1章 音痴
遥か昔、この世界と生命は神々によって創造された。
圧倒的な力を持つ神の元、無力な生命達は平和に暮らしていた。
ある日。つまらない日常に飽きていた神は、一番の成長を遂げた人間に面白い事をしろと注文する。
「我々を満足させてみよ。さすれば唯一なる力を授けん」
人間は戸惑いながらも神々の前で曲芸を披露した。
しかしどれもが無駄に終わり、誰もが諦めかけた時。
ひとりの見目麗しい女が、神々の前へ身一つで歩み出た。
「魂を込めて、唄を捧げましょう」
小さな唇から紡がれたのは鈴のように美しき旋律。力強く存在そのものを乗せた女の唄は、神々の心を揺さぶった。
「素晴らしい。人間とはかようなモノを創り出したのか。満足であったぞ」
ーーでは約束通り力を授けよう。
神々が指を一振りすると、人間達に光が降り注いだ。
「そなたらが唄えば地が揺れ、炎が舐め、水が癒し、風が薙ぐだろう」
そして人々の中に唄を使役する力が宿り、人間はさらなる繁栄と平和を享受することとなる。
読んでいた本を静かに閉じ、一人の青年はほくそ笑んだ。
「……実にくだらない」
窓から青空を見上げた金の瞳が赤茶色の髪から覗き、何かを企むように爛々と輝く。と、
「ゴラアァ!! なにサボっているのですか!!」
ごうん、と鈍い音を立てて頭上へと本が落ちてきた。
「あぎゃあああああぁ!!?」
痛みに絶叫を上げて椅子から転げ落ちる。頭を抑えて床を這う青年に、冷ややかな女の声が降ってきた。
「イシュト様? ワタクシ、戻ってくるまできちんと唄の練習をしておいてくださいね。と、三回言いましたよね?」
「し、知らないなぁ」
「いい度胸です。面を上げなさい!!」
面倒くささを前面に出して、発狂する声の主を見上げる。
腰に手を当てて佇むのは、年齢と共に気の強さを重ねてきた顔を持つ老婦人。
背筋をしゃんとして、これぞまさに教育係!というような老婦人に、青年は舌を鳴らした。
「くそ、帰ってくんの早えな。歳なんだから用足しぐらいもっと時間かけろよ」
「18にもなって……。まぁ、口の聞きかたが悪いのはいつもの事ですから大目に見ますが、勉強から逃げるのは許しませんよ!」
「へいへい、分かってるっつうの。暇潰しに本読んでただけだろ」
頭を摩りつつ起き上がる。
今二人が居る部屋はだいぶ広く、大きめの勉強机と椅子などを置いてもなお有り余るぐらいの空間をもっている。
ただの教育部屋なのに小綺麗で装飾に金がかかっているのも、この家が貴族の端くれである故だった。
部屋の中央で老婦人と向かい合う。
「良いですか。唄はとても大切なものなのですよ? 唄えぬ者、声が汚ない者は力が弱く、周りから蔑まれる。貴方は次期領主という大事な存在なのです! なのにこんな……」
「はぁ? 文句あんなら親父か母さんに言えよ。生まれつきなんだよコレは」
「分かってますよ。その為にこうして練習をしているのではないですか。イシュト様は声だけ……は良いのですから」
「声だけで悪かったな!! ババアは唄は上手くても怒鳴り声がドラゴンの鼾みたいだけどなー」
けらけらと笑いながら言った途端、老婦人の瞳が凍えた。冷気が微かに漂ってくる。
想像じゃなく本物の冷気が。
「イシュト、此処に座りなさい。貴方にはきっちりと話をつけないといけないようですね?」
「やば……。逆鱗に触れたか」
「座りなさいッ!!」
「じゃ、じゃあな!」
イシュトは窓を開け放って下を見下ろす。
いくら真下が草花の生えた庭だとはいえ此処は三階で、このまま飛び降りれば骨折は免れないだろう。
しかし、躊躇わず窓の縁に足をかけて飛び出した。
「尊き息吹は繭となり、裸の子らを守り包まん。なんて優しいのだろう!」
唄を唄と呼べない歪な音が響く。風を切って落下した身体が、柔らかな何かに包まれてバウンドする。
が、二回目のバウンドで顔面から転がった。
「ぶ。優しくねぇな」
唄が歪なら力も歪になる。それを身を持って体感しながら、窓から見下ろす老婦人に舌を突き出した。
「戻ってきなさいぃぃ!!」
身を翻して屋敷の庭を走り抜け、イシュトは空気を吸い込んで高らかに笑う。
「こんな良い天気なのに、いつまでも息苦しい部屋に引き篭もってられるかっての!」
この屋敷は街外れにあり、その周りは森に囲まれている。
そのため広々と土地を使えているので、少し離れた位置には私兵の稽古場まで造られていた。
そこはイシュトにとってお気に入りの場所だ。子供の頃からこっそりと忍び込んでは、大人達に混じり剣を振っていた。
「俺には剣のが向いてるんだよなー」
稽古場にたどり着くと、刃の合わさる軽やかな音を聞きながら門をくぐった。
コ型に造られた建物の中央では私兵達が剣や槍で打ち合いをしており、イシュトに気づいた門番が近づいてくる。
「おや坊ちゃん。また勉強から逃げてきたんすか」
「まあな。あんな毎日毎日唄ってたら心が女々しくなりそうだ」
「ガハハ! まぁ坊ちゃんが壊滅的な音痴なんだ、仕方ねぇな!」
「個性的と言いたまえ。……ところで今日おじさんは居ないのか?」
稽古場を見回し、目的の人を見つけられず肩を落とした。
何故か門番が怪しく笑う。
「あー、そうだなぁ。当分帰って来ねえ筈ですぜ」
「んだよ。ならいいや、また来る」
「おうよ。あ、あと隊長からの伝言。嫌われたくなきゃしっかり勉強しなさいってことだ」
「は?」
眉を顰め、ニヤニヤ笑いで手を振る門番に首を傾げた。