23、呪文
窓ガラスを薄氷のように弾き飛ばし、教室の木製の壁や天井のパネルをバリバリ割り、床や外壁のコンクリートさえひび割れさせ、廊下いっぱいに膨らんだ顔がグイグイ前進した。
前方にいた生徒たちは迫る怪物に悲鳴を上げて全力で逃げた。
怪物は凶暴な表情をすると、6つの肩に力を込め、腕を広げると、窮屈な通路を外へ押し出した。
コンクリートを深い亀裂が走り、廊下はメリメリ割れて下がり、坂道になった。その上を逃げていた生徒たちが後ろへバランスを崩し、足を取られ、転げ落ちた。
グワッと尖った歯の密集した巨大な口が開き、生徒たちは必死に手がかりにすがりついて恐怖の悲鳴を上げた。
怪物の目の前に銀のオーロラが楕円に揺らめき、大翔は自分の世界への帰還を果たした。
目の前の巨大な醜悪な顔を睨み、奴を自分の世界へ返す為の呪文を唱えた。
「ベブラ・ノウン!」
メリメリメリ、と天井が上の階まで裂け、丸太のように図太い腕が降って来た。
轟音と共にまるで波とうのように床のコンクリートが砕けて左右に吹き飛び、わっと白い粉塵が噴き出した。
数人の悲鳴がその中に飲み込まれた。
腕を振るってバリバリと建物を破壊しながら、怪物は進撃を再開した。
悲鳴が遠ざかり、鉄筋にぶら下がったコンクリート塊にしがみついて、舞い散る粉塵の中を大翔は這い上がって来た。
圧倒的な力に依る破壊の惨状を信じられない目で見ながら、
「ベブラ・ノウン! ベブラ・ノウン!」
異次元の扉を開くはずの呪文を叫んだ。
黒い足が踊りながら向こうの階段を下りていった。粉塵が吹き上がる。
「くそっ」
ともかく大翔は後を追って走った。
何故扉が開かない? 何か条件が必要なのか? 向こうの世界で神官たちが邪魔をしているのか? 俺じゃあ駄目なのか?
焦りの中で必死に考え、駆けながら、無惨に転がる生徒たちについ目を取られた。単純に復讐を考えていたとき、こうなるかも知れない生徒や職員たちのことなんて半ばどうでもいいように思っていた。今は心の底から後悔していた。俺は馬鹿だ。やることなすこと全て馬鹿ばかりだ。その気になれば、俺にだって明るい希望の光はあったんだ。勝手に無いと思い込んで、ひねくれて、他の奴らはみんな自分とは違うんだと決めつけていた。みんな、おんなじじゃないか。いや、俺がみんなと同じだったんだ。勝手に違うと思い込んで、決めつけていただけだ。それなのに、俺の馬鹿のせいで、みんなの光を、こんな風にぶっ壊してしまった。俺は救い様の無い大馬鹿野郎だ。
温かな心を知った大翔は泣き出したくてしょうがない気持ちで駆け、階段の無くなってしまった階段を、思い切って飛び降りた。着地しても痛みなんか感じなかった。ただただ自分の愚かさと無力さが惨めなだけだった。
怪物は腕を振るって壁を叩き割り、差し込んだ手で割れ目を破壊しながら押し開き、外へ顔を現した。
怪物は不快なわめき声を上げた。青空から降り注ぐ太陽光線が肌を焼いたのだ。
怪物は、地球の環境で自滅するのではないか?
濡れた黒から乾いた灰色へと変化していた肌が、今また青黒く変化した。外皮が蟹のように甲殻化したのだ。
新たにまとった鎧は破壊力を増して建物を爆裂させ、ガラガラと、崩れ落ちさせた。
轟音と振動に泡を食って表に出て来た近所の人間たちが、あまりの光景に絶句した。巨大な怪物が学校を破壊している。現実にはあり得ない状況に、これは夢だ、と神経が現状認識を放棄しようとしたが、体を揺らす振動、鼻に差し込む粉っぽさ、他の人間たちの悲鳴が、
「わあーーーーっ」
と、腹の底からありったけの悲鳴を吐き出させ、そこから先は、みんなパニックになって我先に逃げ出した。
倒壊しようとする建物から命からがら逃げ出した生徒、職員たちも、更に外へ逃げようと、おのおの校門やグラウンドに向かった。
校門側に逃げた者は不幸だった。
校門までの前庭に怪物が空から降って来て、数人を押しつぶし、長い腕に囲い込まれて、2人3人とまとめて口の中に放り込まれた。
地獄だった。
渦中の者たちは皆半ば気が狂いかけていた。
その中に大畑愛夫もいた。
ここまで必死に逃げて来て、ここで殺されてたまるかと、ブンブンうなりを上げて迫る腕から這いつくばり、転げ回り、集中力を総動員して逃げ回っていた。
「ベブラ・ノウン! ベブラ・ノウン! ベブラ・ノウン!」
泣きそうな顔で呪文を唱えながら大翔が駆け出して来た。
その姿がチラッと視界に入り、
「国生?」
一瞬の油断が生まれ、その隙をついて怪物の腕が大畑の背中をしたたかに打撃した。息の止まる衝撃に吹っ飛ばされたが、幸い大畑は外へ飛ばされ、大翔の前に転がった。ゲホッと咳をしながらこれをチャンスと安全圏へ走り出し、
「国生!」
と呼びかけた。
「ベブラ・ノウン! ベブラ・ノウン! ベブラ・ノウン!」
大翔はそれしか手だての無い呪文を必死になってわめき続けた。
しかし、奇跡は起きそうになく、眼前には残虐な地獄の光景が現在進行形で繰り広げられた。
「国生……。おまえ……だよなあ?……」
自分の無力に歯を食いしばり、大翔はようやく大畑に目を向けた。
大畑はまるで幽鬼でも見るように目を見開いていた。
大畑は幻を見ているように思っていた。
大翔の半身は、透明に透けていた。
大畑の驚きの目に、大翔も自分の状態を知った。
「そうか。なんだ、俺は」
黒い海へ落下していく自分が思い出された。
「死んでたんじゃないか」
万里に救い出されたのは自分の魂だったのだ。道理で、死んだ万里とちゃんとキスできたわけだ。お互いに幽霊だったわけだ。
大翔は可笑しくなって、冷静を取り戻した。
俺が幽霊だから呪文が使えないのか?
いや、そうじゃない、
あっちの世界への扉を開く為には、あっちの世界を呼び寄せる、正確にあっちの世界の言葉でなくてはならないのだ。
そう思って自分の頭の中を検索すると、ちゃんとその為の呪文が入っていた。
しかしそれは。
「構うものか。どうせ死んでるんだ、何でもありだぜ!」
大翔はその呪文を唱えた。
「カフイラ・デエデ・イントス・マアロ!」
ゴボッと、胸の奥から嫌な気体が膨れ上がり、冷たい液体がわき上がるのを導いた。
ぐえええええ・・・
たまらずに吐き出すと、皮膚がぬるっとぬめり、喉が破け、あごが縦に割れ、ミシッと骨格が変化した。
ゴブゴブゴブ・・・
肌が黒いゼラチン質に変わり、大翔は、向こうの世界の人間に変身した。
大畑が恐怖に張り裂けそうな目で見ている。
化け物に成り果てようが、大翔に後悔は無かった。後悔なんて、もうし尽くしてしまった。
今度こそ、上手く行くはずだ。
「・・・・・・・!」
ゴボゴボと、泡の弾ける汚い音を発した。それが向こうの人間の言葉なのだ。
大翔の体が青く発光した。
大翔自身が分解され、エネルギー体となり、異次元への扉になるのだ。
さあ、来い、怪物!
みんな、本当に、ごめんなさい。
大翔は自分を開け放った。
青黒く揺らめく影を、怪物は目ざとく見つけた。
あれが自分の世界への帰り道だと瞬時に悟った。
抱えていたエサを放り出し、か弱く、小さくなっていく次元の穴へ、突進した。
手の先を突き入れると、自分自身の魔力でこじ開けた。
まるでたこ壷の狭い入り口に滑り込んでいくように、巨体の怪物がスルスル異次元へ消えていった。
外では表通りをパトカーと消防車と救急車のサイレンが総動員で押し寄せて来ていた。
生き残った生徒たちは悪夢の終わりに呆然とし、思い出したように落下してくるコンクリートの音にも無反応だった。




