16、本の中身
金曜。
昼休みになり、早弁で昼を済ませていた大翔は図書館へ向かうべく教室を出た。
図書館前の渡り廊下へ出ると、珠桜が待ち構えていた。教室から走ってきたようで、はあはあ息をついて胸を上下させていた。
「やあ、久しぶり。元気だった?」
自分を裏切って逃げた彼女が小憎らしくはあったが、更にレベルが上の貴代美とラブラブの大翔は寛大な心で優しく話しかけた。
はあ、はあ、と息をつき、つばを飲み込むと、珠桜は真剣な顔で言った。
「お話ししたいことがあります。すごく大事なこと……だと思います。ちょっと、付き合ってくれませんか?」
「図書館じゃ駄目なの?」
大翔は彼女が図書館を避けているのを知りながらわざと意地悪して訊いた。
「図書館は、駄目なんです……」
「そう。分かった。じゃあ、他の当番の人に断ってくるから、ちょっと待ってて」
「お待たせ」
しばらくして戻ってくると珠桜はもう息を整えていたが、貧血を起こしそうに青い顔をして、よほど緊張しているらしい。
(俺のことを邪悪な魔王か、スケコマシの催眠術師とでも思っているのか?)
えらく嫌われたものだなと、大翔は内心苦笑した。
「じゃあ、こっちで」
渡り廊下の反対の端の、梅貝と話した中庭を見下ろす窓のところへ連れて行った。まだ昼休みの早い時間で人通りもあってどうかと思ったが、珠桜はかえって安心のようだった。何をされると思っているのか、ますます嫌われたものだ。
「それで? すごく大事なことって?」
珠桜はしっかり大翔を見つめると、勇気を振り絞るように言った。
「あの本のことです、国生先輩がいつも読んでいた」
「ああ、ダンテの神曲。あの本が何か?」
珠桜はビクッと震えた。
(何だ、この反応は?)
大翔の中に少し不安が生まれたが、まだ平静を装う余裕は十分あった。だが。
「あれを見て、おかしいと思わないんですか?」
大翔の頭は一気に混乱した。
どういうことだ?
珠桜には本は黒く見えていないはずだ。黒く見えていたのなら、自分の目こそおかしんじゃないかと疑うはずだ。
それとも、自分の行動に何かおかしなところがあっただろうか? それと知らずに同じところを何度も読み返していたような。何しろこっちには真っ黒にしか見えないのだから。
大翔は今一度そらっとぼけて訊いた。
「おかしい? さあ、気がつかなかったなあ。何かおかしなところがあったかな?」
ごまかしのきくように出来るだけぼかした言い方をした。だが、不審な目で大翔を見ていた珠桜は、それではっきりと絶望的な確証を得たようだった。
大翔の混乱はピークに達し、思わず目が三角に引きつった。
俺がいったいどんなへまをしでかしたと言うんだ?
どっとこめかみに脂汗が噴き出した。
珠桜は泣きそうに顔を歪め、後ずさった。大翔は自分はきっとすごく怖い顔をしているんだろうと思ったが、それを取り繕う余裕もすっかりなくなっていた。
珠桜をどうにかしなくてはという考えは回らず、ひたすら自分の失敗がなんなのか考えた。
「なあ、教えてくれないか。あの本のどこがおかしいと…………」
はっと、
(まさか!……)
と思いついた。
珠桜の怯え切った様子に、その考えは当たっていると思った。
大翔は見開いた目を血走らせ、いつしか鬼のような恐ろしい顔で珠桜を凝視していた。
ますます怯えて後ずさった珠桜が、はっと、大翔の後方へ目をやり、また驚き、怯え、大翔に目を戻すと訴えるように言った。
「郷古先輩も……」
慌てて頭を下げ、逃げるように駆けて行った。
大翔は珠桜の後ろ姿が向こうの校舎の階段へ曲がって行くのを見送って、振り返った。
貴代美が立っていた。
「珠桜ちゃんじゃない。なあに、まさか今更よりを戻そうって迫っていたんじゃないでしょうね?」
貴代美は大翔をなじるように睨んで笑ったが、大翔にはその笑いがひどく悪魔的に思えた。大翔もまた、悪魔のような顔で貴代美を見ていた。
昼休み終了の予鈴が鳴り、大翔は施錠のため鍵を預かり最後まで図書館に残った。
皆が出るのを待って、奥へ駆け戻り、黒い本を持って来た。
図書館から学習室へ出ると、黒い本はダンテの「神曲」に変化した。
表紙をめくった大翔は、驚愕し、本を持つ手が激しく震えた。
「間抜けが。ようやく気付いたか?」
ぎくっと目を上げると、学習室の入り口から梅貝がニヤニヤして眺めていた。大翔は凶悪な目で睨んで言った。
「先輩。知っていたんですか?」
「ああ。俺はしばらく黒い本が見えなくなっていたからな。普通に、その本を見たよ」
くっと忌々しそうに大翔は歯を噛み締めた。
「神曲」は、表紙をめくり、表紙の厚紙と本体をつなげる薄茶色の見返しをめくり、タイトルの書いてある扉をめくると、そこから数ページが落丁し、いきなり本編が途中から始まっている。いや、落丁ではなく、数ページが破り取られていたのだ。根元からきれいに破り取られているが、それでも元のページがわずかにギザギザに端を覗かせている。更に決定的なのが。
扉の裏の白紙に、どう見ても見落としようのない、赤いインクで文章が書かれていた。
「じゃあな、お間抜け君。授業、さぼんなよ?」
梅貝が嫌らしく手を振って去って行った。
大翔は激しい怒りに大声でわめきたくなるのを必死に押さえた。
鼻の上に出来たしわをひくひくさせながら赤い文字を観察した。
その文字には、見覚えがあった。
放課後。
大翔は授業が終わると、友人とおしゃべりする貴代美を半ば強引に図書館に連れ出した。途中の廊下も貴代美の問いに答えず、腕を掴んで引っ張って行った。
「何? なんなのよっ!?」
お嬢様の貴代美は大翔の乱暴な「オレのカノジョ」的扱いに憤慨し、図書館の入り口前に来ると大翔の手を振り払って睨んだ。
「じゃあここで待っててくれよ」
大翔は預かっていた鍵で錠を開け、引き戸を開いた。貴代美を残して奥へ行き、黒い本を胸の前に掲げて来た。
本を見た貴代美は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに『それが何か?』という不機嫌な顔に戻って大翔を睨んだ。
大翔はまっすぐ進み、敷居を越え、学習室へ出た。
貴代美の目が驚きに丸くなり、唇が開いた。震える手をその唇に当てようとする。
大翔はその驚きを冷たい目で見ていた。
「やっぱりそうなのか」
「やっぱりって、なんのことかしら?」
貴代美はこの期に及んで取り繕おうとしたが、狼狽ぶりは明らかだった。大翔は更にだめ押しした。
「おまえも珠桜といっしょに本を見たんだろう? だったら、この本のおかしいところを知っているはずだ。言ってみろよ?」
「はあ? 知らないわよ。わたし、ひとの読んでいる本を覗き見るような趣味ないわよ」
「そうかよ」
大翔は表紙を開き、一緒に半分浮き上がった見返しと、扉を、開いた。
貴代美の目がまなじりが切れそうに見開き、殺気に似た熱を帯びた。
大翔はニヒルに笑った。まるで自分の驚きの再現を見ているように思ったのだ。
扉の裏には、おそらくは赤い水性ペンで、所々滲みと引っかかりを作りながら、ページ全面に大きな字でこう書かれていた。
この本に異常な興味を示す人がいたら
気をつけて。
その人は悪魔に魅入られて、
この学校に大きな惨劇をもたらすだろう。
その人が悪魔に魅入られた証拠に、
その人にはこの文字が見えない。




