上
しつこいようですが、、、
「王宮の至宝と人質な私」の後日談です。
セーラがガルシアからイリリアに帰国して、二ヶ月後のお話です。
「おはようございます、奥様」
緻密な刺繍が施された分厚いカーテンが開けられて、朝日が窓から差し込む。
絹の寝間着はあまりに肌触りが良く、まだ夢見心地のまま私は寝台の上で微睡んだ。
寝返りを打って薄目を開けると、隣りにいるべきはずの夫の姿がない。
「イライアスは……」
まだ覚醒しきらない掠れた声で問いかけると、察しの良い侍女は少し笑いを含んだ声で教えてくれた。
「旦那様はもうお目覚めで、中庭でジル様と剣の手合わせをなさっていますよ」
ーー朝っぱらから剣の稽古?
戸惑いながら起き上がり、寝台から下りる。
確か今日、夫のイライアスは夜勤の筈だった。もう少し休んでいれば良いものを、早起きをして補佐官のジルと既に身体を動かしているらしい。
この国最強の軍隊である、宮廷騎士団に所属するイライアスとしては、身体を鍛えてるのは欠かせない習慣なのだろう。
彼らしいと言えばそうなのだが、ストイック過ぎて心配だ。
侍女に手伝ってもらって着替えを済ませ、髪を結い上げてもらう。藪のように野蛮に広がっていた私の赤毛が、見事に可愛らしく落ち着いてハーフアップにされていく。
鏡に映った自分の姿に満足して、思わず微笑みかけてしまった。
サラサラと綺麗に広がる淡い緑色のドレスは、このショアフィールド邸に嫁いで来てから、新調してもらったものだ。私の体型に完璧に合わせてあり、とても着心地が良い。胸元の繊細なレースは熟練の職人の手によるもので、どの角度から見ても色んな表情があり、尚且つ涼しげだ。
明るく広い清潔な食堂には、私の為の朝食が既に準備されていた。
席に着くなり琥珀色の紅茶が磁器のカップに注がれ、選ぶのも一苦労しそうなほどの種類豊富なパンが台所から運ばれてくる。どれも焼き立てで、小麦の香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、食欲をかき立てる。
侍女の一人が白いナプキンを機敏な動作で広げ、私の膝に乗せる。
「ジャムはどれになさいますか? 奥様」
別の侍女が差し出したトレイには、十以上ものガラスの瓶が並び、色彩豊かな多種多様のジャムが入っている。
こちらも選びきれない。
私が暮らす広大な屋敷。豪華な調度品。数えきれないほどいる使用人。
豪奢さに浸かりきり、優雅な時間が毎日過ぎていく。
この贅を凝らした日々の連続。
豊か過ぎて何の不満も思いつきやしない。
……一つを除けば。
私は今日こそ夫であるイライアスに、この不満をぶつけるつもりだった。既に耐えに耐え、我慢をし続けた不満だったのだ。
王都から遠く離れた、小さな村に暮らしていた貧乏なホルガー家の次女でしかなかった私が、この名門貴族のショアフィールド家に嫁いだのだ。
結婚当初は偽装夫婦でしかなかった、夫のイライアスと私が、ようやく本当の夫婦となってから二ヶ月弱。戸惑うことも多く、今まで私なりに色々と我慢してきたつもりだったが、これだけはもう黙っていられない。
イライアスは今日、王宮への出勤が遅いはずたったから、話し合う時間はたっぷりある。
私は繊細な造りのカップに残った、少し冷めた紅茶を最後に飲み干すと、ソーサーに置く。ガシャンと思わぬ大きな音がして、割れたかと一瞬動揺した。
気合いを入れるために、大きく咳払いをしてから、離席して私は中庭に向かった。
ーーあああ、遠い!!
屋敷は無駄に広くて、食堂から中庭まで移動するだけでしんどい。ここでは毎日が運動会だ。
何をするにも移動だけで時間がかかる。
流石にもう剣の稽古は終わってるかもしれない、と思いながらも中庭に出る。
が、イライアスは期待を裏切らない男だった。
彼は白いシャツ姿で剣を振るい、ジルと中庭に置かれた水盤の隣で剣を合わせていた。
ーーまだやってたんだ。
感心を通り越して呆れながら近づくと、イライアスは私に気がついて剣を納めた。
「セーラ! おはよう」
イライアスは大股で歩いてくると、私を抱き寄せた。
硬く太い二の腕に引き寄せられ、イライアスの胸板に顔が押し付けられる。
早朝とは言え、長時間剣を振っていたイライアスの身体は既に熱く、少し汗ばんでいた。
「ねぇイライアス、今日は夜勤なのに……こんなに朝から頑張ったら疲れちゃうよ」
「私の心配をしてくれているのですか?」
そう言うと、イライアスは私の頰を両手で包むように触れた後、蕩けるような甘い顔で見つめてきた。
その美貌から勤務先で『王宮の至宝』と呼ばれているイライアスの、その綺麗な緑色の瞳に見つめられると私まで蕩けそうになる。
再び彼にきつく抱き締められ、私は腕の中から顔をあげて口を開いた。
「イライアス、あのね」
言いかけた私の口をイライアスが唇で塞ぐ。
それはすぐに離され、彼は悪戯っぽく笑った。
「パンの香りがしますよ」
「本当? 食べたばかりだから……」
再びイライアスの唇が寄せられ、その柔らかな感触にフワフワと頼りない気分になる。
目を閉じてキスを受けていると、何もかも忘れてしまいそうになりかけ、私はハッとした。
キスに朦朧としている場合じゃない。今日こそ、ハッキリ言いに来たんだった。
私はパンの香りごと私の唇を食べそうな勢いのイライアスをそっと、でも確実に押しのけて、言った。
「私、ヨーデル村の両親に会いに行きたいんです!」
こちらの脳内まで蕩けてしまいそうな、イライアスの甘美な視線が一瞬にして氷点まで下がった。
暖かな緑色の瞳が、冷たい貴石の緑色に変わる。
「今、何と?」
いや、聞こえてたでしょう、と心の中で突っ込みながらも、私はしどろもどろになった。
整い過ぎた美貌で冷たく睨まれると、自分の夫とはいえ、蛇に睨まれたカエルのように、身も心も動きが止まってしまう。
ーーでも、今日こそは言わなくちゃ。
深呼吸してからもう一度同じことを訴える。
「実家に一度帰りたいの」
「ヨーデル村に?」
つ、冷たい……。
声が異状に冷たい。耳から凍りつきそうだ。
「貴方が帰省するには時期尚早だと、言ったではありませんか」
「何が尚早なんですか! もうすぐ私がガルシア王国から帰って来て、二ヶ月経ちます。両親とはそれ以上に会っていません」
あの頃の事を思い出すだけで、涙が滲みそうになる。
このイリリア王国の王都からは遠く田舎にあるヨーデル村に、母さんと私が二人で住んでいた頃。
今、目の前にいるこのイライアスが突然我が家の玄関先に現れ、私を母の目の前で攫ったのだ。
私の家族が拾って育てていた少年は、この国の長年の敵国の王子だった。彼は知らぬ間に自分の国に帰国し、長じて国王となりこの国に攻め込んできた。
死んだと思っていた父は王宮の地下で働いていたし、私はその日から戦争の人質だった。
ヨーデル村を出る馬車の中から、泣きそうな顔をした母を見たのが、母と会った最後なのだ。
イリリアとガルシアの戦争は終わり、私はこうして私の命を救ったイライアスの妻となり、幸せに暮らしてはいるが、まだ母とは帰国してから一度も会えていない。
勿論近況は何度も手紙で知らせてはいる。
だが、ここのところ実家から手紙の返事がちっとも来ないのだ。
一体どうなっているのだろう。
いくら田舎のヨーデル村とはいえ、遅いのではないか。
その心配も手伝い、私は両親の顔が見たくて仕方なかった。
「セーラ。王宮にいたホルガー男爵はーー貴方の父上は、宮廷騎士団が丁重にヨーデル村のご家族のもとに、お送りしたのですよ。何の心配も要りません」
「でも、会いたいんです。特に母さんはどれだけ私に会いたがっているか……」
「今は、行かせられません」
私の行動を制限しようとするイライアスに腹が立ちながらも、これは想定の範囲内だった。
そう、私だってこれで引き下がるつもりはない。
私は中庭から屋敷の中に入ろうとするイライアスの背中に向かって、言い放ってやった。ーー腕組みをして、背中を反らしながら。
「分からず屋なんだから! じゃあ、もう頼みません。ーー私、一人で勝手に帰りますから!!」
振り返るイライアスを見届ける事なく、私はもう一方にある中庭の扉から屋敷の建物の中に入った。
中に入ると屋敷の中の静けさに、一気に頭の中が冷静になる。
もうちょっと言葉を選ぶつもりだったが、感情的になってしまった。
気合を入れ過ぎたせいかもしれない。
ーー自分の部屋に戻って荷造りをしよう。
廊下に出ると、目の前にイライアスが立っていて驚いた。
反対側の扉から入ったのに、どうなっているんだ。壁を通り抜けでもしたのか。
私は今だにこの屋敷の間取りが把握できていなかった。
「勝手に帰るとは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」
イライアスは私の両肩を掴んだ。見下ろす顔には険があり、体格差も手伝って私の勇気は少し萎えそうになった。
「……セーラ。では近いうちにご両親を今度ここに連れて来ますから…」
そうじゃない。
私が、ヨーデル村の父さんと母さんに会いに行きたいのだ。そこに意味があるのに。
ガルシアからイリリアに帰国して約ニヶ月。
私は宮廷騎士イライアス・ショアフィールドの妻としての日々に幸せを感じていたが、それでも実家が恋しくなることがあるのだ。
ーーあの狭くてボロい実家が懐かしい……。
私は自分の故郷のヨーデル村のこじんまりとした家に帰り、素朴な両親の無事を確認し、娘として甘えたかった。
あの質素な自宅の空気を味わい、そこに再び十年ぶりに再会できた両親の幸せを、見たかった。
あの家にホルガー一家が集うことに、意味があるのだ。
それは我が家がようやく潜り抜けた苦難が終わった象徴でもあるから。
「近いうちっていつですか? 」
「検討します」
検討するというのは答えになってない。
「それに私は、ヨーデル村のあの家に、帰りたいの」
「それだけは、認められません」
なんでそんなに頑ななんだろう!
もう頭にきた。
そもそも私が王都に連れて来られた当初は、戦争が終わったら私を実家にかえしてくれる約束のはずだったのに。
イライアスと睨み合いながら、私は二ヶ月前までいたガルシア王国での日々を思い出した。
義弟が治めるガルシア王国にいる間、仮の夫でしかないイライアスに捨てられたと思っても、それでも私がこの国に何としても帰ろうと決意したのは、自分の両親が心配だからだったのに。そうまでして帰国したのに、ヨーデル村に帰れないなんて。
私はイライアスの両手を振り切り、宣言した。
「じゃあ、家出します!」
イライアスは私を追い掛けて来なかったので、早速家出の仕度に取りかかった。
鞄に服や下着を放り込み、換金に相応しい宝石類を選ぶ。ーーなんと言うか、全部イライアスから貰ったものなわけだけど、気にしていては家出ができない。
軍資金は必要だ。
あれやこれやと仕度に手間取っていると、昼になってしまった。空腹でグウグウ鳴り響くお腹のまま、出発するのはどうかと思われた。
ーー仕方ない。お腹いっぱいになってから、家出しよう。
こんなにノンビリ家出するのは、家出らしくないかもしれない。家出のあるべき姿が良く分からないが、ちょっと間違っている気はした。
侍女に説得されて食事の席につくと、今度はやたらのろのろと食事が運ばれて来た。
珍しく昼にまでジャムの瓶の山が披露され、なぜか給仕が全種の説明をしてくれた。
「ちなみに、大旦那様はオレンジのジャムを。大奥様は、キャラメルペーストがお好きなのです」
大旦那様と大奥様とは私の義父母のことだ。
二人ともこの屋敷が広過ぎて、たまに存在を忘れる。
ようやく食事が終わって席を立つと、ガラガラガッシャン、と盛大な音がして、廊下で大量の皿やカップが割れて転がっていた。
何事かとそちらへ向かおうとすると、飛散した破片が危ないから食堂から出てくれるな、と涙目の侍女たちに縋られた。
やっと片付けが終わり、さぁ廊下へ出ようとした矢先、信じられない光景を目にした。
侍女たちが拾い集めた破片を、芝居くさい悲鳴と共に再度床にぶちまけたのだ。
顔を上げた侍女たちは、哀れっぽい顔で訴えた。
「申し訳ありません! 危のうございますので、今しばらく座ってお待ちを!!」
目を疑いながら立ち尽くしていると、イライアスが廊下の先から駆けてきた。
宮廷騎士の軍服を纏った彼は、私の顔を見るなり安堵の表情を浮かべた。
「ご苦労。良くやった」
イライアスはなぜか侍女たちに労いの言葉をかけた。彼は散乱するカケラを物ともせず、真っ直ぐに私を見つめてこちらへやって来た。
「来週、私がヨーデル村に貴方の両親を迎えに行きます。急いで手配をして来ました」
「本当に? イライアスが連れてきてくれるの?」
でも仕事も忙しいのではないだろうか。
イライアスは少しぎこちなく微笑んだ。
「貴方にはここでしばらく待っていてもらいますが」
私は両親にここに来てもらうのではなくて、ヨーデル村まで会いに行きたいのに。私が希望する帰省は、本当はささやかなものなのに。
「私も一緒に行って良い?」
即座にイライアスは首を左右に振り、きっぱりと言った。
「いけません。貴方はここで待っていて下さい」
どうしてだろう。
そうまでして私を里帰りさせたくないのは。
「でもお仕事のお休みをとって貰うのは、気がひけるから、やっぱり私が一人で一度帰ります」
「セーラ。貴方はここで待ちなさい」
聞いちゃいない。ーーこういう時のイライアスは、何を言っても無駄だということを、いい加減私は分かり始めていた。
イライアスは私に言い聞かせるように、もうすぐ両親に会えるから、と言うと私を抱き締めてから出勤して行った。
でも、私は来週まで待つつもりなんて、もうない。私はもはや誰かの人質ではないのだから、どこへ行こうと自由なはずだ。
一人でヨーデル村に帰るつもりだった。