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18、時来たり

 土日と大翔は県立図書館に通ってミルトンの「失楽園」を読んだ。

 作者ジョン・ミルトンは17世紀イギリスの詩人。

 「失楽園」は旧約聖書の「創世記」を元にした壮大な叙事詩でありダンテの「神曲」と共にキリスト教文学の代表作として知られる、ということだ。

 内容を噛み砕いて意訳すると、



 天上で神の覚えめでたい最高位の天使サタンは、思い上がって神に反逆を企て、軍勢を率いて戦いを挑んだが、手ひどい敗退を喫し、仲間の天使共々地獄に落とされる。

 地獄に落とされた天使たちは再び神への反撃を議論するが、神が新しい世界「楽園」を創造し、新しい生き物アダム(とその妻イブ)を創造したことを知り、この新しい世界を支配して神への仕返しとすることを決める。

 リーダーのサタンが自ら偵察に赴く為、地獄の門を破り、宇宙を旅し、楽園(地球)に到達する。

 サタンはアダムとイブを堕落させる為、まずイブに夢で語りかけ、夫アダムから引き離し、蛇となって姿を見せる。言葉をしゃべる蛇に驚いたイブは、蛇であるあなたが何故言葉をしゃべることが出来るのですか?と訊ねる。サタンである蛇は、それは禁断の実を食べたからである、蛇の自分がしゃべられるようになったのだから、人間であるあなたが食べれば神にだってなれるでしょう、と誘惑し、その誘惑に乗ってイブは禁断の実を食べてしまう。

 イブが神に禁じられていた禁断の実を食べてしまったことを知ったアダムは驚き嘆きイブを責めるが、愛するが故、自らも禁断の実を食べ、同じ罪を背負う。

 人間を堕落させることに成功したサタンは意気揚々と地獄の仲間たちに成功を報告に帰るが、神の呪いに依って全員蛇にされてしまう。

 罪人となったアダムとイブは楽園を追放される。



 といった感じだ。

 ちなみにサタンは冒頭から地獄に落とされ堕天使サタンと呼ばれるが、天上での天使であった時の呼び名はルシファー(明けの明星=金星)である。

 「失楽園」は「神曲」に比べると遥かに読みやすかった。あちらは言葉こそ民衆のトスカーナ方言であっても14世紀の形式的な詩文であり、こちらは17世紀で、叙事詩とは神話や英雄譚の物語詩で、うんと普通小説に近い。しかも前半の主人公であるサタンがかなり人間臭いキャラクターに描かれている。砕けた言い方をすれば、反逆のヒーローだ。

 「失楽園」のサタンは蛇にされてしまうという情けない終わり方をしているが、「神曲」のサタンは、地獄の中心ジュデッカの更に中心、地球の全重力が集まる一点に、三面の巨人という醜い姿で、半身をコキュートス(嘆きの川)の氷に埋め、永久に幽閉されている、という衝撃的な、かなりかっこいい大物ぶりで描かれている。


 「神曲」に比べて遥かに読みやすいとは言え、かなりの大著で、大翔の冴え渡った高速回転の頭脳をもってしても2日で全て読み切ることは出来なかった。

 週が明けて当番でなくなった大翔は、図書館に来ると、読み切れなかった「失楽園」の続きを読み出した。幸い同じ世界文学全集シリーズの1冊だった。

 ミルトンの「失楽園」は万里が死ぬ前、最後に読んでいた本だ。

 「神曲」に警告文を残していた万里が、この本にも何かメッセージを残しておいたのではないかと思ったのが読もうと思った理由の1つ。

 理由のもう1つは、腹立たしいことに、先に「神曲」を貴代美に取られてしまったからだ。卑怯にも当番の図書委員に予約して、カウンターの方に確保してもらっていたのだ。同じ図書委員で、ずうっとこの本を独占していた大翔がそれに異を唱えるわけにもいかず、後からゆうゆう来た貴代美が受け取って行くのを指をくわえて見送るしかない。

 大翔は「失楽園」を手にすると、どっかと、これまで通り貴代美の前の席に座った。黒い本から視線を上げた貴代美は本からの照り返しを受けたような黒い顔をしていた。

「あなたはもう用なしなの。つきまとわないでくれる?負け犬君」

「フン」

 大翔は貴代美の嫌みを無視して本を読み始めた。今に見ていろよ、と、まるで地獄に落とされたサタンの気分だ。反逆をあきらめないサタンは、けれど、どうあっても神にはかなわないのだが。

 さすが読書家の万里は終盤の、禁断の実を食べてしまったイブと、それを知ったアダムが言い争うところまで読み進んでいた。しおり紐がそこにあったから、きっとそうだろう。

 しかしざっと見たところ、残念ながらメッセージらしき物は見つからなかった。

 大翔は仕方なく普通に「失楽園」を読んだ。

 黒い本を手にしていなくても血がドクドクと集まって来ているのは分かる。目の前でつんとすましている貴代美が同じ快感を得ているのかと想像すると、ちょっと興奮した。彼女への支配欲はかえって増大している。

 その時はもう間近に迫っている。あと、2日か、3日。



 朝だけ大翔は黒い本を読むことが出来た。朝は貴代美が図書館に来ないからだ。

 しかし、朝は図書館に来る生徒も少なく、ラノベを読む生徒もぽつぽつとしかおらず、大翔は大半を自分の血で文字を読まなくてはならなかった。

 読むと言っても相変わらず内容なんて全く分からなかった。しかし直接文字を見る方が、その込められた魔力を確実に自分の物に出来るような気がするのだ。

 大翔はまさに血のにじむ努力をして、貴代美を上回る魔力を我が物にしようとした。


 そして水曜朝。

 閲覧席で黒い本を読んでいると、空気が赤くなり、黒い6つの影が現れた。

 6つの影は入り口で横に並び、図書館を眺めると、リーダーらしき一人が大翔の向かいにやって来て、3つ指の両手を伸ばすと本に触れた。

 本は赤い空気の中でルビーのように強烈に文字を浮き上がらせた。

 リーダーは手を放し、大翔にはそいつがひどく満足げな顔をしているように見えた。

 リーダーは大翔の労をねぎらうように腰を折ってお辞儀し、仲間たちのところへ戻ると、自分たちの世界へ帰って行った。


 いつもの2番目の時間に。


 リーダーは頭の中にそうメッセージを残して行った。

 2番目の時間とは、昼休みのことだ。

 何故もっと時間の余裕のある放課後を選ばないのか? ただ単に準備が整ったからさっさとやってしまおうというのか?

 いや、昼休みがいい理由があるのだ、と大翔は思った。

 それはきっと、こちらの世界の人間にとってはひどくはた迷惑なことだろう。



 1時間目の授業が終わると、大翔は大畑愛夫を廊下に呼び出した。

 授業で自分のクレバーさをまるで隠そうとしない大翔は、このところクラスで異様な存在として気味悪がられるようになっていた。

 大畑もあまり気持ちのいい顔をしなかったが、逃げるのも彼のまっすぐな男気が許さず、静かに闘志を燃やしながら大翔について廊下に出た。

 あの日図書館に行ったのが運の尽きで、あれ以来恋人の貴代美はおかしくなって、自分と疎遠になってしまって、今は切れたようだがこの国生といい仲になっていたようだ。

 恋人を奪われた恨みが鬱積して好男子台無しの大畑に対し、大翔はクールに薄笑いを浮かべていた。数週間前まで常に暗くうつむき、卑屈な湿り気がじくじくにじみ出していたような男子とはとうてい思えない堂々とした立ち姿だ。大畑は底知れない不気味さを感じて背筋がぞっとした。

「おまえには小学校の頃から一度も勝てたことがなかったな。憎ったらしい奴だったが、おまえは俺に対してもずうっといい奴だったからな、まったく、腹立たしいったらないぜ」

 大翔はニヒルに笑ったが、それはかつての卑屈な笑いではなく、完全に優位に立った者の同情心から来る笑いだった。大畑はいぶかしんで大翔の表情を覗き込んだ。

「おまえ、突然どうしたんだ? まさか、悪いクスリなんかやってるんじゃないだろうな?」

 その豹変ぶりはそうとしか思えず、大畑は心配そうな顔をした。

「やめろよ。ったく、腹立つなあ」

 大翔は本心から嫌な顔をした。クスリ、とは、まあ、似たような物かもしれないと思ったのだ。

「ナイスガイのおまえに、一つ俺からプレゼントだ。ま、長年の変わらぬ友情に感謝して、ってやつだ。ありがたく聞けよ? 昼休み、郷古を連れ出して、絶対に図書館に来させるな。いいな、絶対だぞ? 学校の外に連れ出せ。昼休みが終わるまで絶対に学校に戻るな。抵抗するだろうが有無を言わさず連れて行くんだ。好きなんだろう、郷古が? だったら俺の言うことを聞け。おまえも郷古と一緒にいて、絶対に、何があっても、学校に戻るな。いいな? 絶対だぞ?」

 執拗に、絶対、戻るな、を繰り返す大翔に大畑は不審を抱いたが、大翔はそれを押し切る迫力で大畑を睨みつけた。大畑は思わずつばを飲み込み、かすれた声で訊いた。

「昼休みに何が起こるって言うんだ? まさか……」

 大畑は今度は危ない宗教団体のテロを想像した。何故地方の普通の高校が標的にされなければならないのかさっぱり分からなかったが、それはこの国生が手引きしたからなのだろうと、疑念と怒りで強く睨み返した。大翔はニヤッと笑った。

「止められないぜ? 騒げば、おまえが馬鹿を見て、破滅するだけだ。英雄になろうなんて思うな。おまえは、将来の大きな夢があるんだろう? それを大事にしろ」

 大翔は、ポン、と大畑の肩を叩いた。

「じゃあな。将来の首相夫人によろしく」

 振り返り、教室に戻って行く後ろ姿を、大畑はエイリアンでも見るみたいに見送った。


 次の授業が始まり、大翔は教師の話を聞く脳とは別のところで考えていた。

 大畑にあの話をするのは賭けだった。あいつの性格なら危険を感じれば自分のことなど考えずにみんなに警告を発するだろう。しかし、間に貴代美が入ればどうか? あいつはかなり貴代美に惚れている。貴代美も自分と同じように変になっていて、奴の考えるところの「怪しい宗教団体」に彼女も関わっているのではと疑うだろう。とすると、奴のまっすぐな正義感は惚れた女を悪の仲間から救い出す方に傾くのではないか? という賭けだったわけで、今頃奴も大いに逡巡しているだろうが、ま、結局は俺の思惑通りに動いてくれることだろう。

 大畑にあえて話したのは、間接的に貴代美に警告する意味が強かった。あいつの狙いは魔力の美味しいところをいただくことだ。はっきり危険だと分かれば、そこで手を引くだろう。あの高慢ちきな女を手放すのは惜しい気もするが、大いなる喜びの前のささやかな犠牲だ、ここはこらえてあきらめよう。

 さて、もう一人、あいつはどうしてやろうか?

 大翔はカタストロフィー(終局点)前のもう一仕事について考えた。

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