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第3章:すべての原因と理由

 入寮してから数日が過ぎた。今日からプロ野球はキャンプインを迎える。

 俺はその日まで数日ではあるが、あの2人の少女に振り回されていた。

すごく居心地も悪かった。やっぱりこういうことは望んではいなかったんだなぁと、しみじみ思う。

 しかしこのキャンプによって、ひとまず苦しい寮生活からは一時的に抜け出せる。それだけでも俺としては嬉しい話ではある。

 そして何より気になっていたのが……、あの2人の身体能力である。

 俺より上位で指名されたのだから、相当すごい力を持っているということが言えるのだろう。果たして本当に俺より上なのかどうか、じっくりと見ることにしよう。


 キャンプ地は東京から多く離れた沖縄であった。それなりに移動時間が長いため、飛行機の中に長時間いるのは少々辛かった。しかも寮の班ごとに座ることになっていたので、俺はユキと千尋と座ることになってしまったのだった。

 正直まだこの二人とは良好な関係を築いているわけではない。居心地が悪いのも当然だ。

俺は見事に一言も言葉を交わさなかった。同様に2人も言葉を交わそうとはしない。たまに千尋がユキに、天気のことや今日の状態のことを聞いていたのは聞こえたが、それもユキが返事をしないので、千尋が独り言をつぶやいているように映った。

 ただ言葉を返すと怒られる可能性があるので、何も言わなかった。だって、千尋がものすごい形相になって怒るからね。

 千尋はあの後もユキのことを話そうとすると、過剰なほどに怒るのだ。確かに彼女の表情を見ていると、何も話したくないようには見えるのだが、彼女自身がそういうことを直接言っているわけではないので、本当に話したくないのかどうかはわからない。それならひょっとしたら何か話すかもしれないと思って、こちらだって声をかけたくはなるものだ。

 別に俺がユキに対して何か特別な感情を持っているわけではない。でも一言も声を発していないやつの声はやっぱり聞いてみたくはなる。要は興味本位で、という意味だ。

 ただこの日ももちろん、ユキは一言も声を発することはないまま、キャンプ地のスタジアムについた。まぁこれからクビにさえならなければ、20年くらいは一緒にいることになることを考えれば、そのうち聞く機会というのは出てくるのだろう。だったらそれまで待つしかないか……。俺はそう考えることにした。

 しかし彼女の声を聞く機会というのは、意外にも早くやってくるのだった。


 飛行機が空港に到着した。2月とはいえ、やっぱりここは沖縄だと感じた。温暖な気候のおかげで、暖かく感じる。というよりも、少々暑いくらいだ。

 前に高校の修学旅行で来たときは8月だったので、とんでもなく暑苦しかったが、この時期であれば本当にありがたかった。最近は冷えていたせいで、バットを振っても手がかじかんでうまく振ることが出来なかったからね。ついでに手の平にマメが出来る可能性もあったから、この環境で練習できるのはやっぱりありがたい話だった。ついでに修学旅行の際に行ったお店にも後で寄ってみようと思った。ソーキそば、シークワーサー、タコライスにサーターアンダギー。色々と美味しい沖縄料理も堪能したいからね。

 沖縄についた俺たちは、さっそくチームメイトが泊るホテルに案内された。当たり前だが、選手寮と比べれば圧倒的に広い部屋だ。リビングは寮の2倍以上の広さがあり、大きな窓の向こうには、広い天色の海が広がっていた。空の色も天色だったため、水平線がわからなかったが、それもまた沖縄の良さなのだろう。キッチンも風呂もトイレもベッドも、すべてが広い。キャンプの期間は1カ月程度であるが、それだけでもこの空間にいられるのはありがたい話だった。そうあの2人がいなければ……。


「ほら。早く行くわよ。監督やみんなを待たせてどうするのよ!」


 ゆっくり堪能する間もなく、俺は千尋に注意された。そりゃあさ、確かに監督には荷物を置いたらすぐにバスに戻るように言われたけどさ、少しくらい堪能したっていいじゃないかよ……。


「ほら。文句を言わずにさっさとやる」


「えっ……。俺、何にも言ってないんすけど」


「なんか言いたそうだったから言ってやったのよ! とにかく口じゃなくて、手を動かす!」


 ……もはや超能力者かよ。

 とにかく逆らうと色々とうるさいので、荷物をさっさとまとめてバスに戻った。ちなみに寮と同じ班で生活をするので、ホテルでもあの2人と一緒なのです。トホホ……。


 そんなこんなで再びバスに乗り、しばらくして俺たちが練習するスタジアムに到着した。やはり沖縄ではそこまで公式戦が行われないこともあって、外野の天然芝がしっかりと整備されており、とても動きやすかった。

 正直新規参入球団なので、そこまで考えているのか不安になったが、こういうところがしっかりしていることには感心する。これなら俺の力を見せることも簡単に出来そうだ。

 さっそく俺たちはユニフォーム姿に着替えて、練習場に集合した。ちなみに俺は半袖短パンの服装で、千尋は黄色い半袖のシャツに白地に黒い水玉模様のミニスカートを着用していた。何が言いたいかというと、みんな夏の服装をしていたということだ。

 ところがユキだけは服装が違った。この温かい気候にもかかわらず、1人だけ長袖のやや厚めのシャツを着て、下はベージュ色のチノパンを履いていたのだ。

 まるで冬に着るような服装だとは思わないだろうか。そして女性らしい服装というよりも、男性のような服装だとも思わないだろうか。正直肌を露出したくない女性というのは、今までに何人か見たことはある。ただここまで見せたがらない人は初めて見た。あそこまで見せたくないということは……、女としてではなくて、男として見られたいのだろうか? 確かに女性として見られると、野球選手としては舐められる可能性もあるからな。そこら辺は女性選手ならではの悩みなのかもしれない。

 試合や練習で着るユニフォームの生地は、汗を素早く吸収して拡散させることが出来るようになっていた。そのためとても動きやすい。ライン等は刺繍されておらず、中央には黒い文字で「FRONTIERS」と刺繍されてあった。はっきり言えば、ものすごくシンプルなデザインだった。――チームの非常識な方針とはまったく違って見える。

 ちなみに背番号は入団前に発表されており、俺には5番が与えられた。入寮時に「3」の悪夢と言っていたので、これと関係のない数字だったのはホッとする。ちなみにユキには1番。千尋には4番が与えられた。

 そんなことはさておき、俺たち選手一同はグラウンドの中央に集合した。中央には中田監督の他、何人かの中高年のおじさんたちが、ユニフォーム姿で立っていた。おそらく俺たちを指導するコーチ陣や、体のケアをしてくれるトレーナーの人たちと思われる。

 その人たちの元へと全員が集合すると、さっそく監督が挨拶をする。


「おはようございます」


 選手が各々に朝の挨拶をする。当然俺も、だ。監督が続ける。


「えー、今日からここ沖縄で、我々調布フロンティアズは、シーズンインに向けての春季キャンプを行う。皆、新人なので不慣れなことが多いかもしれないが、頑張ってついてくるように。最後までついてくれば、開幕1軍は大きく近付くだろうから、気を引き締めて練習せよ」


 選手各々が返事をする。当然俺も、だ。

 すると監督が唐突にこう言い出した。


「それじゃあここで気合を入れるために、キャプテンのユキ・ジークラー選手に挨拶をしてもらおうではないか」


 突然過ぎて俺は驚いた。が、もっと驚いているのはユキの方だった。その表情からはそんなこと聞いてないですよとでも言いたそうだった。その証拠に眼鏡の奥の細い目が、わずかに大きくなったのだった。


「ちょ、ちょっと。監督。いくらなんでもそれは……」


 千尋が慌てて監督に提案しようとするが、相手が相手なので小声になってしまっていた。そのせいで監督には聞こえていないようだった。結局ユキが挨拶をすることになった。

 俺としては気になっていた彼女の肉声を聞くことが出来るので、ちょっとした期待感があった。果たして何と挨拶をするのか? そしてどんな声をしているのか?


「それじゃあジークラー。ここに来てこのマイクを使って挨拶をしてくれ」


 監督の指示を受けて、ユキは中央に歩いて行く。少し緊張しているのか、どこか歩き方がぎこちない。それを見て一部の選手はクスクスと笑っている。その間千尋は、少しだけそいつらを睨みつけているようにも見えた。

 もちろん俺は表情を変えなかったが、やっぱりこの見た目では1位指名された選手には到底見えない。疑いの目が向けられてしまうのは、残念ながら当然と言わざるを得ない。そして小さな右手で、マイクスタンドを大きく下げてマイクを合わせた。いよいよ彼女の声を聞くことが出来る。


「…………………………」


 うん? これはしゃべっているのか? 俺は彼女をよく見て観察してみる。口は動いている。大きくはないが確実に動いてはいる。ということは少なくとも何かをしゃべっている。それはつまり……。

 俺は驚いた。これだけ声を出しているのに聞こえないなんて……。声帯を壊しているのかと疑ったほどだ。


「ちょ、ちょっと、ジークラー。申し訳ないんだが、聞こえないからもう1度挨拶をしてくれないか? 先ほどよりも少しボリュームを上げてくれ」


 監督からの指示を受けて、再び彼女が最初から挨拶し始める。


「……皆さま、お、おはようございます。私は調布フロンティアズのキャプテンとなりました、ユキ・ジークラーと申します。これからこのチームはゆうしょ………………」


 もう聞こえなくなってしまった。最初はギリギリ聞こえたが、少し強めの風が吹くと、見事にかき消されてしまうほどだ。蚊の鳴くような声とはこのことを言うのだろう。そんな声なので、声の高さまでは分からない。


「す、すみません、監督。本日ユキちゃんは調子が悪いみたいなので、これ以上はやめてあげてください。代わりに私が挨拶をしますよ」


 結局千尋のこの発言により、挨拶は千尋が代役で行った。それにしてもなぜあんな彼女をキャプテンにしたのだろうかと、俺は余計に疑問に思った。何はともあれ、考えても仕方がないので、切り替えて練習することにしよう。


 野球では基本的に1軍と2軍が存在し、1軍には登録人数として出場可能の25人と、出場は出来ないが予備としてオフという形で登録出来る3人の、合わせて28人までしか登録できない規定になっている。よってそれ以外の40人以上は、2軍へと落とされてしまうのだ。

 当然能力の高い選手ほど1軍に残りやすいが、将来性のある選手や、キャンプやその後に行われるオープン戦で結果を残した選手は、期待を込めて登録されることも多い。

 つまり3位指名の俺でも決して油断することは出来ないわけだ。もちろん1位指名のユキについても、2位指名の千尋についても、だ。

 ただ基本的に上位指名であるならば、期待されているのは確かだった。適当すぎる練習をするのは問題だろうが、ある程度しっかりやっていれば、まず2軍に落ちる可能性はないだろう。後はケガとかにも気をつけるようにすれば、まず問題ない。

 そんなことよりも俺はユキと千尋の身体能力が見れることが楽しみだった。これで彼女たちが、本当に1位と2位にふさわしい2人なのかどうかが明らかになる――。もしこれで大した選手でないことがわかったら、俺が1番だと自負できる。そんなことを考えながら、俺はみんなと一緒に練習を開始するのだった。


 チームメイト全員でランニングをして、その後キャッチボールをして体を温めた後、まずはベースランニングの時間がやってきた。ベースランニングは野球で使われるベースと呼ばれるものを駆け抜けて、一塁、二塁、三塁、そしてホームベースを順番に踏んでいき、そのタイムを競うものだ。まずはこれで彼女たちの走塁能力を見ることができる。

 何人かの選手が終わった後、まずは俺の出番がやってきた。基本的にベースランニングにおいて、プロ野球選手の平均は16秒ほどで、早い人は14秒台後半で走ることが出来る。これが1つの基準となるのだ。ちなみに俺の前の選手たちは、数人が15秒程度で走る選手もいたが、ほとんどが16秒をオーバーするタイムばかりだった。

 ルーキーとはいえ、仮にもお前らはプロ野球選手なんだから、もう少し鍛えろよとはどうしても思ってしまう状況だった。それとも同じように16秒後半だったが、打撃が相当すごい増田のように、別の特徴があるならば話は変わって来るのだが……、そんなにすごい選手ばかりには見えない。まぁそもそもそんなにすごい選手であるならば、俺よりも上の順位で指名されると思うしな。

 そんなことを思っていると、いよいよ俺の出番がやってきた。走塁技術についてはそこまで自信があるわけではない天才の俺だが、全体的に見れば平均以上のものを持っているという自覚はあった。ひとまずはこれで肩慣らしならぬ、足慣らしくらいは出来るだろう。


「それじゃあ中島、行くぞ!」


「はい!!」


 俺は元気に返事をすると、監督が笛を鳴らす。俺はまずは全力で一塁ベースへと駆けていく。ベースランニングというのは、ただ全力で走ればいいというわけではないのを俺は知っている。一塁ベースを蹴って二塁ベースに向かう時に、体を90度左にターンさせないといけない。その時に全力で行ってしまうと、うまくターンが出来ないので、少し速度を落とさないといけないのだ。

 この辺のことを知っていたり、実践できないとなかなかプロで活躍をするのは難しいのだ。もちろん俺はそういうのも知っているし、実践もできる。一塁につく2歩前に速度をやや弱めて、体の重心を左に傾けて、しっかりとベースを踏みながら回る。これを計3回繰り返して、最後は力強くゴールであるホームベースを踏んだ。

 成功したと思う。気になるタイムは……。


「中島。お前は14秒97だ」


 ま、こんなもんだな。一応走塁も人並み以上の物は持っている。それをしっかり証明できただけで、俺としては満足だった。


「これが俺の実力だ。さぁ、君らはどれくらいで走れるんだ?」


 俺はそう心の中でつぶやいた。もちろん君らというのは、ユキと千尋のことだ。1位と2位の実力、しっかりと見ておこうではないか。

 まずは千尋がホームベースに立った。中田監督が笛を吹き、彼女が走り出す。

 ――速い。スタートダッシュ、1歩の歩幅の大きさ、トップスピードに到達するまでの時間の早さ、加速力、ベースを回る時のターンのうまさ、そして最後まで走りきる持久力、そのどれをとっても無駄がない。


「なんだ、こいつ……」


 俺は思わずつぶやく。少なくとも女子だからとバカにするのは、この時点でやめようと思った。

 タイムは、14秒20。俺も含めて、周囲からはどよめきが起こった。正直、陸上短距離選手かと思った。これなら俺より上位で指名されても、確かに不思議ではない。その後の涼しい表情もまた、トッププレイヤーの証にも見えた。

 こうなると次のユキがどれほどなのかが気になってくる。見た目は運動をまったくしていないように見えるが、果たして――。


「よーい……、ピッ」


 ユキがスタートした。

 ――速い。間違いなく千尋より速い。スタートダッシュ、1歩の歩幅の大きさ――、先ほどの千尋よりもすべてが上だった。

 注目のタイムは……、13秒96。先ほどの千尋よりもさらに大きなどよめきが起こる。そんなどよめきには気にも止めず、ユキも千尋と同様に涼しい表情で帰ってきた。


「13秒台だなんて……、むしろ野球選手をどうして目指したの!?」


 誰だがわからないが、彼女を見て言ったやつがいた。確かに、これだけ速いならグラウンドよりも、陸上のトラックを走った方が似合う気がする。そしてこれだけを見れば、1位と2位にふさわしいとは言える。だがまだ走塁のみだ。他にも判断基準はたくさんある。他のも見なければ分からない。次は守備を見てみよう。


 守備の練習と言えば、当然ノックだ。ノックはノッカーと呼ばれる人物が、ボールをトスしてそれを自ら打ち、受け手がその打球を処理する練習である。この状況でのノッカーは監督であり、俺たち選手が処理係である。俺たちはグローブと呼ばれるボールをキャッチするための道具を、投げる手と反対の手につけて処理をするのだ。

 俺のような外野手の場合は、広い守備範囲が要求されるため、監督は前後左右に振ってくることが多い。俺も相当な覚悟で監督からの指示を待っていた。


「よーし。中島、行くぞーー!」


 監督の大きな声が遠くから聞こえてきた。


「はい! お願いします!」


 俺も負けない声で返事をした。監督がボールを打つ。打球は高々と天高く上がる。いわゆるフライだった。俺は少しだけ前進をして難なくキャッチし、ホームの監督の元へと球を返す。距離は100m程度あったが、一応肩には自信があったので、見事にノーバウンドで返した。


「ナイスだ! 良い動き出しだったぞ!」


 監督に褒められた。嬉しいが、俺としては当然のプレーだった。高校時代は強打強肩で有名だったので、肩の強さには自信がある。これくらいはできて当然だった。それよりもあの2人の少女の実力がどうなのかを見たい。果たして守備面はどうなのか?

 千尋の出番がやってきた。俺がしていたグローブよりも少し小さい。もちろんそれは打球の処理に影響するが、それ以上に自分に合うか合わないかもあるので、あまり問題はない。


「よーし! 松井、行くぞーー!」


「はーーい!!」


 千尋の女子とは思えないような、大きな声が飛ぶ。すると監督は俺たちが集まっている真ん中であるセンターよりも右側の、ライト方向に打球を飛ばした。はっきり言って少し酷な打球だ。俺でもあれは追いつけるか分からない。

 しかし彼女は走塁練習の時にも見せた快足を飛ばして、一気に打球との距離を詰めると、芝に落ちる前に見事にキャッチして見せた。さらに態勢はやや崩れていたものの、見事にホームに向かって強烈な球を返した。ツーバウンドほどしたが、体が自然体の状況でなければ、返すのも難しいほどだ。


「さすがだ! もっとしっかりとその技術を磨いてくれ!」


 監督からもより熱のこもった言葉が飛んでくる。やっぱり千尋はすごいと感じた。

 そんなことを思っていると次はユキの番だ。


「よーし! ジーク、行くぞーー!」


 監督からの声が飛ぶと、彼女は返事をせずにグローブをはめた左手を天高く上げた。ま、彼女は声を出さないので、それは想像通りだったけど。

 すると監督は、先ほどの千尋と同じような打球を飛ばした。やっぱり何度見ても、俺は追いつける気がしない……。

 しかし彼女もまた、千尋同様に普通の選手と違うのだった。しかも彼女は千尋よりも早く追いついたため、投げる前の態勢も完璧だった。そのおかげで素晴らしい返球をして、またも周囲を驚かせた。


「素晴らしい! やっぱり1位にふさわしいな。ジークは」


 ちなみに監督はジークラーと呼ぶのは面倒なようで、ジークと短縮して呼ぶようにしたらしい。俺は今のところジークラーと呼んでいるが、できれば早くユキと呼んであげたいとも思った。それくらいはしてあげないと、女子はかわいそうだろうからね。

 何はともあれ、その後ノックは1時間ほど続いたが、ユキと千尋は周りとの違いを見せつけ続けるのだった。俺ももう疑うのはやめることにした。

 彼女たちは、間違いなく天才である。


 その後少々の休憩を取って午後2時ごろ。いよいよ俺の見せ場がやってきた。打撃練習の時間だ。

 打撃練習はフリーバッティングが行われる。これは打撃投手と呼ばれる練習用の投手が投げる球を、自由に打つ練習である。これである程度の打撃センスが分かる。

 俺の前にいろんな選手が打撃を行ったが、やっぱり俺を上回りそうな選手は、見た感じでは増田1人くらいしかいない。俺にとっては非常に都合の良い状況だ。さっそく超天才高校生と呼ばれた力を存分に見せてやる!

 俺の出番になった。打撃投手に挨拶をして、俺は左の打席に入った。いよいよスタートだ。

 当然のように投手は最初、真ん中に投げる。俺はそれを最も力が加えられる、フルスイングで打ち返す。打球はあっという間に場外へと消えた。100m程度のスタジアムではあるが、場外まで飛ばして見せた。文句なしのホームランだ。

 もちろんこの1球のみなわけはなく、何球も様々なコースに投げられるのだが、甘い球はすべてホームランにして見せた。50球ほど投げたボールを、30球ほどホームランにしただろうか。いずれにしてもアピールとしては完璧に等しかった。


「さすがだ、中島」


 監督が褒め言葉をかけてくれた。


「ハハッ。当然ですよ」


 俺は少々かっこつけて言ってみる。やっぱりこれぐらい出来ないと、天才の名が廃れるという話だ。さて……、この天才打者の後に控える2人の少女は、どのような打撃を見せるのか。


 ネクストバッターは千尋だ。さすがに女子で、遠くまで飛ばす能力はないだろう。注目の1球目。彼女は俺と同じ左打席で打ち返す。打球は低いライナー性の強い打球だった。風を切り裂くように飛んで行った打球は、超えればホームランとなるフェンスの手前まで飛んで行った。

 さすがに女子ということもあって、ホームランを飛ばすほどのパワーはない。しかしそれだけが野球ではない。ヒットを打って次につなぐということもとても重要なのだ。

 そういったことで考えると、俺は彼女の打撃に衝撃を受けた。彼女が打ったような打球のことを、野球用語では「ラインドライブ」と呼ぶのだが、この打球を打つにはそれなりの技術を必要とする。

 この打球は球に強い回転をかけることで、風の影響をまったく受けることなく球を遠くに飛ばすことが出来るのだが、これは手首の返しをしっかり行うなど、相当な技術が必要なのだ。俺のようにただパワーだけがある打者では、このような打球は打てない。これもまた千尋の天性なのだろう。いずれにしても、またも彼女のポテンシャルをまざまざと見せつけられた。

 その後も50球程度を打ち返し、ほとんどがラインドライブ性の打球だった。


「OK。いいぞ、千尋」


 監督からの指示で一礼をして千尋は打席を離れた。彼女は1番打者を打つことが決まっているのだが、これだけヒット性の打球を飛ばすことが出来れば、はっきり言って十分だ。

 野球は点取りゲームなので、7点取られても8点取れば勝つことは出来る。ホームランを打てばそれだけで1点取ることが出来るが、ヒットを打ってランナーと呼ばれる走者を1塁や2塁などの塁上に置いた状態でホームランを打てば、その走者分の点が入る。例えば千尋とユキが塁上にいて、俺がホームランを打てば、塁上に2人プラス打った俺を加えて、3点が入るのだ。そういった意味でも、ヒットというのは重要なのである。

 そしてそのヒットを打てる選手は基本的に1番を打つ。それは最初に塁に出ることで、大量点に結びつけるためだ。そうした意味では千尋を1番に置くのは、理にかなっている。正直これなら3番の俺は、打つことでチームに貢献しやすくもなる。そりゃあ点を取る過程を作った選手よりも、点を取ってくれた選手の方がヒーローになれるもんね。俺としては少々ありがたい話だなと感じた。


 と、そんなことを考えていると、いよいよ最後の打者、ユキの出番がやってきた。ドラフト1位指名の彼女は、ここまで走塁でも守備でも千尋を上回るパフォーマンスを見せてきた。期待は当然膨らんでいく。ここまで来ると、今まで見たことがないような打球を飛ばすのではないだろうかとも思ってしまう。果たして……。

 投手が投げる。俺にも投げたような、真ん中への甘い球だ。ユキがタイミングよくバットを振る。そのバットに球が当たる。


「カン」

 乾いた音がして打球を見てみる。……正直遠くまで見ても、打球が見えない。まさか想像を絶するほどの打球を飛ばしたのか!? 俺はそう思って、打ったユキの方を見てみる。

 ……あれ?

 俺は彼女の表情やグラウンドを何度も見る。ついでに目を何度もこすって、さらに何度も瞬きをして、もう一度見てみる。……どうやら見間違いではないようだ。

 ユキの打った打球は、打ったユキ本人の目の届く範囲に転がっていたのだ。つまりまったく飛ばしていないということになる。

 いやいやちょっと待て。だとすれば、逆に驚く話だ。ドラフト1位指名の打者が、素人並みの打球を打つというのは、逆に難しい。もしかしたら、それはそれで才能と言えるのかも知れなかった。走塁と守備だけで勝負する選手というのも、確かに存在する。そこを極めるためにプロ野球選手になる人もいるし、本当にそれだけで貢献して生きていく選手もいる。だとすれば相当な覚悟を彼女は持っている。相当すごいことなのだ。

 ――という冗談は、もうこの辺にしておこう。

 普通に考えてあり得ない話だ。1位指名。その時点で打撃・走塁・守備がすべて揃っていなければいけないのはほぼ間違いない。特に打撃は野球で最も重要な、得点を取るという部分においては絶対になくてはならないものだ。たとえ守備と走塁がそこまででなかったとしても、打撃のみでスタメンを取れている選手もいるのだ。

 そう考えると彼女の打撃力の無さは衝撃的なものだった。打っても打っても打球は上がらず、強い当たりも打てない。決して難しい球はないはずなのに、力のないゴロばかりが転がっていく。これではドラフト1位指名というのを疑わざるを得ない。

 こんな打球ばかりだったものだから、周囲からクスクスという笑い声や、心ない陰口が聞こえてきた。俺は同じ班なので空気を読んで何も言わなかったが、そいつらと同じ気持ちにはなっていた。こいつが俺よりも上だったと思うと……、やっぱり納得がいかない。


「よ……、よし。ユキ、もう下がっていいぞ」


 監督の言い方も今までと比べて明らかにぎこちない言い方に変わっていた。何というかちゃんとしたスカウティングをしたうえで、獲得を決めたのだろうか? 俺としては怒りというよりも単純な疑問の方が強かった。

 ひとまずこんな感じで初日の練習は終了した。印象としては打撃でインパクトを残したので、自分としてはそれなりに満足出来ていた。それに1位指名のユキがあれだけ非力であるなら、余計に俺としては都合がいい。打撃力のある選手は俺くらいしかいなさそうなので、必ず用途があると思ったのだ。

 それでも監督は、あくまで1軍争いやスタメン争いは横一線だということを強調していた。まぁ気の緩みを誘わないという意味で言うのであれば、妥当な判断なのかもしれない。でも周りのメンツと比べても、俺はやはり特別な存在だ。少なくとも千尋のことは少々マークする必要はありそうだが、ユキに関しては明らかに俺の方が力がある。それに守備力についても決してレベルが低いわけではないため、それなりに鍛えていけば、まずまず守ることは出来るだろう。

 俺も自分のことを天才と思っているが、ユキも天才型のような気がした。だとすると打撃で努力をしなければ、彼女はレギュラーの座を失う可能性さえあった。守備力やそう力の高い選手は、意外と若い選手が補ってくれるのだ。


 その後キャンプが終了するまで、彼女が打撃で周りを驚かすシーンはなかった。監督もこの状況を予想出来ていなかったのか、少々戸惑いも見られた。守備力を見た時に脅威を感じ、絶句していたチームメイトも、今となってはほとんどが彼女のことを気にしてはいなかった。むしろ屈強な男子選手は彼女の非力ぶりをせせら笑い、ドラフト1位のことをネタのようにする選手さえいたほどだった。

 俺はというと、別にそういう選手たちと絡むようなことはしなかった。なぜなら彼らは順位的には相当下位の選手。彼女のことをバカにする前に、自分たちがまずは結果を残せという話だからだった。俺は文句を言う前に結果を残しているからね。だから文句も言えるのだよ。

 ただ同じ班だし、何より千尋がユキを相当守っていることもあって、なかなか本人に直接言えなかった。それこそユキが千尋に対して「中島君が私のことをバカにするんです」とでも言いようものなら、俺は間違いなく選手生命を断たれてしまうだろう。そのくらい千尋はユキに対して、神経をとがらせていたのだった。


 いよいよキャンプが終わり、オープン戦が始まる日がやってきた。オープン戦は言わば練習試合で、シーズンが始まる前の実戦形式のゲームと言える。シーズン1カ月ほど前から始まるので、ここまでに仕上げておかないと開幕のオーダーから外されてしまう可能性もあるのだ。一応3番スタメンが決定しているとはいえ、そこは俺も用心する必要があった。

 とはいえ、俺もそれなりに結果を残してきた打者である。なんだかんだ言っても、それなりの成績は残せるだろう。そう思っていた――。

 ――甘かった。

 まったくボールがバットに当たらない。高校時代は天才スラッガーだったなんて言っても、プロに入ってしまえば経験がない打者として分類されるのだ。謙虚さを失えば、結果が出ないのは当然だった。

 相手投手も俺のことを警戒はしていたと思う。しかしそれ以上に俺の打撃のやり方が無能すぎていたというのが本音だった。プロともなれば高校時代のように、決まったような配球の仕方はしないのだ。相手打者の考えている裏を突いてくるような球も投げてくる。至極当然のことだが、高校時代の栄光に浸っていた俺は、そんな当たり前のことにも気づけていなかった。

 ……完全なる挫折と言えた。ここまで結果が出ないのは、本当に初めてのことだったから――。焦りと落胆で、気がついた時には自分の代名詞のフルスイングも出来ないようになっていた。自分を見失っていたような感じだった。

 俺は大好きだった野球が嫌いになった。ここまでつまらないのは初めてだから。バットを振れば遠くに飛ばせていたあの時とは異なり、振っても振っても当たらないのではまったく楽しくはない。とにかく……、しんどかった。

 やがて俺は練習にも身が入らなくなり、サボりぐせさえつくようになっていた。練習時間が大体5時間あるとしたら、4時間は力を抜くような感じで練習していた。打撃はいつもフリーバッティングのみをひたすら行った。理由は絶対に遠くに飛ばせるからという単純なもの。自分が天才スラッガーだったというのを唯一思い出すことができ、かつ浸れる場所でもあった。要は現実逃避をしているのだ。そんなことだから打撃技術はまったく向上しない。さらに走塁や守備まで手が回らなくなり、緩慢さが目立つようになっていった。その結果開幕戦がもう間もなくと迫った段階で、スタメンを外されるようになっていた。本当に落ちぶれていたと感じる。それでも俺は自分が間違ったことをしていること。そして考え方を改めないといけないことに気付いていなかったのだった。


 そんなある日。その日は開幕する2週間前ほどのことだった。その日俺は普段よりも早起きをしたのだった。通常全体練習の開始時刻は9時頃であったため、普段の俺は8時ごろに目を覚まして、それから朝食を取ったり身の回りのことをした後に、練習場に向かうというのが日課になっていた。だがその日はなぜか5時30分ごろに目が覚めてしまったのだった。

 とはいえもう一度寝てしまえばいいか。普段であればこんなことしか俺は考えなかっただろう。しかし俺はその日あることにたまたま気がついた。横で寝ているはずのユキと千尋がいないのだ。

 俺たち3人は寮内で寝るときは、中にあるベッドで寝るのだが、2つしかないうえに幅が狭いため、誰か1人だけが雑魚寝になることが多い。当然その身になるのは――、順位が下位の俺であることはお分かりいただけるだろう。もちろんたまに女子2人が、1つのベッドで寝てくれることもあるので、その時は俺もベッドを使えるのだが……。そのためいつもベッドから先に起きてきた千尋に叩き起こされたり、ほったらかされていることもよくあった。割と叩き起こされた時は不快に思ったのだけれど……。

 しかしその日はたまたま早起きしたため、逆に起こしてやろうと少し悪だくみをしていたのだった。だがベッドを見ても誰も寝ていなかったのだ。一体どこに行ったのだろうか?

 気になった俺は適当に私服に着替えて、寮を出た。別に門限のようなものはないので、出ること自体に大きな問題はない。しかしあまりに遅すぎると、時間によっては酒や女やギャンブルにうつつを抜かしたのではないかと疑われる可能性が高いため、普通は寮がある敷地内までしか出ることがない。ましてあの2人は見た感じとても優等生で、悪いことをするようにはとても見えない。それにユキに関してはキャプテンでもあるので、ここでうつつを抜かしたら、当然チームにも彼女自身にも汚点がつく。このことから遠出の可能性は、極めて低そうだ。

 とりあえず俺は近くにある室内練習場へと向かった。というのもまだ朝はとても肌寒いため、暖かいところで練習しているのだろうと思ったからだ。まして2人は女子なので、寒いところに自ら行こうとするとは考えにくい。となれば室内の可能性が高いと思うのは当然だろう。外に出て寒風に当たりながら練習なんて絶対にあり得ない。俺は寮のほぼ横に設置されていた地下への階段を下って行き、室内練習場へと向かった。

 しかしそこに彼女たちの姿はなかった。正直入ってすぐだったが、ほぼ間違いなかった。というのも室内練習場には、バッティング練習場やウエートトレーニングをする器具など、それなりに音がするものが置かれているので、そういった音がするはずだと思ったからだ。またそれらの器具を使わなかったとしても、キャッチボールの時のグラブの音や、小さいながらも彼女たちの声が聞こえてこなければおかしい。案の定見渡してみても、2人の姿はなかった。

 俺は少し寝ぼけているせいか、フラフラしながら階段を上って、室内練習場を後にした。

 ……今更ながら思うのだが、別に行かなくても良かった気がした。待っていればそのうち帰ってくるだろうし、それまでゆっくりできるとでも思えば問題はなかったと思う。ただ妙に気になっていたのも事実だった。女子2人でこんな朝早くに行くとこなんてあるだろうか? まさか変なとこに行ってはいないだろうな? 俺は気になりながらも、寮に戻ろうとした。

 すると、かすかに女性の声が聞こえてきた。大きくはないが、辺りが静かなため、しっかりと聞こえてくる。そして聞き覚えのある少々男勝りな感じのこの声――。間違いなく千尋だ。

 俺は声のする方向に歩いて行った。そこは今朝の時点で俺が最初に絶対にあり得ないと思っていた、屋外の練習場だった。まだ冬の余韻が残る冷たい風を受けながら、ユキと千尋はランニングをしていた。前にユキ、後ろに千尋がしっかりと同じペースでグラウンドを並走している。


「イーチ、ニー。イーチ、ニ、そーれ」


 千尋の元気な掛け声が、周囲に響き渡る。まだ外はそこまで明るくなっていないのに、ここまで聞こえるということは、それなりに大きな声を発していることが分かる。近所迷惑にもなるのだろうが、そんなことは一切気にかからなかった。朝なので声を出しづらいはずだが、普段通りの大きさの声を出していることに素直に驚いた。彼女たちは1位と2位の2人だ。ここまで素直に練習をしなくとも、2人の力からすればレギュラーは取れる可能性が高いのに……。なぜここまで練習するのだろうか? そんなことばかり考えていた俺は、ずっと彼女たちのことを見ていた。

 そんなことをしていると千尋がこちらを向いた。俺は特にやましいことはなかったが、普段の彼女の俺への対応が厳しかったので、物陰に隠れようとした。しかし手遅れでばれてしまったようだった。


「おーーい! 中島くーん。一緒に練習しようよー!」


 何と言うべきだろうか。彼女としては、普通に俺のことを呼んだだけなのかもしれない。しかし俺は少々バカにされているような気がした。それは女性選手であっても真摯に練習している2人に対して、俺が真面目に練習をしていないからだった。こういう思いがあるということは、自分でもまずいことを自覚していたのだろうな。結局このまま隠れているのは逃げているように感じたので、仕方なく顔を出した。そして小走りで、2人がいるグラウンドに向かった。

 格好はユニフォームではなく私服で、寝ぐせもついたまま。とても野球をするような格好ではなかったが、グラウンドに向かっているわずかな時間で、少しは練習をするという覚悟が出来ている状態であった。とにかくここまで来たらやるしかない。


「おはよう。中島君。さっそくだけど、一緒に練習しよ?」


 やっぱり少しバカにされている気もする……。するが……、ここはそんなことは気にせずに、練習に付き合うとしよう。


「何の練習をすればいいの?」


「とりあえず私たちは、ここに書いてあるメニューを毎日こなしているの。だから同じことをすればいいと思うわ」


 俺はそのメニューを見て驚いた。ランニング10分、キャッチボール5分、腕立て伏せ100回、スクワット100回をベースに、フリーバッティングやベースランニング、さらには専用のマシンを使ったノックなど、特別な練習を織り交ぜていたのだった。大体このメニューをすべてこなすとなると、1時間は間違いなくかかる計算だ。

 これを毎日やっている……? 嘘だろ、おい……。

 でもよくよく考えると、千尋の言っていることは正しい可能性が高かった。キャンプが始まってから今まで、割と遅めに起きてくることが多かったのだが、その時もいない日があったからだ。その時は2人で自由行動でもしてるのだろうと思っていたが、どうやら違うようである。2人がとても真面目であることを考慮すれば、チームに迷惑をかけるかも知れないような行動は取らないはずだ。それだけ彼女たちは謙虚に、そして真摯に野球に取り組んでいるのだった。

 そう。いくら天才天才と言っていても、努力しなければあっという間にいろんな選手に抜かれていく。こんな当たり前のことは、どんなにレベルの低い野球選手でも気づけるはずだ。ただ俺は、自分の実力にうぬぼれて、こんな簡単なことにも気付けなかったのだ。

 俺は本当に恥ずかしく、そして情けなくなった。そして同時にこの2人に申し訳ない気持ちになった。彼女たちは特に何も思っていないかもしれないが、完全に2人のことを自分より下に見ていたからだった。

 俺の方が打球を遠くに飛ばせる。俺の方が今まで名を残している。だから俺の方がチームに貢献できる。こんなことばかり思っていたからだった。自信を持つことは確かに大事だ。だがそれらの言葉には、すべてにある言葉が前につく。


「今のところは」


 今現在、俺の方が上でもすぐに抜かれてしまう可能性が高い。だから抜かれないようにがむしゃらに練習をしたものだった。それなのに……、いつからだろうか? こんなに自分にうぬぼれるようになったのは。


「ほら。そんなところで突っ立ってると邪魔よ!」


 ボーっとしていたら千尋に怒られた。


「早く練習しなさい!」


「は、はい」


 俺は慌てて返事をしてさっそくランニングから開始した。ちょうど一区切りがついた所だったのか、ユキと千尋は休憩に入っていた。横に彼女たちが用意したであろうスポーツドリンクが置いてある。正直まだ体が用意できてなかった俺は、すぐにそれを欲しくなった。ま、色んな意味で当然くれるわけはないのだが……。今日は途中参加ということで、2人はランニングと腕立て伏せだけで、練習を切り上げることを許してくれた。

 練習が終わって少しクタクタになった俺のことを、2人は待っててくれていた。正直少々ありがたい話だった。スポーツドリンクをくれなくとも、やっぱり1人で終わって寂しく帰るよりはよっぽどマシだった。


 俺は寮に戻る前でのわずかな時間で、彼女たちに尋ねることにした。


「あの……、2人とも……」


「何?」


 あくまでこう言っても、返事をするのは千尋だけだ。ユキはまったく返事をせずに、正面を見据えたまま歩き続けていた。


「2人は毎朝、こんな感じで練習をしてるの?」


「そうよ」


 千尋はさも当然でしょとでも言いたげな表情で、俺に言ってきた。ただそれは自慢というよりも、プロとしての心構えとして当然でしょと言っているように、俺には映った。


「ふーん。そうなんだ……」


 その表情に俺は少し押されてしまい、こんな感じの返事しかできなかった。その後再び沈黙の時間が流れていく。距離も短いので少し強引ではあるが、俺は確信をつく質問をしてみた。


「正直2人は俺よりも才能があるんだから、あんまり練習しなくても大丈夫な気がするんだけど……」


 正直殴られるのを覚悟で言った。そんな気持ちで、プロでやっていけると思うのかと言われるのも覚悟して言った。すると千尋は少し表情を曇らせて、唇を噛みしめた。思った反応と違ったので、俺としても言葉が出なかった。というよりも彼女の表情を見る限り、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。俺たちは重苦しい空気のまま、寮まで戻ることになってしまった。


「とりあえず朝ごはんをさっさと作るから、2人は座ってていいよ」


 何というかものすごく申し訳なかったので、不慣れではあるが料理をしてあげることにした。といってもたいしたものは作れないので、ご飯を炊いて、少し濃い目のお味噌汁を作り、おかずとしてハムエッグとサラダを作って、待っていた2人の前に置いた。


「あら。ありがとう」


 素っ気ないがちゃんとお礼ができるいい子だった。とりあえずこれである程度ご機嫌になったようなので、安心しながら食事を摂れる。この後はまた練習が控えているので、早く済ませることにした。そのため食事中は私語を一切しないようにした。まぁ普段もそうなのだが……。ところがそんなことを思っていると、いきなり千尋が話しかけてきた。


「ねぇねぇ、中島君。あたしたちは女だけど、一人前のプロ野球選手になれると思う?」


 正直こういうことをいきなり言われると、回答に困る。下手な回答をすれば彼女たちを傷つけてしまうかもしれない。だからと言ってわざとらしくそんなことないなんて言うと、返って彼女たちを傷つけかねない。強気な発言をしていたって2人は女子なので、男よりも傷つきやすいのだ。特に男女の力関係の話は……。そんなだから俺は答えることができなかった。


「ねぇ、中島君! 聞いてた?」


 そんな俺の気持ちを一切考えず、千尋はまたも聞いてきた。本当に困る。


「もしかして……、なんか私たちに遠慮してる?」


 なんだ。わかってるなら、それを察してよ。俺は最初そう思った。しかし……、あれ? よく考えたら、なんでその事をわかってわざわざ聞いてるんだ?


「う、うん」


 俺は頭がこんがらがったのか、普通に返事をしてしまった。


「そう。やっぱりあなたもそんな風な目で私たちを見るのね……」


「ご、ごめん」


 俺はとにかく必死に謝罪をした。


「別に謝らなくても大丈夫よ。私だってその覚悟は出来ていたからね」


「ご、ごめん」


 そうは言われてもやっぱり謝ってしまう。女子だからとバカにしていたことは事実なので、それを申し訳なく思ったためだった。


「ねぇ、中島君。私たちは同じ高校出身って知ってる?」


「同じ高校なのは知ってるよ。プロフィールで見たからね。それで女子野球部だったんでしょ?」


「そうよ。桃百合学園高校よ」


 正直この高校のことは知らないので、少し興味があった。


「この高校はね、女子野球部もあるけど普通の男子の野球部もあるの。それでみんな女子野球部のことを結構バカにしていたのよ」


 こういう思いをしていたのは、どうやら今に始まったことではないようだ。


「だけどね、私たちは決して諦めなかったわ。だって本気でプロ野球選手になりたかったから。」


 こういう発言を女子から聞けるとは思わなかった。だから普通に質問を返した。


「なんで? 女子だったら別にも夢があるでしょ?」


「確かにね。でも私はどうしてもなりたかったの」


「どうして?」


 気づいた時には俺は前のめりになって、千尋の話を聞いていた。


「それはね。お父さんが、失敗したからよ」


「お、親父さんが……」


 何かタブーに触れてしまったような気がした。さらに申し訳なくなったが、千尋が話を続ける。


「私のお父さんはね。もともとプロ野球選手だったの。当時はそれなりに期待されて、注目されている選手の1人だったらしいわ」


「どこのチームだったの?」


「そこまでは聞いてないからわからないわ。でも相当期待されてたって言ってたわ」


「ふーん……」


 これは完全に家族の話になるとわかった。わざわざ思い出させたくない話をさせているのだから、とても申し訳なくなる。


「でもプロ野球選手としての人生は、すごく大変だったらしいの。1年目から他の選手との出来の差に愕然としたらしいわ」


 ありがちな話だ。でも今の俺と変わらない気もした。


「それで期待を裏切ったから、ファンからは激しい罵声を浴びさせられていたそうよ。そしてそのまま活躍できないまま、解雇されてしまったの」


「何年で?」


「5年よ」


 正直5年では間違いなく短い。プロ野球選手は活躍した場合、20年以上にわたってプロ野球の世界で戦う選手も大勢いる。もちろんそうなるのはほんの一握りであることは理解している。ただそれでも活躍したシーズンが1年でもあれば、10年近くはプロの世界でやっていける。それを踏まえると5年ということは、本当にまったく活躍できなかったと言えるだろう。


「だからお父さんにとっては、プロ野球選手だった時に良い思い出がまったくないの」


 まぁ目指していたなら尚更だろう。プロ野球選手になったということは、当然その後の成功のことも思い描いていたはずだ。


「それでその後まともな職にもつけなかったの。元プロ野球選手ということもあって、誇りとかプライドがあって、やや傲慢だったこともあったのでしょうね」


 実際野球に打ち込んでいた人生であればあり得る話だ。野球という心の支えを失った絶望と、野球ばかりだったため社会の知識を得ていないことが相まって、就職できないということはよくあることだ。


「それで私はお父さんに色々と文句も言っていたの。だってみんなにこんな人なんだって事をばらすのが嫌だったからさ」


「ねぇ。だとしたら質問なんだけどさ……」


 俺も気になることがあったので聞いてみた。


「お前は何でプロ野球選手になろうと思ったんだ?」


 正直ここからプロ野球選手になるという夢に結びつくイメージがなかったので、聞いてみた。するとまた少々千尋の表情が曇った。しかし今度はすぐに元の表情に戻した。


「正直話としてはおかしいかもしれないけど、私はそんなお父さんがあんまり好きじゃなくてね。だから 普段、あんまり話はしていないの。でもプロ野球の世界を目指していたのならば、絶対に楽しいことはあるって思ってたわけ。それで逆らいたくて、プロ野球選手を目指したのよ」


 俺としては予想外もいいところだった。普通こういうケースの場合、お父さんが果たせなかった夢を娘として叶えるために、プロ野球選手になったというのがお決まりのパターンだ。まさか逆らってプロ野球選手になるとは……。どこまで変わったやつなのだろうか。


「でも……、やっぱり簡単な話ではなくてね。なかなか芽が出なかったのよ」


「そりゃそうだろうな。野球選手っていうのは普通、男が目指すものだからな」


 俺は無意識で当然のことを言った。だが千尋はそれを言われたくなかったのか。少々視線を落とした。俺も少し申し訳なく思ったが、その前に千尋は覚悟を決めて話し始めた。


「やっぱりそう思うわよね。私も男との体力の差や能力の差を痛感したわ」


 しかしそういうと千尋の表情が変わった。


「でもそれだけで諦めたくはなかったわ。だってそうだとしたら、女性のプロ野球選手は何のためにいるわけ? ただの象徴とかマスコットというわけじゃないでしょ。あなたもそう思うわよね?」


 かなり強めに迫られたので、少し引いてしまった。もちろん発言しづらい質問だった。非常にデリケートだったからだ。

 確かに千尋の言うことはよく理解できる。女子プロ野球選手がただの可愛さによる集客要員だけでチームに入れるというのは、やはり失礼だ。女子選手は本当にプロ野球選手になりたくて入団したのに、そういった扱いを受けるのは差別と捉えられても仕方がない。しかし残念ながら、体力面ではどうしても男より劣ってしまう。そのため男子選手と同様の成績を残すには、相当な努力をしなくてはならないだろう。それは俺が想像しているよりもはるかに上の努力だ。


「だから私はそういった世論を覆すために、全力で取り組んだの。たとえ男子の野球部のやつらにバカにされても、ね。必ずなってやるんだって……」


 女子ならではの話だった。ただそこに千尋の強い思いがしっかりと見えた。プロ野球選手になりたい。この一心が彼女のプロへの支えになっていたのだろう。

 そういえば……、俺も元々はそうだった。小学生の頃は無我夢中で練習をして、目標にしていた選手と一緒に、試合で競演することを目指していたことを思い出した。今となって考えれば年齢がその選手とはあまりにも離れていたため、現実的にはその夢は当然叶わないのだが、それくらい昔は懸命にプロ野球選手を目指したものだった。

 それと比べると、俺は今の自分がいかにまずいことをしているのかというのを理解し始めていた。このままでは俺はプロ野球選手になっただけとなってしまう。プロ野球選手になることを応援してくれた親を、裏切る可能性だってある。そんな人生は、当然望んではいなかった。そしてそれを避けるためには、練習するより他に理由はない。力をつけて、長い間活躍できるような選手になるしかないのだ。そのためにも彼女たちの心意気は、見習わないといけない。そしてバカにしたことも素直に認めて、彼女たちに謝罪する必要もあった。


「あ、あの……、ち、千尋さん」


 緊張しているせいか、普通に下の名前で呼んでしまう俺。


「な、何よ?」


 それに対して千尋は、少々あっけに取られた様子だった。そんな彼女に構う間もなく、俺は頭を下げた。


「ごめん。俺も君らのことをバカにしていたんだ。どうせ俺たちよりも出来ないやつらだろって。でもキャンプ初日で見せてくれた身体能力の高さ、それに今まで見てきた野球に取り組む姿勢を見た時に、自分の考えが間違ってることに気付いたんだ。女子だから俺たちには勝てないという考え自体が、非常に浅はかだったってことに。君たちは本当に力がある選手だった。1位と2位にふさわしい選手だったよ。それなのにバカにして、本当にごめんなさい」


 何というか謝罪というよりも、自分の今までの甘い考えを暴露して糧にしようという、いわゆる意気込みのような感じのする謝罪だった。千尋はその謝罪を聞いても、あまり気にしたそぶりは見せなかった。ただ一言だけ。


「そこまで言うなら、プレイで示しなさい」


 彼女らしいコメントとも言えた。そこで俺は早速頼むことにした。


「じゃあ千尋さん、私も朝一緒に練習させて欲しいんですけど、いいですか?」


 完全に改まった言い方になった。すると千尋が少々ほくそ笑んだ。


「別に構わないわよ。でも朝5時には練習に出ているから、遅れないようにしてね。遅刻したら、あのメニューとは別のペナルティを与えるからね」


 彼女の思惑にはまったような感じがした。でもここで逆らいでもしたら、本当に自分はダメになるような気がした。ペナルティがどんなにきつくてもやるしかない。


「わかりました。よろしくお願いします」


 別に師匠でもないのに、年上でもなく同期なのに、完全に立場が下になっていた。そしてもう1人の彼女のことも思い出して、声をかけた。


「あ、あの、ジークラーさん。ご、ごめんね。聞いてたと思うけど、今度から一緒に練習することになったんで、よろしくお願いします」


 ユキは返事をすることなく、さらに下を向いた。


「ちょっと! 何どさくさに紛れてユキちゃんに声をかけているのよ! ユキちゃんに声をかけるなら、私を通してからにしてって言ったでしょ!」


 すっかり忘れていた。俺は2人に謝罪して、千尋を通して再度伝えてもらった。傍から見れば変なのは重々理解しているが、こうしないと彼女は答えてくれないのだ。いや、正確には彼女自身は俺には答えず、千尋に一旦伝えてから俺に伝えるのだ。繰り返しになるが、彼女の声は俺にはまったく聞こえない。


「わかったってさ」


 まるで人形のようだ。ま、わかってくれたのならいいのだけど。


 それ以降、俺は彼女たちの朝練習に付き合うようになった。最初は遅刻することが多く、何度もペナルティを与えられて辛かったが、やめることなく続けた。それがプロとして成功することにつながる一歩になると信じて。

 結果はすぐについてきた。オープン戦の終盤から成績が上向いたのだ。本来の打撃ができるようになり、最後の3試合でホームランを放った。監督も完全復活を高く評価し、オープン戦前に発表していた通り、3番レフトでの出場が決定したのだった。こうなれば恐れることはあんまりない。このままプロでも結果を出してやるんだ。そんな強い気持ちを持って、シーズンを迎えるのだった。

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