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19、はじまり


 3時間目の授業が終わった途端、3年生が現れて、1年B組の教室は何事かと緊張した。

「珠桜ちゃん。大事な用がある。付き合ってくれたまえ」

 チャイムが鳴り、生徒たちが椅子から立ち上がったざわめきを聞くと、梅貝はガラリと後ろの戸を開けて入って来て、まっすぐ坂本珠緒の席に来ると、その腕を掴んで言ったのである。

 見とがめた英語教師が声をかけた。

「君、3年生が1年の女子に何の用だね?」

 梅貝はうるさそうに用意して来た言い訳を言った。

「僕たちいとこ同士なんです。親戚が事故に合いまして」

「そうなんですか?」

 教師に訊かれ、珠桜は怯えた顔で梅貝を見た。梅貝は落ち着きながら、てこでも動かない調子で言い聞かせた。

「ヒロトおじさんが大変なんだ。命が危ないかもしれない。さ、急ごう」

 珠桜は目を見開き、決心したようにうなずいた。

「先生、ちょっと行ってきます」

「急ごう」

 何かおかしいと感じながら、教師とクラスメートたちは二人が急いで出て行くのを見送った。


 梅貝は珠桜の腕を掴んだままズンズン早足で廊下を進んだ。足をもつれさせるようについて行く珠桜を、すれ違う生徒たちが奇異の目で見た。

 梅貝はまっすぐ玄関へ向かった。靴も履き替えずにそのまま外へ出ようとして、珠桜は慌てて足を踏ん張った。

「待ってください! 国生先輩が、何だって言うんです? どうして外に出ようとするんです?」

「逃げるんだよ、今すぐに! 珠桜ちゃんも知ってるだろう? あいつはもう駄目だ、警告の通りだ、完全に悪魔に魅入られている。俺は見た、真っ黒な化け物たちだ。もうすぐ、やつらが何か仕出かすんだよ!」

「待って……」

 抵抗する珠桜を、梅貝は待たずに引っ張って行き、外へ出た。

 そのまままっすぐ生徒通用門へ向かおうとすると、横から声をかけられた。

「先輩。こんな時間にどこに…」

 梅貝は左手で珠桜の腕を引っ張っていた。呼びかけられた方へ体を向けつつ、右手に握っていた小石を、魔力を込め、弾丸のように投げつけた。

 大翔は手のひらを上にして右手を伸ばし、手先を下に傾けた。

 梅貝の投げつけた小石の弾丸は、大翔の手前で、反り返った丸い壁を滑るように、ものすごいスピードのまま上空へ飛んで行った。

「くそっ・・」

 梅貝は攻撃の第2弾としてマンガの気合い砲を撃つようなポーズをとった。

「やめなよ、先輩。まともにやって今の俺に勝てると思ってんの?」

 大翔に手のひらを向けられて、梅貝は額から太い脂汗をたらした。

 おとなしくなった梅貝に大翔はニヤッと笑った。

 朝、図書館から出て行く時に、学習室の奥から梅貝が様子をうかがっているのに気付いていた。足抜けしたとは言え、体内に魔力の残る梅貝にはテレパシーで昼の予定が伝わっただろう。

「いいだろう、国生? 見逃せよ? 俺はおまえらのやることには関わらねえ。邪魔なんかしねえからよ。まさかおまえ、珠桜ちゃんまで巻き添えにする気じゃねえだろう?」

「さあなあ、どうしよう? 俺から逃げた女だからなあ」

 薄笑いと共に見られて珠桜はビクッとし、大翔から、馴れ馴れしくちゃん付けで呼ぶ気持ち悪い先輩からも後ずさりながら離れた。梅貝は大いに不満そうに唇を突き出し、しかし大翔にはご機嫌を取って下手に出た。

「な、頼むよ。おまえは好きなようにやればいいさ。魔王にでもなんでもなってくれ。俺には話がでかすぎてついていけねえよ。な、珠桜ちゃんと、俺だけ、な? いいよな?」

 大翔は指を上に向けた。

「天罰覿面」

 ヒューン、と風を切る音に上を見た梅貝は、わっと驚いて横に飛び退いたが、よけ切れず、遥か上空から落下して来た自らが放った小石の弾丸に肩を撃たれた。

「ぎゃっ・」

 大翔は手のひらから魔力を放った。梅貝の体は数メートル吹っ飛び、コンクリの地面をガリガリこすって滑り、仰向けに止まった。白目を向いて、気絶している。

「きゃ・・」

 悲鳴を上げようとした珠桜に、しー、と、大翔は唇に指を立てて見せた。

 キーンコーン、と授業開始の鐘が鳴り出した。

「ここに転がしておくわけにもいかないな。面倒くせえ」

 大翔は学生服の襟を掴んで梅貝を引きずって行き、自転車置き場の自転車の間に突っ込んで寝させた。

「逃げてもいいぜ。ってより、逃げろよ」

 怯え切ってガタガタ震えている珠桜にワルぶった顔で言った。

「こいつの言ったことは本当だ。昼休みに化け物どもの祭りが始まる。どういうことになるか、俺も分からねえ。ただ、学校にいれば、ひどい目に遭うのは確実だろうなあ」

「何故?」

「何?」

「わたしを逃がしてくれるんなら、なんでその先輩をやっつけたの?」

「ああ」

 大翔は侮蔑的な目を梅貝に向けた。

「嫌いなんだよ、このぬり壁野郎。それに、こいつは俺と一緒に始めた口だからな、一応最後まで付き合ってもらおうと思ってな」

「国生先輩は、なんでそんなことをするの?」

「ふーん……」

 不機嫌そうな目を向けられ、珠桜はヒッと身をすくめた。大翔は苦笑した。

「あーあ、タイプだったんだけどなあ。俺がなんでやるか、やめないか、か。さあねえ」

 授業の始まった校舎を見上げ、ニヒルに笑った。

「俺、落ちこぼれだからさあ、クラスの奴らも、教師たちも、この学校も、みんな、大嫌いなんだよなあ」

 しばらく感慨に耽り、珠桜に目を戻した。

「このまま家に帰れ。もし明日学校がそのままだったら、また明日登校すりゃあいいさ」

 ああ、と思い出し、ポケットを探ると人工革の財布を取り出し、そら、と珠桜に放り投げた。

「迷惑料だ。受け取ってくれ」

 大翔は玄関向かって歩き出した。

 財布は正確に手の中に落ち、珠桜は取りあえずの危険が去るのを身を固くして見送った。

 大翔の姿が中に消えると、どっと緊張感が抜け、次いで、どうしよう?という思いがわき起こった。

 今自分が騒いだらどうなるだろう? 学校に「爆弾を仕掛けた」なんて電話をかけるのはどうだろう? そうしたらきっと計画は延期されて……、また明日にでも、改めて行われるだけだろう。

 あの「神曲」の本を燃やしてしまったらどうだろう?

 しかし、これから図書館に向かう勇気は珠桜にはなかった。

 鍵もかかっているだろうし、ガラスを割って侵入したら、こっぴどく怒られるだろう。なんでこんなことをしたのか理由を問われ……、「この本には魔力が宿っているんです!」なんて言って……

 誰も信じないで、ふざけているか、頭がどうかしたと思われるだろう。

 それでも、そうするのが正しいのだろうが…………

 珠桜は胸をムカムカ気持ち悪くさせながらグルグル考えを巡らせ、はあとため息をつくと、渡された財布を見た。自分もちゃんと内ポケットに財布を持っていて、帰りのバス代に困ることもなかったのだが。

 改めて考えてみても、自分が国生先輩のことをどう思っているのか、分からなかった。いっとき大好きだったのが、悪い夢を見ていたように思え、でも嫌いかと言うと、よく分からない。

 あの人、そんなに悪い人なのかなあ?

 丸ごと財布を渡すなんて、もう自分にはお金や、諸々カードなんて必要ないということか?

 いったいいくら入っているんだろうと中を改めた珠桜は、2重になった札入れの一方に千円札2枚を見つけ、一方のカード類を改め、折り畳まれたメモ紙を見つけて開いた。

「なんだろう、これ? 先輩の字じゃあないよね?」

 それはちょっと癖のある、女性の字に見えた。

 それはその通りで、それは大翔が借りた「神曲」の文庫に挟まっていた万里希未子のポエムだった。



 知性が女を美しく見せるなら

 わたしはうんと賢い女になりたい

 そしていつかあなたが人生の闇に迷うことがあったら

 あなたを光へ導く道標になりたい



 そうか……

 珠桜は何となく大翔の考えが分かったような気がした。

 やろうとしていることに賛同はしかねるが、決心が固いのなら、邪魔は出来ないだろうと。

 珠桜は残して来た友人たちに申し訳なく思いながら、門を出た。



 午前の授業が終わった。

 授業に遅れて入って来た大翔は教師にしゃあしゃあと「腹が痛くてトイレにこもってました」と言い訳した。

 教師が出て行き、教室はがやがやと騒がしくなり、友人同士席を寄せ合って弁当を食べ出し、早速遊びに出て行く者もいる。

 大翔も今週は当番ではないが、最後の晩餐ならぬ最後の昼食にコンビニの菓子パンをかじりながら廊下へ向かった。

 横目に大畑が貴代美に懸命に言い募っているのを見て行く。自分の差し金だろうとジロリと睨む貴代美の目に笑いながら。

 あばよ、雌ギツネ。おまえはせいぜい賢く美味しい勝ち組人生を送ってくれ。



 閲覧席いっぱいの生徒たちがラノベに読みふけってぼうっと半分まぶたを閉じている。

 大翔の手にある黒い本は全てのページに真っ赤に漢字まがいの文字を光らせている。

 昼休みもちょうど半分くらいになった頃、空気が赤く湿り出した。

 さあ、始めようか。

 大翔は立ち上がり、黒い本を掲げると、おもむろに声を発した。


「開け、地獄の門!」


 カウンターの図書委員と枝文司書がいったいなんのパフォーマンスかとしかめた顔を向ける。

 本が真っ赤に染まり、光を放った。

 半分まぶたを閉じてうつらうつらしていた生徒たちがはっと頭を上げ、周囲の様子に驚いてあちこち首を振った。

 部屋は真っ赤に染まり、異界になっていた。

 そして、入り口に現れた黒いマントたちに悲鳴を上げた。

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