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8、迷い


「はい、どうぞ」

 朝、ホームルームが始まる前に、教室に入って来た万里が昨日約束した「神曲」の文庫本を持って来てくれた。

「あ、サンキュー」

 受け取った大翔だったが、驚いた。本は3冊あった。しかもそれぞれかなりの厚さで。

「そっか、文庫だと分冊になるんだ?」

 3冊合わせた厚さに、いったい自分はどれだけの物を読んでいるふりをしていたのかと内心青くなった。1冊ずつ文庫にしてはけっこうな値段で、書店でこの3冊を見たら絶対買わなかっただろうなとも思った。

「これ、しばらく借りててもいいか?」

 今日は金曜だ。今週は土曜は休校で、丸2日間予習の時間がある。もっとも、とてもじゃないがずうっとこんな物読んでいられないが。

「うん、どうぞ。わたしはもう読んでるから」

 これを全部読み通したなんて、その読書好きを空恐ろしく感じながら、話の方向を変えた。

「もしかして、今も図書館?」

 そういえば朝も図書館は開いていたのではなかったかと訊いた。

「うん、そう。朝は嫌がる人が多いから、わたしが当番受け持ってるんだ」

「そうなんだ。でもまあ、たいがいにしておけよ?」

 万里の人の良さにつけ込んで図書委員みんなが面倒な当番を押し付けているのが容易に想像できて言ってやったのだが、

「平気だよ。わたし、どうせ当番でなくても図書館行くから」

 と、当の本人がまるで分かっていない。

「あっそ。お前も本当に好きだなあ」

 こうなっては本人の気持ちを傷つけないように褒めてやるしかなく、

「読書馬鹿よねえ」

 と、本人も頭をかいて笑い、本鈴が鳴ると、

「じゃあねー」

 と自分の席に帰って行った。


 休み時間に文庫の第1巻「地獄篇」をぱらぱらめくってみて、大翔は本当にめまいを感じた。

 万里が持って来てくれたのは割と最近の新しい口語訳の物らしかったが、それでも詩の形式の文章はその内容がすんなり頭に入ってくる物ではなく、この大著を「読んだ」と胸を張って言えるようになるまで、かなりの努力を必要としそうだ。

 今の段階では、


 ダンテの「神曲」は、


 地獄篇

 煉獄れんごく

 天国篇


 から成り立っていて、文章は全て三行詩で書かれているらしい、というところか。


 とてつもない宿題を課された感じの大翔は、黒い本が「ダンテの神曲」である意味はあるのだろうか?、と、早くも逃げ出したい気分になった。



 藤堂高校では早弁する者が多い。

 昼食は給食ではなく、各自用意して食べ、午前の授業が終わると特に昼食タイムというのは設定されずに1時間15分の昼休みになる。このまとまった時間を有効に使おうと、体育館やグラウンドにスポーツしに行く者、外へ遊びに行く者、文科系クラブの部室でパソコンのゲームをやる者、それぞれ目的のある者は3時間目の終わり、10分間の間に弁当をかっこんで終わらせてしまうのだ。

 そうした者は男子が大半だが、少数女子にもいる。

 万里がそうだ。

 恥ずかしそうにこそこそと、コンビニの菓子パンをかじって、パックの野菜ジュースで流し込んでいる。


(あいつもけっこう浮いてるよな)


 と、改めて同類に気付いた大翔は、本を借りた礼もあって彼女の席に向かうと話しかけた。

「おまえ、もしかして昼休みも図書館当番なのか?」

「うん、実はそう」

 さすがに気まずそうに苦笑した。大翔は呆れて説教の一つもぶってやろうかと思ったが、余計なお世話かと思い直してやめた。

「それはともかく、もう少し栄養のある物食ったらどうだ?」

 万里の主食は食べやすそうな甘い系の菓子パン1つきりだった。

「いくら本ばっかり読んでてても育ち盛りなんだから腹減るだろう?」

「実は、こそこそ間食してます」

 万里は証拠を見せるように机の脇に下げたトートバッグを取り上げて口を開いた。中には女の子の好きそうなチョコレート系のお菓子がいくつか入っていた。大翔はますます呆れて言った。

「そんなもんばっかだと、美容にも悪いんじゃねえか?」

 それともものすごい量の活字を読み込んで、脳でみんなカロリーを消費するからかまわないのかなあ?と考えていると、えへへと笑いながら万里は言った。

「わたし、ルックスは手の施しようがないから、あんまり気にしてもしょうがないんだよねえ」

「そんなことないだろう」

 流れの勢いで反論したものの、こうして近くで見ても、確かに異性としての魅力は感じない。しかし、

「なんだ、おまえ、けっこう肌きれいなんだな」

 と、女子の中にはけっこう美形でもニキビが目立ってマイナス印象の子が多いが、丸顔の万里は、つるんと、白いきれいな肌をしていた。

 温室栽培だからなあ、汗もかかないのか、と冷静に思っていると、万里の丸い頬がぽっと赤くなって照れた。

 面白いなあ、と大翔は思った。


(やっぱこいつも女の子じゃん)


 すっかりモテ期に入った大翔は寛容な気持ちで否モテ系女子を眺めた。

 思った以上に照れている万里を眺め、変な雰囲気になるのも困るで話を変えるためにも聞いた。

「おまえ、これ何て読む?」

 胸ポケットから生徒手帳を出し、メモを見せた。


 音玄能身久遠


 例の、取りあえずこれだけ書き出せる黒い本のタイトルだ。

 梅貝先輩に言われてあの後改めて挑戦してみると、確かに、本文の文字も漢字だろうとは思うのだが、それを覚えて書き出そうとすると、まるで文字として成立せず、ペンを握る手が震えてしまうのだった。

 メモを見た万里は、

「素直に音読みすれば、おんげんのうしんくおん、かなあ? 訓読すると、おと、くらく、み、永久となる、……といった感じかなあ? これ、何?」

「いやあ……」

 大翔は困り、質問を重ねた。

「もっと平たく、どういう意味だろう?」

「そうねえ……」

 万里はメガネの奥で目を賢そうに静かにした。

「暗い音……幽玄な鐘の音のような音が、聞く者の身を永遠の物にする、ってところかしら?」

 文字を真剣に見つめていた目が、ふと日常の教室に戻って来て、

「で? 何なの?」

 と、興味津々に大翔を見た。大翔は、ま、いいか、と正解を教えてやった。

「それはな、ネクロノミコン、って読むんだよ。知ってるか?」

「ネクロノミコン……」

 万里は文字をたどり、ああとうなずき、笑った。

「そうか、ネクロノミコンね。はいはい、クトゥルフ神話ね」

「なんだおまえ、そんな物まで読んでるのか?」

「うーんとね、まあ、いくつか。あんまり面白くなかったけど」

 万里は申し訳ないように苦笑いした。大翔は1冊も読んだことはない。

「じゃあ、そのパロディー? クトゥルフ神話の場合パロディーとは言わないのかな?」

 大翔は万里の言わんとするところがよく分からずに眉を寄せたが、そこでチャイムが鳴った。

 4時間目は大の苦手の数学だ。


「それじゃあこの問題を……」

 マスクマンはお得意のスタイルの、問題を4つ黒板に書き出し、代表者4名に解かせるべく指名していった。

 1問、マスクマンは迷って、

「君、やってみるか?」

 と大翔に訊いた。

「前回の内容が理解できていれば簡単な応用問題なんだが……」

 その前回の問題で大翔はおおいに手こずって先生初めクラス全員のひんしゅくを買ってしまった。

「はい」

 大翔は立ち上がって前に出た。

 チョークを握って問題を眺めると、すらすらと手が動いた。

「よし、正解だ。ちゃんと勉強してきたな」

 マスクマンは賭けに成功して誇らしそうに微笑んだ。

 大して難しい問題でもなくクラスでは誰も驚きはしないが。

 当の大翔本人だけが驚いていた。予期していた結果ではあるのだが。

 問題を解いた本人が、どうして解けたのか理解できていない。

 脳が勝手に働いて、勝手に解いてしまった。

 別の誰かが、キーボードを操って自分の脳を操作したみたいだ。

 それとも、自分の知らない間に勝手に高度な数式を解くプログラムがインストールされていたような。

 梅貝と同じだ。

 大翔の脳も黒い本を読んだお陰で能力が飛躍的に上がったらしい。

 だがこれは黒い本の魔力に依る偽りの実力だ。



 昼休み、放課後と、大翔はけっきょく図書館で黒い本を開いていた。

 三方を女の子に囲まれたハーレム状態。まったく、夢のようだ。

 放課後は別の委員が当番の万里は、

「やっぱり読むんだ?」

 と、大判の文学全集の「神曲」を開く大翔に苦笑した。

 本を読むのに、ちょっとしたこつをつかんだ。

 ページを押さえてページ全体を見ると一気に血を採られて痛みがひどい。指先で行をたどり、一字一字文字を浮き上がらせていくと痛みもさほどではない。だんだんしびれがひどくなって感覚がなくなっていくが。

 暗く赤い光で浮き上がる文字を眺めながら大翔は考えていた。

 いつかふとこの魔力が消えてしまうことを恐れながら、こうして読むことをやめられない。

 数学の問題が解けたことも、悔しいが珠桜とのファーストキスだって、この本の魔力のお陰だろう。

 そうやって甘い餌で釣って、手放せなくさせて、この本はいったい俺に何をさせようというのだろう?

 この先に大きな黒い穴がぽっかり開いていることを予感しながら、大翔はその運命から逃れようという気力を既に奪われているのだった。

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