思われるのが嫌だからさ。その影響でチームとしても悪影響を及ぼす可能性が高い。だから責めて気持ちだけでも負けないように努めてるんだ。俺は強いんだぞってね」


「……」


「ちょっとかっこつけてるかなとも思ってるよ。でもそれだけ必死なんだよ。なんとかしてチームを強くしたいからね。だから俺は……」


「……グスッ」


「えっ?」


 俺は慌ててユキの方を振り向いた。彼女はすすり泣いていた。正直今まで表情を変えた姿を見た事がなかったので、感情を表に出す姿を見たのは、これが初めてだった。俺はハンカチを取り出して、彼女に手渡した。彼女はそれを使おうとはせず、座っているそばに置いた。俺はしきりにユキに大丈夫かと聞いたが、彼女は何も答えず、ただただ泣いていた。もちろんかわいそうではあった。ただもしかすると、この涙が今後の糧となる可能性もあるなと感じていた。


「無理はしなくていいよ。別に泣いたって問題ない。でもどうしてバントばかりするのか。それだけは教えて欲しいんだ」


 俺は核心を突く質問をする。彼女にとってみれば、最も答えたくない質問であることは容易に想像がつく。それでも聞きたかった。だから真っすぐ勝負で挑んだ。すると彼女がついに重い口を開いた。


「怖いの……」


「うん?」


「怖いの……。打てないのが怖いの……」


 ついに隠していた本性が姿を現したのだった。やっぱりそういうことだったのか。


「それは結果を出せないのがってこと?」


「うん」


 心がナイーブな選手だったり、責任感が強い選手だと、こういうことを感じるのかもしれない。でも今の現状はどうだろうか? 俺がその事を伝える。


「ユキは今の現状をどう思ってるの?」


「それは……」


 ユキが解答をためらっている。そりゃそうだ。嫌なことなら俺も解答しづらい。


「答えられないなら今は良いよ。俺は練習に戻るから、しばらく休憩してて良いよ」


 俺はそう言って、グラウンドに戻った。もちろんボロボロにやられるような辛い状況も、俺は見せる必要があると思った。よくよく考えれば調子が良い時は忘れていたが、野球は成績を残せなくなる期間も存在する。そしてそれは、どんなにすごい選手でもそうなり得るのだ。だがそれを乗り越えることができれば……。

 俺はもう一度、屈強な外国人投手に挑んだ。もちろんそんな劇的に変わるはずはない。ほとんどの球は打てないし、球の威力もすごいせいで、たまに当てることができても、強い当たりはほぼ打てなかった。それでもそのままダメになって終わるのは、やっぱり悔しい。このまま何もしないよりも、少しでもいいから喰い下がりたい。その気持ちがあったからこそ、俺は何度もその投手を相手に戦った。

 するとそのうちに、俺のタイミングがだんだん合ってきたのだ。何回も対戦していれば、そのうちこういうことは確かに起こるかもしれない。しかし、合わせられないままよりは全然マシだ。それこそこれから先、何かの機会で対戦することがあった時に、何らかのインパクトを残しておいた方が、脅威に感じるかもしれないし、将来的にもっとレベルの高いところを目指せるかもしれない。そのための自信をつけることはとても大事なのだ。俺はそんな強い気持ちを持つことができたまま、打撃練習を終了した。


「ジークラーさん。見てた? 俺、結構いい当たりしてたよね?」


 俺は自信を持ったまま、ユキの待つベンチに走って行った。ユキは何も言わなかったが、こちらを向いた状態で拍手をしてくれた。ちゃんと見ていてはくれたようだ。


「じゃあ、次はジークラーさんの番だよ。行っておいで」


 俺はさりげない感じを出しながら、ユキに打席に入るように促した。しかしユキは動こうとはしなかった。さっきまで外国人選手に対して、フランクに対応していたのに、今はまったく別人になっていた。俺はそれをすぐに察して、ユキの隣に座った。


「そういえばさ。さっきの答えを聞いてなかったけど、今の現状をどう思ってるの?」


 少々積極的な姿勢を出して聞いてみる。するとユキは俺の気持ちに折れたのか、答えてくれた。


「このままではいけないとは……、思ってる」


 やはり自覚はあったようだ。となれば、さっきの怖いというのが、本心なのであろう。


「でも、みんな勝負強くて、チャンスをちゃんと活かしてくる。そんな状況で私だけ活かせなかったら、どうしようって……」


 これを男が言っているのならば、「気合を入れろ!」とか言えばいいのだろうが、相手は少女だ。あんまり圧をかけても縮こまってしまうだけなので、ここは柔らかく声をかける。


「そんなことないよ。俺なんて何回もチャンスをフイにしたことがあったからね。そんなにずっと結果を出してる選手なんていないよ。俺は特に個人に徹したような打撃しかしてこなかったから、よく監督には怒られていたしね。そう考えたらチームのために徹しようとしてるジークラーさんは、十分すごいと思うよ」


 ユキは真剣な眼差しを送っている。こういうところは、俺とは大きく違うところだ。


「そうやって俺の話を聞いてくれるところも、俺としては本当に嬉しい話だよ。やっぱり聞いてくれると、こっちもアドバイスがしやすいからね。ジークラーさんはとっても偉いよ」


 ユキの視線はまったく動かない。この感じを見る限り彼女自身も、変わりたいと思っているのかもしれないと感じる。だからこそ、伝えたい部分をより強調した。


「だからね、俺はジークラーさんに、ぜひとも攻める気持ちを持って、自分の打撃をして欲しいんだよね。バントもいいけど、元々天性の物を持っているんだから、それを活かして欲しいわけさ。正直君なら絶対にできると思うよ」


 こう言うと、ユキは再び視線を落とした。やっぱり自信はないようだった。そして小さな口をもごもごと動かしていた。何か言いたいのだろうか? ただしゃべっているようには見えない。そこについては、深く問い詰めないことにした。


「少しずつでいいよ。仮に結果が悪くても、俺は絶対に否定はしないからさ」


 その代わりに俺は、ユキを完全バックアップすることを約束した。これで彼女も安心してくれるだろう。そう思っていたのだが……。

 ユキの表情は余計に曇ってしまった。もしかして、何かまずいことを言ってしまったのか。ただ考えても、今までにまずかったところというのはなかった気がするが……。


「……私が主役になっていいのかなって……」


 そう考えていると、ユキが自分の口から答えを言ってくれた。そしてその理由が意外なものだった。主役になっていいのかなとは?


「……私はあんまり目立たないし、キャプテンとしてもあんまり素質がない……。それなのに私が勝負を決めちゃっていいのかなぁって……」


「自信がないとかそういうのじゃなくて?」


「……うん。ただただ申し訳ないというか……」


 俺は彼女の表情を見て、それが本気であると確信した。だから――、


「フフフフフッ。アッハハハハ」


 本気で笑ったのだった。それを見てユキも驚いたのか、目を大きく見開いて、少し後ろにのけぞってしまうのだった。


「アハハハ。ごめん、ごめん」


 俺は笑いを堪えて彼女に謝った。彼女は怪訝に俺の顔を見ていたが、俺はそれに構わずに彼女の肩を叩いた。


「大丈夫だよ。誰もお前が打ったからって、場違いだなんて思わないって。この世界ではヒーローはどこからでも出てくるものなんだから。明日はお前がヒーローになっていてもおかしくはないよ。でもそれでいいじゃん。だってそうしたら、みんなから祝福されるんだぜ。俺なんか幸せだと感じちゃうけどな」


 俺は堂々と自分の考えを伝えた。俺と彼女の性格は大きく違うことはわかっていたが、それでも堂々と伝えられるだけの余裕があった。それだけ嬉しい出来事だと思っていたからだ。

 合コンでもそうなのだが、目立つ女子と目立たない女子がいたとすれば、やっぱり男は目立った女子の方が頭に残りやすいものだ。それがその男にとって好きなのか嫌いなのかは二の次として、インパクトを残せば今後の発展につながるかもしれない。そうした爪痕を残すことが、野球でも大事ということなのだ。

 ユキはそうした野心が少ないようには感じていた。だから努力している部分がクローズアップされず、バントばかりする消極的な姿勢ばかりが報道されてしまうのだ。すごい損をしていると言えるだろう。それをわかって欲しかったのだ。だから力強く言った。


「今日はヒーローになるつもりでやってみな。一度だまされたと思って」


「……ヒロインだけどね」


 そうユキに軽くつっこまれたが、


「わかった。そこまで言うのなら……、やってみる」


 そう言って快諾してくれるのだった。心を開き始めているのか、少しずつ俺の言葉にも耳を傾けてくれるようになったようだ。


 ユキが再び打席に入る。バットをしっかり握りながら、再び打席に入る。すると待っていた外国人選手が、こんなことを口にするのが聞こえてきた。


「シー、イズ、イージー」


 英語があまりわからない俺でも、はっきりと聞き取ることができた。イージーというのは日本語で簡単という意味。つまり彼女は簡単に倒せる相手と言ってるわけだ。これは許せない。いくらなんでもバカにし過ぎではないか。俺が同じことを言われたら、間違いなく発奮するだろう。

 しかしユキはあまりそうした感情を見せようとはしない。元々見せていないように見えているだけかもしれないのだが、それでもこれで黙ったままなのか!? 俺としては彼女に声をかけたくて仕方がなかった。

 ただこれは彼女の問題だ。これで彼女がどう思うか。彼女自身がどのようなアクションを起こすかが大事なのだ。俺は黙って見守っていた。

 ユキは何も言わずに打席に入る。その両手に握られたバットは、しっかり打席で天に向かって伸びていた。バントをする気配は、まったく感じられないように見える。

 そして外国人選手が球を投げた。彼女はバットを振る。しかしボールには当たらなかった。


「ドンマイ。ドンマイ。振り方は悪くないよ」


 俺は彼女を元気づける。彼女は振り向かないが、バントの気配はなく、バットをしっかりと立たせている。そのやる気は素晴らしかった。

 その後もユキは黙々とバットを振り続けた。俺と約束したようにバントを一切せずに、自分の持っているポテンシャルで、必死に振り続けた。たとえ当たらなくても、周りに茶化されても必死に――。

 すると徐々に効果が表れ出したのだ。最初は振り方も弱く、タイミングもまったく合っていなかったが、振り方がだんだん良くなっている感じがして、スイングが鋭くなってきた。球を打つことすらできないほどひどかったタイミングのズレも、少しずつ修正されていった結果、球がバットに当たるようになり、そこからやがて前に飛ばせるようにもなってきた。

 正直、俺は驚いた。それは彼女の対応力に対してだった。普通の野球選手であれば、全然打てない投手を打てるようになるには、少なくとも1年はかかると言われている。もちろん俺も、そんなすぐに打てるようになるはずがない。しかし彼女はしっかりと対応でき始めている。はっきり言えば、もう少しですごい当たりが打てそうだった。これが本気を出したユキ・ジークラーという選手の力なのか? それとも彼女が突然覚醒したのだろうか? そんなことを推測して間もなくのことだった。


「カキーン」


 力強い音が鳴り響いた。その瞬間に、俺はすぐにベンチの方に目をやる。すると外国人選手たちも一斉に同じ白球を、目で追っていたのだった。打席の方に目をやると、ユキが鋭い眼光で相手投手をにらみつけている。その投手は自分が打たれた打球を、呆然と見続けていた。そしてその投手と同様に、俺もまた呆然としていた。

 ユキが強烈な当たりをしたことは明らかだった。少しして俺は我に返る。


「いいぞ、ユキ。その調子でガンガン行け!!」


 俺は彼女に自信をつけさせるために、力を込めて応援する。正直俺は先ほどの強い打球を見ていなかったので、もう一度見てみたいと思っていた。しかしその願いもあっさり叶うことになる。


「カキーン」


 次の打球もユキはこのようにあっさりと打ち返すのだった。なんというか、コツでも掴んだのだろうか? でもこれほどの短時間では、普通に難しい気もするのだが……。

 その後も彼女は、何度も何度も強い当たりを打ち返すのだった。見た目は真っ白で貧弱そうに見えるのに、よくあれだけ打てるなと感心する。その中にはなんか不思議な力が出ているような気もしたが……、それは気のせいだろう。そんな状況だったから俺も大したアドバイスはせず、彼女の考えを尊重して自由に打たせることにした。こういう時にアドバイスは不要なのだ。それを裏付けるように、ユキは練習終了時間まで、何度も何度も強い打球を打ち続けて、辺りを騒然とさせるのだった。


「シー、イズ、クレイジーガール」


 練習がすべて終わって、最初に発した外国人選手たちの感想だ。ユキに対してあれだけずっと、イージー、イージーと言っていた選手たちが、今はクレイジーと言って恐れているのが、何とも妙な光景だった。確かに俺もクレイジーだとは感じたが、ここまでとは思わなかった。ユキはそう言われても、表情を変える様子は一切なかった。その表情からは、風格も漂っているように感じる。


「サンキューベリーマッチ」


 ユキはそう言ってスタジアムを後にした。その背中は少しだけ大きく見えた。俺も片言の英語で必死に挨拶をして、スタジアムを出た。そしてその後あることに気付くのだった。

 ――俺自身がすごい打者だと証明できなかったじゃないか……、と。


 その日の夜、俺とユキは足早にホテルに戻った。翌日には日本に帰国するので、その準備や片付けに備えるために早く寝ることにしたのだ。俺も相手の外国人選手たちの迫力や球の威力等に加えて、コミュニケーションがなかなか取れなかったこともあり、ものすごく疲れていた。


「さぁて、じゃあさっさと寝るかな」


 俺はそう言って、床に布団を敷いて眠ろうとした。すると、


「ねぇ……、体、壊しちゃうよ……。ちゃんとベッドで寝た方がいいよ」


 ユキからの気遣いだった。正直な話、とても嬉しかった。女の子に気遣われるのなんて、プロ入り以来なかったことなので、ありがたい話だった。が、普通に考えてそれはできない話だった。その理由はいたってシンプルで、ユキを床で寝かすことなんてできないからだった。

 いくらなんでもそのくらいのことはわかる。女子に地面で雑魚寝をさせて、男の俺が悠々とベッドで寝るなんて考えられない話だからね。というわけで、せっかくのお誘いですが、お断りさせていただきます。


「いや……。それはできないよ……。これだけ色々と用意をしてもらったのに……」


 いや……。こちらこそできないよ。第一、そんな男性いないだろうし。


「感謝してるからこそ、中島君にはゆっくりして欲しいのに……」


 感謝をしてくれるのは嬉しいけど、お言葉だけで十分です。


「どうしてそんなに嫌なの?」


 なんかこのやり取りにも疲れてきたな。そういえばさっきから彼女には、そんなことできないとしか伝えてなかったっけ? 仕方がないな。


「だって、床で寝かせるわけにはいかないじゃないか。女子にそんなことはさせられないよ」


「……えっ?」


 彼女がキョトンとした顔をする。何だよ。なにかおかしなことでもあったのか?


「何を言ってるの? 私は床でなんか絶対に寝ないよ……」


「……はい?」


 俺は状況が理解できない。俺をベッドで寝かせて、彼女は床で寝ない……とは?


「そんなの……、2人でベッドに入るに決まってるじゃん」


「……ああ、そうか。そうだよね。そうすればどっちもベッドで寝れるもんね」


 ……? ……! ……!!


「いや!!? ちょっと待って! えっ!? えっ!? こ、これから一緒のベッドで寝るわけ?」


「……そうだよ」


「ちょ、ちょっと待ってよ! そ、そんなことできるわけないじゃん!」


「……どうして?」


 おいおい。この子マジかよ。普通に考えて男女が2人きりでしかもホテルのベッドの中でなんて……、考えられないでしょ!

 でも……、だからと言ってゆっくり休ませてくれるんだったら、それはそれでありがたい。というか、たまにはベッドで休ませて欲しい……。俺、寮生活になってから、ベッドに入ったことなかったしね。

 俺たちの部屋にはベッドが1つしかないので、毎晩男子の俺は、必ず床で雑魚寝をしているのだ。それもそのはずで、そのベッドは最大で2人までしか入れないので、そこはドラフトの順位的にも、男女という立場的にも、女子2人が寝るのが当然の流れだ。前に男女が平等になったと書いたが、レディーファーストの精神は変わらないのである。それで俺がたまにベッドで寝られるとしたら、寮以外の場所で寝る時となる。例えば敵地での対戦の時は、当然寮まで帰れるはずがないので、チームが近くのホテルを取ってくれる。そのホテルの中が、条件を満たしていればベッドで寝られるのだが、その条件が結構厳しいのだ。そのホテルの中にベッドが2つあれば、ベッドで寝られる可能性が出てくるのだが、2つではユキと千尋で1つずつ使われる可能性があるので、難しくなる。よって3つ以上あるのが望ましいのだが、そんなホテルに出くわしたのは、2,3回しかないのだ。よって俺は入団してから今まで、ほとんど雑魚寝になっていたのだった。そのせいできっと、肩も腰も妙に痛い時があったんだろうな。

 でもさすがに男女2人きりというのはどうなんだろう? 関係性はもちろんチームメイトであり、それ以上でもそれ以下の関係でもない。それはそうなんだけど……。それが逆に変な目で見られないのかな……?


「……とにかく早く寝ないと、明日が大変だよ……」


 俺としては今の方が大変な事態な気がするんだけど……。というかこういう時に限ってせかさないで欲しいんですけど……。


「わ、わかったよ。じゃあ一緒に寝よう」


 俺は結局承諾するのだった。別に後悔はしていない。ただ喜ばしいこともない。とにかく淡々と寝るだけだ。


「それじゃあ、寝るぞ」


 俺はそう言って、さっさとベッドに入った。ユキには背を向けた状態である。すると俺のことなどまったくお構いなしに、ユキがベッドに入ってくるのがわかった。音もそうだが、少しだけ温かさも感じる。この生温かさは、正直に言えば心地良かった。これなら早く眠れそうだ。まぁユキはこの状況をよくわかってはいないようだけれど、彼女の性格的には特に話もしないだろうから、このまま眠りにも簡単につけるだろう。とりあえずこれで……、


「……ねぇ、中島君?」


 ……あれ? 今、何か聞こえたような……。


「……ねぇ、中島君ってば」


「は、はい!?」


 俺は思わぬ状況に、信じられないくらいの裏声になってしまった。おいおい。まさかこのタイミングで話かけてくるのかよ。


「中島君はさぁ、どこでそのパワーを身につけたの?」


 野球の話だったので少しホッとする俺。もし違う話だったら……、おっと、これ以上はいけない。


「うん? まぁ練習を続けていたら、身についたって感じかな。やっぱりホームランをたくさん打つ選手って憧れるしね」


「……ということは、やっぱりたくさん練習したの?」


「まぁ、そうだろうね。ホームランってパワーだけで打てるもんじゃないし。そこには技術が必要になるからね」


 俺の感想としては、ここまで深い話をしたことがないので、そういうことを真剣に聞きに来ることは想像していなかった。ただやる気があるのは、とてもありがたいことだった。


「それがすごいよ……。私にはそんなこと真似できない。今日だって外国人選手たちに向かって行ってた。そういう強い気持ちを持っているのは、すごく羨ましいよ」


 ここまで褒められるのも久しぶりなので、少し嬉しくなる。そしてそれを隠すために、より布団に潜り込む俺だった。


「でもジークラーさんだって、すごい対応力だったじゃんか。あれだけ打てるようになったら、バントなんていらないよ」


 俺もユキに負けじと、彼女をベタ褒めする。するとユキは少し間をおいて、しゃべり始めた。


「……あんなに球を飛ばすと、楽しいんだね」


 俺は彼女の言葉に少し驚いたが、すぐに言葉を続けた。


「そうだよ。それが楽しいから野球をやってるのさ。バッターだったら、ヒットを打ったり、ホームランを打ったりするのが醍醐味なわけだから、それを楽しまなきゃ。バントとかももちろん大事だけど、それにこだわってばかりじゃ楽しくないよ」


 俺は声を弾ませて、彼女に楽しさを教えようとした。


「……中島君。声が大きいよ……」


 ……失礼しました。


「でも……、それはそうかも。私、野球を楽しくやったことなかったかも」


「えっ? そうなの?」


「うん……。やっぱり野球って大変なスポーツだし……」


 正直楽しくない中で、よくプロになれたなと思う。それはそれで才能なのかもしれない。


「でも今日はいっぱい打てて楽しかっただろ」


「……うん」


「これからはこういう風に楽しめ。野球以外のこともそうだけど、何事も楽しくやらないと意味がないぞ。悔しさとかも大事だけど、楽しんでやれれば、長い間活躍できると思うしさ。俺もジークラーさんには、長く活躍してもらいたいしね」


 俺は当たり前のことを言ったつもりだった。ユキとはこれからも長い付き合いになるだろうからね。もちろん、チームメイトとして。


「ねぇねぇ、中島君。もしかして……、私のこと、好きなの?」


 俺は一瞬固まった。そして理解して……、


「はっ!? はい!?」


 そんなわけないだろ!! ってかどうしてそうなる!!?


「ち、違いますよ! チームメイトとしてだよ。それ以上でもそれ以下でもない!」


 俺は強い口調で否定した。その時は必死だったのだ。


「も、もう寝るぞ! 明日は早く帰国しないといけないだろうしね。じゃ、お休み」


 俺はそう言って無理やり会話を切った。とにかく早く切りたかったのだ。ただその後しばらくして、俺は彼女に申し訳ないと思い始めた。せっかく会話をしてくれたのに、こちらから切るのは失礼だと思ったからだ。俺は少々嫌だったが、体をユキの方に向けてみた。するとユキは仰向けになっていて、すでに眠りについていた。やっぱり疲れていたのだろうか? そう思いながらユキを見ていると、俺も眠くなってきた。

 ということで……、お休みなさい。


 翌朝になった。少し疲れているのか、眠気も残っていたが、朝食をさっさと済ませて荷物をまとめ、ホテルを出て飛行機に乗り込んだ。もちろん行きの時と同じで、席は相席。乗った飛行機の種類もおそらく同じだったと思う。ただ雰囲気だけは大きく異なっていた。


「ジークラーさん。奥に座りなよ」


「うん。ありがとう」


「眠たくなったら、後ろの人にシートを倒していいか聞くから、遠慮はしなくていいからね」


「いいよ。そのくらい私が自分で言うから」


「わかった」


 という感じで会話がある段階でだいぶ違った。俺自身も昨日の疲労の影響で体は重かったが、心の方はだいぶゆとりを持てていた。まぁ少しだけ恥ずかしい気持ちもあったのだけれど。

 飛行機の中では、チームの状況について意見を述べ合った。


「ジークラーさんは正直、今のチームについてどう思ってるの?」


「うーん……、やっぱりまとまりがないかなって思う」


「まとまりか……。確かにみんな優勝と言ってるのは口だけで、向かう方向は違う気はするね」


「うん……。本当は私がそれをまとめないといけないんだけどね……」


「いや。1人で責任を抱え込むのはやめた方がいいよ。俺だってプロ入り当初は、まともに練習をしなかったけど、それはキャプテンであるあなたのせいじゃないからね。俺がプロのとしての自覚が足りなかったからで……、本当にごめんよ」


「……でもその後練習にはよく来てくれたじゃない。それだけでも私は嬉しかったよ」


「そうは言っても、最初からやってたあなたや千尋と比べればまだまだだよ」


「うーん……。私も千尋ちゃんに言われるまでは、よくわからなかったけどな……」


 えっ!? そうだったの!? 俺はそんな感じの表情を見せた。

 こんな感じで会話はそれなりに盛り上がってもいた。行きの時にはまったく話せなかったユキが、ここまで話せていることには冷静に驚く。普段から黙りこくっていたけれど、やっぱり秘めている想いというのは、ちゃんとあったのだと感じた。

 それから話はユキ自身のことに自然と変わっていった。俺が自然の流れを利用して、変えたのだけどね。


「ねぇ。ジークラーさんはどうして野球をやろうと思ったの?」


「千尋ちゃんに誘われて、だよ。それまでは特に何かやりたいこともなかったしね」


「へぇー。それでここまで才能があるんだね。羨ましいなぁ」


「そんなことないよ。千尋ちゃんもそうだけど女子だからという理由で、結構下に見られてたからね。だからすごく落ち込んでたんだけど……。千尋ちゃんが『絶対にプロになろう! そして見返してやろう!』って言ってくれたから、頑張れたんだと思うよ」


「へぇー……。そりゃすごいね……」


 ある意味俺には経験のない話だった。しかもそれを真剣な眼差しで語っている姿には、本当に驚かされる。ユキは相当悔しい思いをしていたのだろう。そしてその悔しい思いが、結果として表れるのがプロの世界でもある。今年の成績は彼女にとって不本意だったかもしれないが、もしかすると来年は大化けするかもしれない。俺はそう感じていたのだった。


「でも……、中島君ってすごいよね」


 突然ユキがこんなことを言い始めた。


「な、何が?」


「普通、男子なら私たちじゃなくて別の男子たちと絡みたいはずなのに、私たちに構ってくれるから、少し不思議に感じてたんだよね」


「いや……。それは……」


 ……言えない。千尋にパシられてるからだよなんて、悔しくて言えない。


「やっぱり2人のことが少し心配なんだよ。ほら、ジークラーさんも入院してたし、千尋もその事をすごく心配していて、調子を落としていたからさ。それでほっとけなかったわけ」


「ふーん……。そうなんだ……」


 ここから5秒ほどの沈黙の後、ユキが話し始める。


「ねぇ……。やっぱり千尋ちゃんは心配してた?」


 そういえば千尋のことを話してなかったなと振り返る俺。


「やっぱり心配はしていたよ。でもちゃんと帰って来たわけだから、もうそんなに心配はしてないでしょ」


「でも……。」


 ここから5秒ほどの沈黙の後、ユキが話し始める。


「でも、やっぱり迷惑をかけちゃったなって……。もっと私が自分のことを心配していたら……」


 この言葉を聞いて、俺が本気のアドバイスをする。


「ジークラーさんはチームのことを思ってくれてることは、とてもすごいと思うよ。そういうところはキャプテンらしいし、俺もキャプテンで良かったと思ってる。でもやっぱり自分をもっと大事にして欲しいんだよね」


「……」


「だってみんな心配するわけだからさ。俺だって練習中に倒れていた時とか、入院中の病室での様子を見たときには、かなり心配したんだからね。やっぱり活躍云々言っても、まずは健康を重視して欲しいわけ」


「……」


「だからもし、辛いことがあったり悩んでることがあったら、是非とも俺に相談してよ。俺もジークラーさんの力になりたいからさ」


 自然と出た。これが俺の純粋な思いだった。なんというか、やっと言えた気がした。


「……うん。ありがとう」


 そしてユキからはこんな返事が返ってくるのだった。当然嬉しい限りで、その言葉を噛みしめた。


「中島君は優しいね……。男子にもこういう人はいるんだね」


 後半の言葉には引っかかるが、嬉しい限りだった。


「もしかして……、やっぱり私のことが好き、なの?」


 俺は思わずひっくり返りそうになる。だから、昨日の夜の時もそうだったが、どうしてそうなる!?


「ベ、別に。そんなことはないし」


「ふーん」


 ほら、見てみろよ。俺が変に意識をするようになっちまったじゃねーか! 勘弁してくれよ、まったく……。


「ところでジークラーさんは、小学生の時は何をしていたの?」


 俺は恥ずかしい気持ちを紛らわすためか、気がついたらこんな質問をしていたのだった。もちろんそれ以上の気持ちはなかった。しかしその質問の瞬間、ユキの表情が変わった。


「う……」


 その一言だけで、それ以上は何も話さなかった。そして少々震えもし出した。もしかして、相当辛い過去でもあったのだろうか?


「ご、ごめんごめん。嫌だったら話さなくて良いよ」


 俺は必死で謝った。すると少し落ち着いたのか、震えは止まって、


「うん……。ありがと」


 そう俺に言うのだった。

 そうこうしているうちに、飛行機は日本へと到着した。感想としては、ひとまず良かったという一言に尽きる。ユキもだいぶ自信をつけてくれたみたいだったからね。これで野球に対する姿勢も変わっていくだろう。


 ただどうしても引っかかる部分は、いくつかあった。

 どうして優しい言葉をかけた時に、男にもこういう人はいるんだねと言ったのか?

 どうして俺のことを好きというのか?

 どうして小学生の頃の話をしたときに、震え出したのか?

 まだまだ謎が残っているのは確かだった。しかしとにかく、とにかく今は良かったと安堵する思いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ