猛暑
彼女と出会ったのは暦436の年の14の月、空が火を吹く様な日々の中だった。
共に身寄りのない僕らは病院のロビーで会った。病院と言っても機能しているのは都会の中枢の大病院くらいだったので、僕らがいるこの病院に医者はいなかった。いるのは僕らのような帰る家を持たない者達だけ、身寄りのないものばかりだ。容貌がそのまま浮浪者の者も子連れの若い夫婦も老人もほとんどの者が荷物さえ持っていないような状況で、しかし彼女は一際目立っていた。今の時代に自殺志願者としか思えないような服装でどこか飄々とした雰囲気を醸し出している彼女はとても異様だった。
ここも他とさして変わりはなく、防護服を着た人がほとんどだがそれ以外の者も厚着をして日に当たらない様に身を守っており、僕もその中の一人だった。
この時代に軽装でいられるのは日光が限界まで遮断されたシェルターの中くらいで、まして日の元に肌を出すなんて考えられなかった。だからこそ彼女のその服装に僕は必要以上に戸惑ってしまった。
初めて話しかけられた時、彼女は名前を教えてくれと言った。僕は答えてから少し後悔して、そっけない態度で関わらないでおこうと思ったのだが、彼女はひたすら僕にだけ話しかけてきた。
僕は一人でここに入ったため、他の身内で固まった人々と違い、いつも一人で居たせいかもしれなかった。
彼女は僕に旧時代の夏をただ語っていた。焼けるような日差し、人々の歓声、冷えた麦茶、真っ青な空、夜空に咲く花。今の時代に誰もが願った昔は、とうに失われたものばかりだ。
楽しさが滲む様な内容とまるで食い違う様に淡々とした声、それに同調する様に彼女はいつだって無表情だった。そんな彼女の話を聞くうちに、これは僕に話しかけているのではなく独り言なのではないかと少し思った。僕が相槌を打たずとも、彼女は何も気にする風もなくただただ言葉を溢し続けた。
彼女は外に出たがっていたのだろう。僕に話しかけている時もそうでない時も、彼女が見ているのは窓の外、建物の外のほの汚い空気、汚染された大気で満たされた風景だった。そのことに気づいてからはずっと、彼女はいつか外に出てしまうような気がしていた。
そしてきっと彼女は死ぬのだろう。それだけのことくらいしか僕には分からなかったけれど、恐らくそれだけは確かだった。
案の定彼女がそれを実行したのは、僕と出会ってからほんの数週間の後だった。
こんなところにもまだ警備はいたようだった。誰も居ないと思い込んでいたせいで何も言い訳を考えていなかったのだが、彼女は僕が警備の人と言いあっている内にいつの間にやら外に出ていた。慌ててその後を追ったのだが、警備の人は小さく舌打ちをしたきりで外にまでは追ってこようとしなかった。
野暮ったい防護服を病院にいた人に無理言って借りていた僕と違い、外に出ていった彼女は旧時代の夏服を着ていた。真っ白の膝丈のワンピースが灼けるような風にはためく。頭に乗せられた赤いリボンを巻いたつばの大きい麦わら帽子が熱気に揺らぐ。水色のビニールサンダルは地面に触れるたび溶けるようだ。そして日焼け止めなんてものを、もしかすると塗っていたのかもしれない。そんなもの意味が無いくらいに、白く病的な肌は殺人的な日光に晒されていく。
元々人が外に出れるような状況ではないのだ。彼女の肌にはあっという間に火ぶくれができて、防護服を着ている僕でさえも息が詰まりそうなほどの熱は延々と降り注ぐ。
思わず蹲る僕とは違って、彼女はやはり微動だにしない。何処か遠くを澄んだ目で見つめる彼女が何を見ているのかは、彼女の話を聞き続けた今では何だか少しだけ分かるような気がした。
たぶん彼女は何も見ていないのだろう。彼女が見ているのは今この時代ではなくて、おそらく彼女の中にしかない、彼女だけが思う旧時代の、眩しい鮮やかな色彩の海だ。
僕はそんな彼女を見て、僕にもそんな大切なものがあればいいと思って、少しだけ、初めて彼女が羨ましく思えた。早く助けなければと思う反面、何と無く助けてはいけない気がして、それでも彼女の赤く焼け爛れる肌から目を離す事はできず、いつの間にか僕は泣いていた。それがむせる熱気のせいだったのか何だったのかは、今も分らないけれど。
そして彼女はゆっくりと落ちるようにその身を崩し、目覚めることなく死んでいった。
僕はどうにか這って病院に戻ろうとしたけれど、途中で意識を失ったようだった。
僕はいつの間にか病院にいて、その看病してくれていた人に聞くと警備の人が連れて来てくれていたらしい。
看病してくれていた人は僕に防護服を貸してくれていた人で、聞くと彼女のおじだった。
彼女は初期の段階で親と兄弟を亡くしていた。親兄弟のいた建物が崩壊した時、彼女はこっそり外に出ていたのだ。
一人助かった彼女はしばらくは近所に暮らすおじの元に居たが、ついこの前の避難指示でここに来たのだと言う。あの苦し紛れに行政の出した避難指示は、余計に人々を混乱させ多くの人を犠牲にした。
そもそも全員を収容できるような施設がないのだ。けれどそれに逆らえるほどに余裕のある人もまた居なかったのだった。彼女とおじ、そして僕も運の良かった内の一人だった。
彼女の父親は昔のことを調べるのを趣味にしており、彼女はその父親ととても仲が良かったらしい。彼女が話していたことは父親の受け売りなのだろう。彼女のおじが言うにはそれを家族とのただ一つの接点だと思い込み抱え込んで来たのではないかということだった。
けれど僕にはそれだけでなく、彼女の純粋な憧れが彼女をそうさせたのではないかと思ったが、言わずに思うだけにしておいた。
そんな話をした何日か後に、またある程度の外出が可能になった。僕は彼女が死んだ場所を見に行ったが、蒸発したのか片付けられたのか彼女は跡形もなく消えていた。
ちょっとした虚無感のようなものを感じて、僕は彼女と一緒に死んでも良かったのかもしれないと思った。
それからほんの一年後、あらゆる人工物が耐えきれないほどに日光は照り輝き、人はついにそれに対抗する術をなくした。地上は荒野とも言える荒れ野のようだった。
もうどうしようもないのだ。僕は彼女を見習い外に出たかった。どちらにしろ死ぬしかなかったから。
しかしただでさえ熱されたような室内から出る出口はもう無かった。僕は他の大勢と同じように飢えと渇きで死ぬ他無かった。苦しさの中にちょっとだけ寂しく思って、僕はやっぱり、少しだけ泣いた。
彼女の存在は僕の中で今一番大きなものになっていた。
僕が息を止めるその瞬間、建物の崩壊する音と悲鳴が響く中で、微かに聞こえたのは、きっと僕にだけ聞こえたのは、彼女の望みが産声を上げ花開く音だった。
全ての破滅と終末を