蜜蜂と白狼2~散歩に行きたい~
「散歩に行きたいなぁ」
レタルがそんなことを言い出したのは、布団をソファーがわりにテレビを眺めていたときだった。
「散歩くらい、普通に行けばいいんじゃないか?戸締まりだけちゃんとしてくれれば、俺は文句ないし」
「狼が鎖もつけずに歩いてたら通報されて、動物園とか保健所に連れていかれちゃうんだぞ?」
「えっ」
ちょっと待って、まさか。慌てて見下ろすと、レタルはちょうど欠伸をしているところだった。耳を寝かせ、大きく口を開けて。舌がちょっと出てるのが可愛らしいが……もしかしなくても狼の姿で出歩きたいと、そう言っているんだろうか。
訊ねてみれば、当たり前だと鼻を鳴らしてみせる。
「きっちり服を着て、人間のふりして出歩くのも悪くはないけど……四つ足で外を歩けないと、なんとなく落ち着かない」
「そっか、あの家で育ったんだもんな……」
彼の故郷は緑豊かな山中にある。もともと誰かの別荘だったという家の近隣は静かで、人家までも遠い……人狼が走り回ったって遠吠えの合唱をしたって、誰も文句を言わない場所だ。たまに通りすがりの人が怯えたりはしたかもしれないけれど。
いつもは平気そうにしているけど、本当は我慢していたんだろう。あの山の風景を思い出して寂しくなったり、やっと和解した家族を恋しく思ったり。
俺は切ない思いを抱きつつ、レタルの首の後ろを撫でてやる。ふさふさの冬毛、都会で生きるには暖かすぎるくらいの立派な毛並みだ。レタルは嬉しそうに鼻を鳴らし、ぱたんと尻尾を揺らした。
「敦が休みの日だけでもいい。犬みたく首輪と紐をつけて一緒にいれば、俺がこの格好のままで外を歩いても問題ないだろ?」
「犬扱いでいいのか?」
「番です夫婦ですって言ったって、誰も信じないだろ」
「それは……まあ」
言い忘れたが、レタルは人狼の雄だ。色々あって一人でいたところを俺、犬飼敦が拾い、仲良くなって、そして伴侶としての誓いを交わした。これはかなり珍しいケースらしく、対応する法律が存在しないので事実婚という形になっているが。
しがない事務系サラリーマンと人狼の夫婦だなんて突飛すぎて誰も信じやしないだろうし、彼の言い分はもっともだ。ご近所さんに嘘は吐きたくないけど、今回は仕方ないと思うことにする。
実際のところ、人狼たちは結構な頻度で人里にも降りてくる。人間に紛れて買い物を楽しんだりもしているようなのだが……本人たちが秘密にして楽しんでいることをわざわざばらすのも悪趣味だし、ご近所さんと家族なら天秤にかけるまでもない。迷わず後者をとった俺はとりあえず、細かいことを思考の端に放り投げる。
「首輪かぁ……何色がいいかな」
取り急ぎ考えるべきことは、レタルに買い与える首輪の色とデザインだ。布団に背中を預けて寝そべるレタルを眺めながら、俺は首輪を着けた彼の姿を想像してみる。
狼の姿の彼は白に近い灰色の毛並みをしているから、濃い色が似合うかな。赤とか紺色とか……ああでも意外と、可愛らしいピンクや水色でもいいかもしれない。
白っぽい立派な毛皮にはどんな色でも似合いそうな気がして、思わずにやにやと頬を弛ませる。レタルがそんな俺を見て、ちょっと嫌そうに顔をしかめた。
「……あのな敦、あんまり可愛いのは選ばないでくれよ? 人間の姿になっても、首輪はついたままなんだぞ……」
「……あ」
「いま、完全に忘れてただろ……愚かな人間め、成敗してやる」
ぺし、と、後ろ足が俺の膝を蹴る。固めの肉球が当たって気持ちいいだけの弱めのキックの後、レタルはころんと転がって俺に背を向けると、瞬く間に人へと姿を変えてみせた。
素っ裸で耳と尻尾が生えた青年の姿になって、伸びするついでにもう一度、俺に蹴りを食らわせる。二度目の蹴りは手加減なしで、かなり痛かった。
「痛ってぇ!?」
「自業自得だ、ばかめ」
悲鳴を上げる俺を見下して、レタルはふんと鼻を鳴らす。
「よく見てみろ。この姿の俺にかわいい首輪、似合うと思うのか?」
床に座り込んだレタルがさあと両手を広げて見せるので、俺はまじまじと彼を観察してみた。
彫りの深い端正な顔立ち、たてがみめいて波打つ髪。厚みのある胸板に筋肉質な長い手足をしていて、身長だって俺より高い。狼の姿の時ならまだしも、この大理石の彫刻みたいなきれいな生き物に可愛い首輪を着けさせるのは…見てみたい気もするけど…確かにちょっと、恐れ多いな。
「ごめん、よくわかった。首輪は黒にするよ」
「そうか、わかればいい。ゆるす」
どやっとした顔でレタルが頷く、彼の言うことは間違っていない。が、フカフカモフモフな狼の姿で散歩に出掛けるならなんか……ちょっと可愛さを演出してみたいと俺は思うのだ。
うちの子は綺麗で可愛いんだと、遠回しにでも自慢したい……そんな気持ちを捨てきれない。
「リードはちょっと可愛いやつにしたいな。持つのは俺なんだし、そっちならいいよな?」
「む……」
俺はうんうんと頷いてみせながら、妥協案を出してみる。返ってきたのは渋い、でもまんざらでもなさそうな微妙な顔。
「……まぁ、ゆるす。ちょっとヤだけど」
少しばかり考えた後、レタルは微妙な顔のままで承諾してくれた。俺はわーいと両手を上げ、早速パソコンに手を伸ばす。勿論、近隣で品揃えのいいペットショップを探すためだ。
「あれ? なんだ、今日はエッチ、おあずけか」
レタルが背後で残念そうな声を上げているが、いつもの流れでセックスしたらそのまま寝てしまいそうだ。調べものができなくなるのは困る。
しぱらく俺の背中を眺めた後、レタルは狼の姿に戻ったようだ。もぞもぞと落ち着く場所を探し、寝そべる音がする。
続けて聞こえる細い溜め息。寂しそうな様子に胸が痛んだが、元はと言えば彼の我儘が発端なのだ。今日は我慢してもらおう、ちょっと可哀想だけど。
俺は無言のままパソコンを操作し、いくつかの店舗をリストにして印刷しておいた。自慢にもならないが、事務員の俺にとってこの手の操作はお手のものだ。
プリンターが稼働する音に反応して、レタルが耳をぴくぴくと震わせている。待ってろよレタル、遅くても来週までにはお前に似合う首輪とリードを用意するから。
そしたら一緒に散歩に行こう、いつでも何度でも、夫婦水入らずで。