3、読書仲間
放課後。何の部活にも所属していない大翔はホームルームが終わるとすぐに図書館に向かった。
ますます陰気に薄暗く感じる奥のコーナーで黒い背表紙を眺めた。昼休みの出来事が夢ではなく、現実に黒い本は存在している。昼休みの終わりに持ち出しに失敗し、同じクラスの図書委員万里希未子に取り上げられてしまった。ここへは彼女が戻したのだろう。
右隣には「世界文学全集第2巻 ミルトン 失楽園」が並んでいる。
では確かにこの黒い本は「世界文学全集第1巻 ダンテ 神曲」なのだろう。
大翔は再び奇跡を確認しようと真っ黒な背を揃えた指の腹で撫でてみた。チクチクした痛みが感じられ、赤く光る文字が浮かび上がった。
音玄能身久遠
血を吸って現れる、呪われたタイトルだ。
午後の授業の間これをどうしたらいいかばかり考えていた。
図書館から持ち出したのでは普通の本に戻ってしまう、中身を読むためにはどうやら大量の血が必要になりそうだ、文字が浮かび上がっても全て漢字のようで自分の学力ではまず読めそうもない。
大翔は本を持つと中央の閲覧席につき、机の上に本を開き、読んでいるふりをした。
普通の人間には普通の本を読んでいるようにしか見えないはずだ。
だが、もし、自分と同じように特別の能力を持った人間がいたならば、真っ黒な、文字も何も見えない本を読んでいるように見えるだろう。
真っ黒な本を読んでいる人間がいたら、それは奇妙だろう。きっと不審な顔をするはずだ。
そういう人間がいないかと、大翔は本を読むふりをしながら周りの様子をうかがった。
放課後の図書館は人数こそ少ないものの昼休みに輪をかけて1、2年の女子たちのおしゃべりクラブになっていた。どうやらこの学校には心静かに読書しようという生徒はいないらしく、時折カウンターの図書委員に注意されてもそのときだけ声を潜めて、すぐに笑い声をたてて普通のおしゃべりに戻ってしまう。読書を趣味にする生徒もいないわけではないだろうが、進学校とはいえそこは現代の高校生たちのこと、読書の中心はラノベで、図書館にあるような本にはてんで興味がないのだろう。
まじめに本を読んでいる…ふりをしているのは自分なのに、ひどく場違いな思いがして、大翔は居づらくてしょうがなかった。
そんな思いがつい表に出ていただろうか、大翔は神経質に苛立った顔つきをしていた。
それに、本を押さえ、ページをめくる指先が、ひどくだるく感じた。そのつもりはないが自然とページを撫で、飢えた本に少しずつ血を吸われてしまっているらしい。
「あの………」
と遠慮がちに声をかけてくる女子がいた。
「すみません、わたしたち、お邪魔ですか?」
近くでおしゃべりしていた1年グループの一人だった。
「ああ、いや」
見ると、彼女の向こうで友達二人が少し怯えた顔でこちらを伺っている。どうやら大翔は自分で思っている以上に怖い顔をしていたらしい。
ここは彼女たちの放課後のおしゃべりパラダイスなのだろう。いつも楽しくおしゃべりしていたのが、無粋な上級生に邪魔されて、心中恨めしく思っていることだろう。
まいったな、と大翔は苦笑いする思いがした。
「いや、別にいいよ。どうやら邪魔なのは俺の方みたいだからな。まったくさ、数学の授業で教師にチクチク嫌みを言われていじめられてさ、それを思い出していたんだ」
「へえ、そうなんですか?」
1年女子はほっとしたようにかわいく笑った。大翔がやかましい下級生に優しいお兄さんのふりをして気さくに話しかけたのは、その女子がかなりかわいかったからだ。
明るい茶に染めた髪をツインテールにして、小顔で、リスみたいに目が大きい、ティーン向けのファッション雑誌の、トップクラスのモデル並みのかわいい子だ。
そういえば、と大翔は思い出した。昼休みにも彼女の隣に座ったのだった。空いてる席を探して座っただけだったが、なんだか気のある女の子にそれとなくアピールしてるみたいで気恥ずかしく思った。
「あの、その数学教師って、もしかしてマスクマンですか?」
「マスクマン? そうそう、マスクマンだよ」
上手いネーミングをしたなと大翔は笑い、彼女もいたずらっぽく白い歯を見せた。
(もしかして、脈あるんじゃないか?)
クラスメートたちに劣等感以外の感情を持たない大翔は、下級生に対しても『どうせみんな頭のいい奴らばかりなんだろうな』と上級生としての優位性なんてまるで感じていなかった。それなのに、
(とびっきり美少女の下級生とおつきあいなんて、夢みたいなラブコメ展開じゃないか?)
と、思いもしなかった青春の喜びへの期待が膨らんだ。
(名前、なんていうんだろうな?)
彼女の名前を聞くために自分から名乗ろうか迷った。
「あらあら、かわいい下級生と仲良くおしゃべり?」
青春ラブコメにはお邪魔虫がつきもので、小馬鹿にした笑いをたっぷり含んだ声に大翔はしかめた顔を向けた。
(こいつも、俺の劣等感を煽るナンバー2だな)
腹立たしさより苦手意識で気分がげんなり萎えてしまった。
つんとあごをそらして思い切り上から目線で見下している女子。
同じ2ーCの郷古貴代美。
クルクル巻いたロングヘアーを肩に揺らした、高級感漂う、美形のお嬢様だ。
せっかく盛り上がったラブコメ気分を台無しにされて、なんでおまえがこんなところに来るんだよ、と恨んだ。
大翔の気も知らず、それとも知ってか、貴代美は『へえー』という顔で横から大翔が机に開いた本を覗き込んできた。
「国生君も本は読むんだ?」
「うるせえな」
大翔は好きな女の子の前で馬鹿にされて萎えていた怒りがかあっとわき上がった。
せいぜい怖い目で睨んでやったつもりだったが、貴代美はまったく気がつかないようにニヤニヤ笑いを含んだ目で開いた本を見ていた。
「あなたがこの本を読むとはねえー」
大翔は一瞬、ひょっとして、と思ったが、すぐに、違うな、と思い直し、訊いた。
「何読んでるか分かるのかよ?」
貴代美は驚いた(馬鹿にした)目で大翔を見た。
「『神曲』でしょ? ウェルギリウスってあるから分かるわよ」
なんだそれは?と大翔は思ったが、真っ黒にしか見えないページは内容の確認の仕様もなく、至極当然の顔をしている貴代美に、
「あっそ。さすが博識だね」
と、一応分かったように言っておいた。
「常識よね」
と上品に微笑んでいる顔が憎たらしい。
かわいい1年女子の彼女は隣の机についていたが、ちょっと不思議そうに小首をかしげるようにして本を眺めていた。大翔の反対に立つ貴代美と目が合って、慌てて会釈するようにして顔を自分の机に向けた。大翔はますます余計なことしやがってと貴代美を憎たらしく思った。
「それで? 郷古お嬢様は図書館に何の御用でおいででしょうか? 俺をからかって馬鹿にするためじゃないだろう?」
さっさと自分の用に行ってしまえと思いながら言うと、貴代美は顔を入り口に向け、片手を腰に当て、はあとため息をついた。
「おつきあいよ。わたしがこんなカビ臭い空気のところへわざわざ来るわけないじゃない。大畑君と待ち合わせなの。先に生徒会室に用があるんですってよ」
やってられないわよ、とため息をつくポーズをとりながら、どことなく得意そうなのは、「大畑君」がお嬢様自慢の彼氏だからだ。
話をしているうちにさっそくやってきた。
「やあ、お待たせ。別につきあってくれなくてもいいんだけどな」
さわやかに右手を上げたポーズが決まっている。
(こいつだよ、俺に劣等感を抱かせるナンバー1野郎は)
大畑愛夫。
クラスメートを前に堂々
「俺は将来地元に戻ってきて政治家になる」
と宣言して、それを
「ま、おまえなら適任かな。郷土の将来を頼むぜ」
と爽やかに祝福される男。
顔の作りはまあそこそこだが、表情がクリアーに明るい。幼少のみぎりより将来政治家になるべく清く正しく鍛錬されてきた笑顔をしている。
挫折を知らず、たとえ思い通りにならないことがあっても成功への試練と思って前向きにぶつかっていく、すっかりいじけてしまった自分とは正反対の好青年だった。
「へえー、わたしに向かってそういうこと言うんだ?」
とはガールフレンド貴代美の「別につきあってくれなくてもいいんだけどな」という先ほどの彼氏のセリフへ当てつけた返答だ。
「忙しい大畑君と少しでも多く一緒に過ごす時間を持ちたいという乙女心を袖にして、ペナルティーは大きくつくわよ?」
今度は両手を当てた腰を折って、やってきた彼氏を下から睨む、気高きお嬢様が見せる甘いポーズに彼氏の大畑はこちらもマンガみたいに「まいったな」と頭をかき、二人見つめ合って微笑み合った。
なんだよ、それ、と大翔は胸がむかついた。クラス公認、学校公認の、爽やかセレブカップル様だ。
正直なところ、うらやましかった。
「あれ」
大畑が意外な物を見たみたいに大翔に目を向けた。
「国生。ふうん、読書か。何読んでんだ?」
大畑も腕組みして上から目線で微笑む貴代美の隣から大翔の広げる本を覗き込んだ。
「難しそうなの読んでるな? 何?」
大翔はインテリの恋人に絡めた嫌みを言ってやろうかと思ったが、素直に教えてやった。
「ダンテの『神曲』だよ」
へえー、と大畑は感心した。
「それって、西洋版の地獄極楽巡りの話だっけ? うーん………、なんか俺、苦手そうだなあ」
と大畑は苦笑いしつつ素直に感心した目を大翔に向けた。こういう、君は凄いなあ、と感心した態度を見せるのがまたむかつくが。
「大畑は、図書館に何の用?」
「図書館なんだから本を読むために決まってるだろう?」
と大畑は一度呆れてみせて、
「実は文化祭の弁論大会用の資料を借りにね」
と、実に立派な用件を白状した。どこまで行っても模範学生的に腹立たしい奴だ。
隣の彼女がこれ見よがしに呆れた顔をして彼氏を横目で睨んだ。
「今時そんなのネットで検索した方がずっとたくさん楽に目的の資料が集められるのにね」
「貴代美と一緒にいられる時間を作りたいんだよ」
と、さっきの愚痴のお返しにのろけて彼女の頬を赤くさせ、得意そうに本当のところを明かした。
「ネットは便利すぎて、自分の考えや言葉にならないんだよ。やっぱり手に取った活字をじっくり見ながら自分の思考を練っていきたくてね」
彼女に腰を肘で突かれて、大畑は嬉しそうに笑った。やってられないぜ、と大翔はそっぽを向きたかった。
「あのー…」
遠慮がちに声がかけられた。
「ここは図書館ですよー。お静かに願いまーす」
図らずも、という言葉は適当か、今、彼らと同じ2年C組の生徒が図書館にもう一人いた。
カウンターの向こうに座る、昼休みから引き続き当番の図書委員、万里希未子だった。