040 開戦前〜陣地にて〜
——【グラム峡谷】王国軍陣地
戦場となる【グラム峡谷】には巨大な王国軍の陣地が築かれていた。軍の中でも地位ある者は王城の一角にある騎士団詰所に寝泊まりが許され、戦争当日に転移魔法によって来ることになっているが、一般的な軍兵は全員ここで寝泊まりしている。
王国軍が【グラム峡谷】に到着し、陣地を作り上げてから五日。
現在、陣地にはピリピリとした空気が蔓延していた。ちょっとしたことで言い合いが始まり、殴り合いの喧嘩に発展していく。そんなことが陣地のあちらこちらで起こっていた。現に食堂でも——
「おいッ! 今、肩がぶつかったぞッ! 謝れやッ!」
「チッ。うるせーな! そのぐらい気にしてんじゃねーよ! 狭いんだから仕方ないだろう!」
「んだと! コラッ!」
「?! グゥッ……テメェーッ! 殴りやがったなッ!」
今、宿舎には騎士団員や準騎士団員だけでなく、民兵もいるため、かなり人が多い。これが訓練を積み重ねた騎士や準騎士なら苛立つ気持ちを自ら律することができるだろうが、ただの民兵ならそうもいかない。狭い場所や規律ある生活に慣れていない彼らの我慢は、宿舎生活五日目を迎える今、最早限界を迎えていた。
“狭さ”というのは人にストレスを与える原因の一つだ。今の宿舎の状態は一人一人のパーソナルスペースというのが限りなく狭くなっている。故に、皆が皆、多かれ少なかれストレスを感じ、苛立ちを募らせていた。
しかし、そんな場にいても大して苛立っていない者もいる。例えば、今喧嘩の余波を受けて頭から酒を被った上、椅子から転げ落ち、そして下敷きにされた男。彼はそんな状況に遭いながらも文句ひとつ言うことはしなかった。
自分の上に乗る気絶した男を横に退け、体を起こすと、せっせと濡れた頭を拭いている。その顔から怒りの表情は見て取れない。彼はそんな状況に遭いながらも全く怒っていないのである。むしろ、“やれやれ仕方がないなー”とでも言いたげな顔をしていた。
彼の名前はルーベンス。とある田舎の村から召集された民兵の一人だ。
彼が苛立ちもせず、怒りもしない理由。
それは彼が今までの人生でかなりの数の不幸を受けてきたからに他ならない。それ故にちょっとしたことでは苛立たず、怒らないようになったのだ。それは、いちいち気にしていたらキリがないほど不幸に遭うからである。“ルーベンスが歩けば不幸に当たる”とは彼が昔からよく言われていることだ。
だが、彼とてそれ頻繁に不幸な出来事に遭うことについて思うことがないわけではない。
「……はぁー不幸だ」
ルーベンスは頭にかかった酒を拭き取りながら独りごちる。
こうして何かしらの不幸に遭遇する度、ため息とともに“不幸だ”と、つい口に出してしまうのは今や彼の癖となっている。
さて、ここで彼の今までの人生の不幸について二、三個ほど紹介しておこう。
最初に大きな不幸が起きたのは彼がまだ物心つく前の赤ん坊だった頃だ。彼が寝ていた部屋に空いていた窓から鳥の魔物が入り込み、彼を咥えて飛び去っていったことがある。幸い、近くを冒険者が通りかかり事無きを得たが、生後一年も経たずして危うく餌にされるところであった。
二番目の大きな不幸は将来を誓い合っていた村娘——婚約者が実は自分の実の父親とデキていたことだ。古今東西、実の父親に婚約者を奪われる者がどれだけいるだろう? ……いや、ほとんどいないのではなかろうか。そんな限りなく低い確率が彼の身に起きてしまったのが不幸と呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか?
そして、極め付きの不幸は彼が街道に出る度にほぼ必ずと言っていいほど、何かしらの魔物に遭遇し襲われることだ。それは彼自身も、今までよく生きていたものだと思っている。
これ以外にも大小様々な不幸が彼を襲い続けた。道を歩けば牛馬の糞を踏み、鳥の糞が頭に落ちる。森を歩けば魔物用に作られた罠にかかり、畑で作物を育てれば病気に罹って枯れていく。
そのため、付いたあだ名が“不幸に愛された男”。
彼は不幸体質の人間だ。それは最早、疑う余地もない。それは、彼が住む村の村人全員が認識を共有しているところだ。だが、それと同時に運の強さもまた人一倍持っていた。この人一倍の運の良さが無ければ彼は最早この世にはいなかっただろうとは想像に難くない。魔物に幾度となく襲われながらも何時も無傷で帰ってくるあたり、それもまた疑いようがない事実なのだろう。
そして今回。彼がここにいる理由もまた、その不幸体質によるものだ。
王国は戦争に際して村や街から住民を召集していたのだが、何も全住民を召集していたわけではない。各村や町に一定数の人数を割り当て、その人数だけを召集していたのだ。それは彼が住む村も例外ではなく、若い男たちの間でくじ引きを行って出兵する者を決めていた。彼はそのくじ引きに際して見事にその座を引き当てたのである。
“神よ……貴方様は何故このような試練を与え給うたのか……”
そう悲観したのも、まだ記憶に新しいことだ。
ルーベンスは頭にかかった酒を拭き終わると、食堂として使用されている巨大テントを出る。
外はすでに暗くなっていた。食堂用のテントに入った時には、まだ周囲は明るかったが、食事を摂る間に完全に日が沈んだようだ。通常なら夜闇に染まった世界故にほとんど何も見えないが、陣地内に限っては街灯代わりの松明が設置されているため、何も見えないことはない。多少薄暗い程度だ。
「……もう着替えて寝るか」
ルーベンスはそう決めて、宿舎用のテントに向かう。
現在、ここ王国軍の陣地には多くのテントが乱立している。食堂用、救護用、武器庫用、宿舎用、……etc。陣地には、そんな様々な用途のテントが張られていた。
彼は宿舎用のテントを目指す。
「あれ? 今、影が差したような……気のせいか?」
ルーベンスは足を止め、空を見る。しかし、彼の目に映るのは空に浮かぶ星だけであった。彼は首を傾げながらも再び足を進める。
そして、五分ほど歩くと宿舎用のテントに到着した。彼は早速中に入ると、さっさと着替えて割り当てられた簡易ベッドに身を投げた。
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そして、決戦の朝を迎えた。
ルーベンスは装備を整えた後、配属された隊へと向かう。
彼が配属された隊は一人の騎士と二人の準騎士によってまとめられている民兵中心の部隊だ。そのためか、最後方に配置されている。うまく戦況が進めば、彼のいる部隊が戦うことはない。しかし、それは普通の軍隊が相手なら、である。だが、今回の相手は魔王軍。故に、そんな都合良い展開は訪れないだろう。ということは多かれ少なかれ戦うことになる。
彼はそれを十二分に理解していた。同じ部隊の中には楽観視している者もいたが、彼に言わせれば“大丈夫かコイツ……”といった心境である。
そして、彼が配置に就いておよそ一時間。
やがて王国軍と魔王軍が衝突した。戦いの始まりすなわち開戦である。
「……始まったか。絶対に生き残ってやる」
ルーベンスは固く決意した。




