第二話
夕方、日はまだ高く暑さは昼間と大して差がないと錯覚してしまうほどのものだった。そんな西日を背に受け、大都は疼く頬を撫で文句を吐露した。
「ったく、あの女マジで殴りやがった。あんな貧ソーな乳触られたぐらいで黄色い声出しやがって。」
黄色い声というものは、喜んだときに出す声であり…怒りと羞恥心に支配された人間は普通発さない。根本から大都の独り言一行だけでも、相当な慰謝料を請求できるに違いない。自分にない恥ずかしさなど分かるはずもないのだろうが…。
帰りの下り道で十分加速した速度のまま平坦な道も滑走しようと、自転車を走らせる大都の目には、駅前一つの情景がなんとなしに飛び込んできた。
それは―。
「草薙か、何してんだ?」
呼びかけに振り向いた草薙 杏子の表情は、泣き顔で蒼白で、言葉にならない言葉を何度も何度も大都に向けていた。尋常ではない状況に、大都も自然と早足になり、駆け出す。
「どうした?」
詳細は問うまでもなく、災厄は時間差で形を露にする。
「おらぁ、ガキが舐めた真似してくれんじゃねーか!!」
怒声を撒き散らすのは、明らかに平凡な日常を妨げそうな強面のオッサンで片手にナイフ…いかにも薬やってそうな様子だ。
「俺の連れがなんかした?」
「タバコの煙がウぜーだの抜かしやがって、公衆の面前で恥かかせやがったんだよ。」
「そりゃ、すんまそ。でもさ、幼稚すぎんじゃねオッサン、そんな危ない玩具ぶら下げてさ。」
身長が高い大都は、見下しておどけた。
「なめんな糞ガキがァァァァァ!」
男のナイフが大都に当たる直前に、リーチの長い大都の腕が先に男の顔面を捕らえる。迎撃となる攻撃は、男の顔面の骨を何箇所か砕いたからだろうか戦闘不能にした。
「ほら、帰るぞ。」
手を差し出すと、まだ杏子は怯えて喋ることもままならない状態だった。その彼女の腕に、擦り傷を発見した大都は彼にしては珍しく一瞬考えてから行動した。
「草薙、怪我してっぞ。俺ん家、そこだからさ寄ってけよ。」
今度はホッと安堵したのか彼女は大都の話しかけに首を横に振った。
「なんで?」
か細い泣き声で、
「だって、あんたの家の人に迷惑だし…。」
「それなら、気にするな一人暮らしだからさ。」
「えっ?」
「おっし、歩けるなら歩け。」
平坦な道になって五分程度進んだ場所に、大都のボロ屋が姿を出現させる。
「ただいまぁ。」
「お邪魔します。」
殺風景な空間に大都と杏子の声は希釈されて分散して無くなった。
「よし、こんな傷には唾付けときゃ治るって!」
「馬鹿、傷にアンタの唾液が入ったら治るどころか悪化するっ!!」
大都は、なぜか玄関の靴箱に収納された救急箱から消毒液を登場させて子供みたく無邪気に笑った。
「慌てた?つか、調子戻ってきたな。」
「別に。」
素っ気無い返事、彼女の心が大都の仕種に少し高鳴って、悟られたくない気持ちが高まるのと比例して頬が紅潮する。
「顔赤いけど、尿意を催してるのか?」
「違うっ!」
絶対、彼女は今【大都=鈍感馬鹿】なるレッテルを脳内全区域に貼ったことだろう。杏子は、胸を撫で下ろす反面、空虚な空白感にまた複雑でぶつけようのない悩みに苦悩する。
その心境を知ってか知らずか…多分後者であろうが、大都はフと。
「俺さ、馬鹿ばっかやっててさ―。」
「今もやってんじゃん。」
「そう見えんのか?」
「学校中、そう見えてるとおもうけど。」
「そうか。」
「ちょ、納得しないで最後まで話しなさいよ。」
あまりの天然ぶりに度々呆れて溜息を吐きながら、促した。
「中坊の頃、喧嘩ばっかして問題児扱いされて、家に帰ってくるたびに姉貴がさ抵抗できない俺をタコ殴りしてさ。」
「どんな家庭よ。」
「親居ない俺の親代わりとか適当言って、居座ってたんだ。ホントは家賃未払いで追い出されて困ってただけらしいし。」
「え、お姉さんいたの?」
「まだ居るよ、あそこにさ。」
大都は視線だけ廊下の奥へ向けた、納骨されてない骨壷と紙くずだけがひっそりと佇んでいた。
「そんな…亡くなって…。」
「は?」
「えっ、だって骨壷が?」
「あれは、ただの花瓶だろうが。アレだ、今時エアメールしてきやがる。」
「じゃ、お姉さんは?」
「成金とメキシコあたり家建て新婚生活してるんじゃないか。」
「結婚してるんなら帰ってこないんじゃ?」
「あいつ、俺をマジで下僕扱いするために戻ってくるんだ。ドSな鬼なんだよ、あの野郎!」
………シーン。
「私帰る、終電逃すとヤバいから。あと、色々ありがと。」
「おい、聞いたり聞かなかったり意味不だぞお前。」
「私、お前って名前じゃないから。」
軋むドアが、雰囲気を読むようにぴしゃりと閉じた。
あれだけ急接近しておきながら、激しい乙女の気持ちを裏切るような天然産馬鹿の言動。スタート地点へ逆戻り―。
しかし、夏休みは40日以上残している。