5、黒い力
ハーレム状態の読書会を心地よく味わいたいところだったが、本を押さえる指先のチリチリした痛みが邪魔していた。
くそ、いっそこんな気味悪い本放り出して、このせっかくの幸運を甘受しようか。
そう思っていた。
雰囲気の重くなってしまった図書館に1、2年女子たちは寄り付かなくなり、逆に本当に本が読みたい男子生徒やメガネの女子がやれやれといった感じで、席に着いて本を広げたり、書架の間を借りる本や今読む本を物色していた。席は半分ほど空いていて、図書館全体で今いる人数は20ほどだった。
新たに男子生徒が硝子戸を開いて入ってきたが、珍しく3年生だった。
参考書とノートと筆箱を小脇に抱えているから、隣の学習室で席が見つからず、仕方なくこちらに自習しに来たようだ。
学習室は満席のようだった。夏の大会が終わり、部活を引退した運動部の3年生たちが本格的な受験勉強を始め、どうやら学習塾へ通う者が少ないらしいこの学校の生徒は、こうして学習室で互いに緊張感を高めながら自主学習に集中するスタイルを採るらしい。
入って来た3年生は、一番入り口に近い机に席を決め、座った。大翔から貴代美越しに正面が見える。
少しして、2人の男子生徒、今度も3年生たちが入って来た。学習室は本当に満席のようだ。
ところが、新たに入って来た二人は、『いたいた』とにやけた顔をし、先の3年生のところへ来ると、左右から挟んで話しかけた。
「うめかいくーん。一人でこそこそ勉強してないでさあ、俺たちにも勉強教えてくださいよお」
「頼みますよお、テストの成績のいいうめかい君。いったいどんな魔法みたいな特別の勉強をしてるのかなあ?」
うめかいという3年は、どうやらあまり勉強の出来る生徒ではないらしかった。話を素直に受け取れば成績優秀な秀才のようだが、……うめかいは体の大きな男子だったが、力強さは感じられず、言ってはなんだが、愚鈍という印象だ。左右から大きな肩を小突かれて、顔を赤くしてうつむいている。
左右の二人も、大翔が言うのもなんだが、二人そろってあまり優秀そうではなく、しかし小狡い印象で、気に食わない奴=うめかいをからかって残忍に笑い者にしている。
この学校でこういう光景は珍しい。
駄目な奴は無視されるのが通例だ、2年C組に置ける大翔のように。
藤堂高校のモットーは自主独立だ。
元々は江戸時代、藩の氏族を対象とした公立塾から出発したという由緒正しきこの高校は、長らく男子校で、男女共学になったのはこの20年ほどのことだ。男子は昔ながらの黒学生服だが、女子の制服はセーラー服スタイルではあるが他校の女子が羨ましがるようなしゃれたデザイナーズデザインで、髪を染めるのもパーマをかけるのも自由だ。実力主義、成果主義のこの学校は、生徒を律する校則はかなりルーズだ。派手な格好をする奴は、当然教師に目をつけられるが、それは自信があってのことだろうと見なされるし、実際実力を伴わない格好だけの奴は他の生徒から思い切り軽蔑される。派手に髪を巻いている貴代美や、髪を染めている珠桜も、それに見合った実力をこの学校では持っているはずだ。
大翔はひたすら地味な態度を取っている。
自信も、実力も、まったくないからだ。
二人の3年生はニヤニヤ笑いながら執拗にうめかいに絡んでいるが、その目つきはまるで笑っていなかった。
この学校でイジメのような恥ずかしいことをするのは、自分自身たいした実力のない連中だろう。周りから白けた目で無視されて、そのストレスに耐え切れずに
「おまえら、どうせならもっとちゃんといじめろよ!?」
と爆発してしまうのだろう。
受験勉強のストレスかもしれないが、そのはけ口にされているうめかいはたまったものではないだろう。もしかしたら図書館に来たのは学習室でこの二人を見かけてそうっと逃げて来たのかもしれない。
左右から肩を小突かれながら、うめかいはひたすら下を向いて耐えている。
大翔はつい彼に自分を重ねた。
それとも、俺はどうだ?
もし俺の下に更に下の奴がいたら、俺はそいつをこの二人みたいにいじめて、くっだらねえ優越感で憂さを晴らすか?
うつむきながら、うめかいの視線が泳いでいた。本当は誰か助けてくれるのを期待しているのだろう。
「うっめかいくう~ん」
「よっ、試験のファンタジスタ。どうやってカンニングしたのか教えてくれよお~~」
カウンターの2人の図書委員は両方1年女子だ。先輩の万里に助けを求める視線を送って来ているが、万里も相手が3年男子では怖じ気づいて注意できないようだ。この学校は伝統的に生徒間の上下関係は厳しい。
貴代美が冷たい目で大翔を見ていた。彼女にとっては背後の汚い雑音が耳障りでしょうがないらしく、整ったガラスの仮面に今にもピシリと怒りの亀裂が走りそうだ。
もし今ここに大畑がいたら……
そう思って大翔はひどく惨めな気分になった。もし今ここに大畑がいたら、相手が上級生2人だろうと正々堂々注意していたことだろう。
(どうせ俺は……)
隣の珠桜がどんな顔をしているか、ちらっとでも見る勇気もなかった。
(俺だって、こんな連中になりたくない!)
うめかいにしろ、絡んでいる二人にしろ、どっちにもなりたくなかった。
大翔だってこの学校に入学した当初からこうしたいじけた性格をしていた訳ではなかった。次第に難しくなっていく授業内容に付いていけなくなり、周りとの距離を感じ、壁を感じ、だんだんと一人の殻に閉じこもっていってしまったのだ。
ちっくしょうめ。
大翔は本のページを押さえる指先に力を込め、つい、ページをわしづかみにするようにしてしまった。
指先に痛みを感じて、ギロリと睨み下ろした。
てめえ、魔力があるんなら、あの糞むかつく二人をぶち殺してしまえ!
グサッと、図太い針が指の中を突き抜けてくるような激痛を感じ、大翔は危うく悲鳴を上げそうになった。
「イテッ!」
代わりに悲鳴を上げたのは絡んでいる二人のうちの一人だった。
「どうした?」
もう一人が驚いて訊くと、悲鳴を上げた一人は左耳を押さえて頬がひきつるように顔をしかめた。
「分からねえ、なんか飛行機に乗ったときみたいに急に鼓膜が……、あっ、いて、いてて、くそお…………」
よほどの痛みなのか、両手で左耳を覆い、沈むようにそちらへ体を丸めていった。
「だいじょうぶか? とりあえず保健室行こうぜ?」
もう一人も青い顔になって肩を支えてやりながら出口に向かい、まさかな、と気味悪そうな目をうめかいに向け、二人は出て行った。
(けっ。ざまあみやがれ)
ぶち殺す!まではいかなかったが、溜飲が下がる思いに大翔は悪魔のようにニヤリとした。
自分も指がズキズキ痛む。考えてみるとおあいこのようで面白くない。
ふと気付くと、顔を上げたうめかいが驚いた顔でまじまじと大翔を見ていた。
正確には、手元の本を凝視し、その持ち主である大翔をまじまじ見つめた。
この人、見えているのか?
広げた黒いページは、これまでと比べ物にならないほど強い光を発してびっしり赤い文字を浮き上がらせていた。