6、本の謎
うめかいは勉強道具をまとめると、物問いたげな視線を大翔に残して図書館を出て行った。
「俺、ちょっとトイレに行ってくる」
大翔も後を追って図書館を出た。
図書館は2階にある。A棟、B棟を結ぶ渡り廊下から外へ飛び出す形で、生徒玄関の上にある。
うめかいは渡りの廊下の端に、窓から中庭を見下ろしながら立っていた。
大翔は近づいていった。
「サンキュー、と、礼を言うべきなのかな?」
うめかいは視線を大翔に向けると、ちょっと気取ったような口調で言い、自嘲した。
「俺、2年C組の国生って言います」
「俺は3Bの梅貝だ」
よろしく、という意味なのか、口の片端で笑いかけた。
目に怯えたような色が見て取れ、緊張の臭いが鼻についた。
しばしお互い腹を探り合うような沈黙があり、大翔が単刀直入に訊いた。
「梅貝先輩には、あの本が見えていたんですよね? その、黒く」
「ああ。真っ赤に光った文字も見えたよ。すげえな、あんなに光ったのは初めて見た」
えっ!?と大翔は驚いた。
「じゃあ、もしかして、先輩は以前にもあの本を見ていたんですか?」
「ああ」
梅貝は優位に立ったように得意そうな顔になった。
「夏休み中にな。勉強の気晴らしに図書館に入って、黒い背表紙を見つけた。赤い文字も見たよ。俺は10ページほどしか読めなかったが、君は50ページくらい読んでるのか?」
「とんでもない。ふりだけです。俺以外にもあの本が黒く見える人間がいるのかなって探るために。10ページって、実際に読んだんですか?」
「読めはしねえよ」
梅貝は苦笑いし、ぞっとした顔で開いた右手を眺めた。文字を浮かび上がらせるための痛みを思い出しているのだろう。
「思い出せるだけ書き出して調べてみたが、まるで文章として読めねえ。そもそも普通の漢字じゃねえ、少なくとも現在日本人が使っている漢字ではなかった。それに変なんだ、片手で文字を浮かび上がらせて片手でノートに書き写そうとしても、なんか、頭の中がバラバラになってつながらねえんだ。まるで文字というものをすっかり忘れ去っちまったみてえにな。頭の中身がきしむみたいに、すげえ気持ち悪かったよ」
梅貝は再びぞっとしたように憮然とした顔になった。
「俺が思うに、あの文章は漢文じゃあねえ。多分、音をそのまま当て字したメモだ。仏教の経典みたいなもんだ、インドのサンスクリット語をそのまま当て字した呪文みたいな部分があるだろう?」
そう言われても大翔は分からず、さすが腐ってもこの学校の受験生だなと感心した。ピンと来ない大翔に梅貝は苦笑いし、
「勉強しろよ。ま、お互いにな」
と後半はため息つくみたいに言った。気を取り直すように。
「ま、意味が分かるっていやあ分かるのは、タイトルだけだな」
「あのタイトル、分かるんですか?」
音玄能身久遠 という、意味不明、読み方不明のタイトルだ。
「ああ。有名だぜ?」
梅貝はニヤリと意味ありげに笑った。
「おんげんのうみくおん。ネクロノミコン、さ。聞いたことあんだろう?」
ネクロノミコン。
確かに、聞いたことがある。あれは、何か悪魔系のRPGの中だっただろうか?
確か…………
「ま、この世で最も有名な魔導書だろうな。本物かどうかは知らないけどな。ラヴ・クラフトの『クトゥルー神話』だよ」
何となくは分かるが、それもあまり興味はなく、よく分からなかった。
しかし……
「でも、あれは本物の……魔力を秘めた本ですよねえ?」
よく分からないが、クトゥルー神話というのはそのラヴ・クラフトという作家の書いたフィクションだろう? ネクロノミコンはその中に登場するアイテムで? 現実に存在する「音玄能身久遠」は、本当に「ネクロノミコン」と読むのだろうか?
今ひとつ納得のいかない顔の大翔に梅貝は面白そうに言った。
「ま、自分で調べてみるんだな。
その正体は置いておくとして、あの本が特別な力を持った魔法の本だということは、俺も君も納得だよな?
俺はなんとか10ページほど読んで、その恩恵を受けた。
さっき、奴らが言っていたのが聞こえただろう? テストでいい成績とか、カンニングとか…………
俺は落ちこぼれさ。この学校のレベルに付いていけねえ」
大翔は身につまされて、「音玄能身久遠」は落ちこぼれ生徒にだけ見えるのか?と嫌な気分になった。
「俺は夏休み、学習室に受験勉強に通っていて、気分転換に図書館で本を眺めていて、黒い本を見つけた。
黒い本は痛みと共に……、おそらくは血を吸って、赤い文字を浮かび上がらせる。
文字そのものは読めないが、その文字は見る者に特別な力を与える。
君はさっき、魔力を使ってあいつを退散させてくれたな?
俺の場合は、急に頭が良くなった」
梅貝はニンマリ笑い、そして、すぐに暗い顔になった。
「頭がびっくりするくらい冴え渡って、お陰で全国模試でびっくりするくらい上の成績を取れた。教師にもよく勉強したなと褒められたよ。俺は有頂天になった、あの本さえあれば、血を吸われる痛みさえ耐えれば、難関志望校に受かるのも楽勝だってな。だが…………
本は消えてしまった」
梅貝はいろいろな感情の混ざり合った表情を見せた。
「本が消えると、俺の冴え渡った頭も、元のぼんくらに戻ってしまった。ちょうど1週間くらいの間だったな。お陰で2学期が始まってからの授業ではさんざんさ。あの模試の順位はなんだったんだ?ってな。カンニングしたんだろうって疑われるのも当然だよな。俺は再び魔力を得るために必死に本を探しまわったよ。だが、見つからなかった」
「あの本は、本当は……」
「ダンテの『神曲』なんだろう? 知ってるよ」
梅貝はがっかりしたように言い、再び複雑な顔で大翔を見た。必死に探し求めた黒い本が再び現れたのだから当然だろう。
「黒い本は本来のダンテの『神曲』に戻ってしまった。俺にとってはまるで悪夢さ。いっとき甘い夢を見させておいて、あっけなく取り上げやがって。俺に残ったのは惨めさだけだ」
これまた大翔には分かりすぎるほどよく分かって、気がめいる思いがした。
では、今黒い本も、いずれまたただの本に戻ってしまう可能性があるのか?
大翔は悩みながら梅貝に訊いた。
「先輩、どうします? 俺、自分一人ではとても本を全部なんて読めやしないから、同じように黒い本に見える人と協力して解読できないかって思っていたんですけど……」
「大勢で協力してか? 俺にその発想はなかったな」
梅貝は大翔を眺めて感心した。
「俺、友達なんていねえからさ。いいな、君は」
またもグサリと胸に針の刺さる思いがした。この人が自分の1年後の姿そのもののように思えて来た。
「ま、そんなわけでさ、俺はもうやめておくよ」
梅貝は未練を断ち切るように頭を振って、じゃあな、と大翔に背を向け、そのまま突っ立つと、今一度振り返って言った。
「体験者からの忠告だ。あの本には関わらない方が身のためだ。血どころか、身まで食い尽くされてしまうぜ? あの本は、呪われた本なんだろうぜ」
梅貝は自分自身の後悔を見せ、重そうな体で、すっかり疲れてしまったみたいに力のない歩き方で去っていった。
忠告通り本とは縁を切る方が賢いんだろうな、と大翔は思った。