9、幻影
ホームルームが終わって放課後は3時30分から始まる。
4時半の下校30分前のアナウンスを聞く頃、指先のしびれは腕をさかのぼって全身を浸食し、大翔の意識はぼうっと頭の中まで濃い霧が立ちこめたように白濁していた。
ふと気付くと視界がずいぶん暗い。いつの間にか空を真っ黒な雲が覆ってしまったのかと思ったが、窓の外は変に明るかった。
図書館の中だけが妙に暗い。
いっしょに本を読んでいる珠桜、万里、貴代美の姿まで、妙にしんとして、暗い影に見えた。
暗いなあ、どうしたんだろう、と惚けた頭で思っていると、ふいに強い臭いがした。
湿った、葦の群生した沼地の臭いだ。
空気が湿って、重い。
重い空気が揺らめいた。自分は水中にいて、大きな魚か何かがひれを振って泳いでくるようだ。
ぼうっとした暗い視界の中、入り口のガラスのドアをすり抜けて、黒い影が入ってきた。
フード付きのマントを頭からすっぽりかぶった大きな人のようなシルエットだが、真っ黒で、不確かで、どのような人物なのか内容を知ることは出来ない。
真っ黒な影のような人らしき物は、図書館を歩いてきて、大翔の前、貴代美の背後を通り過ぎていこうとして、何かに気付いたように立ち止まった。
フード?のせいか頭から肩までひどくなで肩になって判然としないが、人らしき物は大翔の方を向いたようだ。
真っ黒な、中身の分からない顔がじっと自分を見ているのを感じる。
なで肩が動いて、体全体がこちらを向いた。
改めてずいぶん背の高い人物だ。
それが腰を折って、ぬうーっと顔を大翔に近づけてきた。
「国生君」
声にはっとすると、視界がパッと明るくなった。
いつも通りの図書館だ。
「大丈夫?」
声をかけてきたのは珠桜の向こうの万里だ。
「あ、別に、なんでもない」
向かいの貴代美がニヤリと笑みを寄越した。
「無理な本を読んで、居眠りしてたんじゃないの?」
「うっせーな」
怒りながら大翔自身、
(夢だよな。力を奪われて、半分眠ってしまっていたぜ)
と思った。
「時間だよ?」
言われて気がつくと「新世界より」が流れていた。半分どころか、すっかり眠り込んでしまっていたらしい。
「じゃあ、お先」
貴代美は一人さっさと出て行って、一度残り三人でいっしょに図書館を出かけた万里も、
「あ、わたしちょっと図書委員で打ち合わせしていくから、お先どうぞ」
と引き返そうとした。大翔は自分たちに気を使っているなと思い、照れくさいような、一人仲間はずれにして悪いような気がして、呼びかけた。
「あのさ、万里。本、しばらく借りててもいいか?」
朝も訊いた質問だが。
「しばらくっつーか、読み終わるまでかなりかかっちゃいそうなんだけど……」
「いいよ」
万里はにっこり笑って言った。
「好きなだけどうぞ。わたしの部屋、本で溢れちゃってるから」
「おまえらしいな」
大翔は笑い、なんとなく話が切りづらく、話題を探して、つまらないことを思いついて訊いた。
「そう言えばさ、図書館って、なんで図書館なんだ? 館って、建物のことじゃねえか? 部屋なら、図書室じゃないか?」
「それはね」
万里は大好きな職場を自慢するように嬉しそうに解説した。
「図書館というのは学校図書館法で定められた名称なの。小中高校には図書館を設置しなくてはなりません、っていう。だから施設の形に関わらず、図書館はみんな図書館と呼ぶのよ」
「へえ」
と言いつつ、特に感心するほどの話でもなかったが。
「分かった、お前の将来の夢って、図書館の司書になることだろう?」
「えへへー、バレバレ?」
照れて頭をかきたそうにする万里を大翔は微笑ましく思った。そう言えばここの司書は、30半ばの地味な女性だが、自分が本を読むのに忙しいらしく全然図書館で見かけない。委員に、と言うか、万里に図書館を任せきりで、困った司書だ。
大翔が立ち止まったのは、学習室で受験勉強していた3年生たちがぞろぞろと出口に向かっているからというのもあった。
その中に梅貝の姿もあった。梅貝はうつむきがちの陰気な顔で珠桜を盗み見るようにし、ちらりと嫉妬を含んだ視線を大翔に投げ掛けて出て行った。大翔が自分の忠告に従わずにいることに不快感を持っているのかもしれない。
あらかた3年たちが出て行き、話もいいところ切りがついたなと思い、
「じゃあな。図書館大好きもいいけれど、委員の仕事はちゃんとみんなで分担してやるんだぞ?」
釘を刺すように言い、
「はあーい」
と反省はしていない様子で明るく答える万里に軽く手を振って、大翔は歩き出した。珠桜はちょこんと万里に頭を下げて、大翔に続いて学習室の出口をくぐった。
金曜日、これで学校の1週間が終わった。
藤堂高校は隔週で土曜授業があったが、今週はこれでおしまいだ。
自転車置き場で珠桜と密やかなキスを交わし、
「今週は用があるんだけど、今度、デートしようか?」
と誘った。
「はい!」
と心底嬉しそうな笑顔を見せる珠桜に、大翔は黒い魔力で彼女の心を我が物にしている後ろめたさを感じながら、それでも決して彼女を手放したくはなかった。
可能ならば、黒い本の謎を解き明かし、その魔力を完全に自分の物に出来ないか?
そう野望を抱き、その為に、この土日は調べ物に当てなければならない。