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14、任命


 本を開くと解放された光が溢れ、空間を真っ赤に染め上げた。その眩しさに思わず目を閉じ、薄目を開けると、そこには大きな黒い影が立っていた。

 すぐ間近に自分を見下ろすようにぬっと立った影に大翔もぎょっと驚いて思わず後ずさった。

 そいつは以前図書館の入り口から抜け出てきたのと同じ奴だった……少なくとも見た目では同じだった。身長2メートル、頭からすっぽり黒いマントをかぶり、輪郭だけで、中身の凹凸は判然としない。黒い霧が集まったような感じで、肉体的な存在感には乏しい。ただし、異様な迫力があり、ただの幻でないのは、沼地のような湿った泥の臭いが濃厚なのではっきり感じられた。

 何物か分からない影を大翔は殺気走った目で睨んだ。

 はっと気付くと、影は1つではなかった。影の後ろにもう1つ、梅貝の怯えた様子に振り向くと、向こうに2つ、3つと現れて、こちらを見ている様子だ。

 大翔は再び目の前の奴を睨むと言った。

「おまえたちの目的はなんだ? 俺たちに何をさせたい?」

 後から現れた奴らがそれぞれ失神している永井と前田を覗き込み、どうやらこの中ではリーダー格らしい最初の奴に何やら報告するような仕草を見せた。彼らが音声を伴わないテレパシーのような物で会話しているのか、それとも単に音まではこちらに伝わってこないのか、判断はつかなかった。リーダーがうなずいたように見え、大翔は影の中で2つの目玉がしっかり自分を見るのを感じた。

 マントの下から太い3本指の手が伸びてきて、それは蛸の足のようににゅうっと伸びて大翔の右手を掴み、すると、ぎゅうっと、濡れたスポンジのような感触が掴まれた腕の内部、骨にまで滲みいってきて、腕の力を吸い取ると共に、みしりと、肉が挽きちぎられ、骨が粉々に砕かれるような痛みがさした。大翔は総毛立つ戦慄を感じながら歯を食いしばって痛みに耐え、右手は掴まれた前腕中程から先が黒く染まり、ぎゅうっと締め付けられる痛みに自然と手が開くと、人差し指が先から皮を剥くようにひどい痛みとともに赤くなっていった。

「うぎゃああっ」

 大翔はとうとうたまらずに大声で悲鳴を上げた。

 影は手を放したが、大翔の人差し指はろうそくの芯が燃えるように煙まで噴いていた。

 影は3本指の1本を立てて、大翔の焼けただれる人差し指を指し、それを、気がつけば赤い世界に図書館の本棚が現れ、そこに並ぶ本の背表紙を指し、指先を押し付けるような仕草をした。そしてその指が、床に失神する永井と前田を指し、そして、いつの間にか反対の手に持っていた黒い本を指し、黒い本を大翔に寄越した。大翔は本を受け取り、

「つまり、俺の指がこの黒い本のコピーを作って、こいつらみたいに黒い本が見えない連中からも血を吸い取ることが出来る、ってことか?」

 影がうなずいたように見えた。

 影たちが薄くなっていき、赤い世界も薄くなっていき、ふうっと意識が吸い取られるような感じに慌てて足を踏ん張ると、元の図書館に戻っていた。

 大翔は左手に黒い本を持ち、右手を目の前に掲げてみた。手は黒くなっていないし、人差し指も赤くなっていないが、ズキン、ズキン、と脈打つような鈍痛がした。

「なっ、なんだよ、今の!?」

 梅貝がわめいた。

「あんな化け物が出てくるなんて、俺は知らなかったぞ!」

 すっかり取り乱している様子を大翔は冷たい侮蔑の目で見た。その目に梅貝は真っ赤になって怒った。

「なんだよ、おまえは知ってたのかよ!?」

「いえ。でも、驚くことでもないでしょう?」

 やはり以前夢うつつの内に見たのは単なる幻ではなかったかと思った。予想していたわけではないが、いずれは出てくるのではないかと待ち受ける思いはあった。

 しかし梅貝には我を忘れるほどのショックだったようだ。平気な様子の大翔まで化け物のように怯えた目で見た。

「おまえ、なんで落ち着いてられんだよ? あいつらにすっかり洗脳されちまったのか? お、俺が考えていたのは、た、ただの本だぞ? 本ってのは、知識が書いてあって……、持ち主に力を与える、それだけの物じゃなかったのかよ?」

 大翔はせせら笑った。

「この本に限って」

 黒い本を掲げ微笑みかけるようにし、

「そんな常識、今さらチャンチャラ可笑しいですよ」

 すっかり青ざめた梅貝をギロリと睨んだ。

「どうします、先輩? もう降りますか?」


(図体だけの小男が)


 大翔の目にはっきりした侮蔑を見ながら、梅貝は怒りよりも恐れを感じ、うつむくとつぶやくように言った。

「ああ、やめてやるよ、こんな物。冗談じゃねえぜ」

 もうこれっきりだ、と言うように背中を向け、そのまま立ち去ろうとした。

「ああ、ちょっと待ってくださいよ」

 大翔は床に伸びている永井と前田の太ももを乱暴に蹴った。

「起きてくださいよ、先輩。邪魔なんですよ」

 永井と前田はぼうっとした顔で目を開き、よろめき、書架に手をつきながら立ち上がった。生気がなく、まるで表情を漂白されてしまったみたいだ。

「もう用はないでしょう? どうぞ、お帰りください」

 二人はぼうっとしたまま出口を向き、歩き出した。隣の書架の間に引っ込んで二人を見送って、梅貝は改めて大翔を怯えた目で見た。

「ああ、すみません。もう帰っていいですよ。あの二人が迷子にならないように連れて行ってあげてください」

 じゃあ、とちりを払うように手を振られ、ムッとしながら梅貝は歩き出した。ふと何か思いつくと、仕返しとばかり陰険な笑いを浮かべた顔を向けて言った。

「やっぱりあれは本当だったんだな。おまえ……、まあ、せいぜい滅びないように気をつけるんだな」

「滅びる?」

 大翔は大仰な言葉に眉をひそめ、単なる悔し紛れの嫌みだろうと思ったが、梅貝の顔は変に確信めいていて、ちらっと不安に心を揺らされた。

「それはどういう意味ですか?」

「あれー? 分かんないのかなあー?」

 梅貝はすっかり調子に乗ってふざけ、はったりではなく本当に自信があるように大翔をあざけった。

「おまえ、間抜けだよ。頭が良くなったとうぬぼれてるんだろうけどな、大馬鹿だよ」

「どういうことです?」

「教えてやらねえ。気付いたときに思い切り後悔しやがれ」

 梅貝は思い切り嫌な笑いを残して去っていった。


(なんだ、あの自信は? あいつが俺の気付かない何を知っていると言うんだ?)


 大翔は腹立たしい不安を感じながら黒い本を見つめた。



 放課後。

 大翔は枝文司書と、取りあえず連絡のついた図書委員に図書館に集まってもらって、臨時の委員会を開いてもらい、1つ提案した。

「図書館の蔵書のことなんですが、もっと生徒に利用してもらえる本を増やしてはどうでしょうか? 例えば、若者に人気のラノベとか」

「ラノベ? ライトノベルのことね?」

 枝文司書は嫌な顔をしたが大翔は構わず、委員たちに話を向けた。

「みんなはどう? みんなは読書好きじゃないかと思うんだけど、日頃どんな本を読んでる? 図書館の本って、読む?」

「そうだなあ……」

 委員たちは枝文司書に遠慮しつつ、いたずらっぽい顔で答えた。

「やっぱりミステリーとか、ファンタジーとか……」

「ラノベとか、かな?」

 渋い顔をする枝文司書を横目に女子たちはクスクス笑った。

 臨時の委員会なので図書館には一般利用客たちもいる。委員会の様子を気にしつつ一般小説の棚を見ている1年女子に、

「ねえ、どうです?」

 と大翔がフレンドリーな微笑みで意見を求めると、彼女は、

「いいと思いまーす」

 とはにかんだ笑みで答えた。せっかく読書でもしてみようかと来たのに、きっとろくな本がなかったのだろう。

「でもねえ」

 枝文司書は面白くないように言った。

「がっかりさせて悪いけど、新しい図書を買える予算は限られているのよ。今期の購入計画はもう学校に提出済みだし……」

 どうせ生徒に不人気な本ばかりの購入計画だろう枝文司書は、自分のセレクトにケチを付けられたようにいじけた顔になった。

「生徒に寄付してもらったらどうでしょう?」

 大翔の提案に委員たちは興味深そうに目を向けた。

「一度読んでしまった本はそうそう読み返したりしないだろう? リサイクルショップに売る人もいるだろうけれど、どうせたいした額にもならないだろう? 呼びかければ、寄付してくれる人はけっこういると思うけれど?」

 そうかもね、という賛同意見が上がった。大翔は笑顔で続けた。

「書店で見かけるよね、手書きの推薦文。寄付してもらう人にはお勧めポイントをカードに書いてもらって貼り付ける、っていうのも面白くないかな?」

 また、あ、それ面白い、という声が上がった。委員たちもすっかり盛り上がってやる気になっているようだ。

「そうねえ……」

 一人面白くない枝文司書は何か反論のネタはないかと探したが、あきらめた。

「わたしはライトノベルってよく分からないから、あなた方が自主的にやるって言うなら、いいんじゃないかしら?」

 司書の許可が下りて、

 やろう、やろう。

 じゃあ、月曜日に、放送部にお昼の放送頼もうか?

 と、委員たちは盛り上がった。

 大翔はその様子を満足そうに眺めた。


 委員会がお開きになり、大翔は黒い本を持って貴代美の向かいの席に座った。

「ずいぶん積極的ね? 何かに目覚めちゃったのかしら?」

「まあね。万里の後任だからな。あいつの為にも図書館を盛り上げてやらなきゃな」

「ふうん。何か彼女に責任感じてる?」

「責任?」

 大翔は眉を寄せて貴代美を見た。貴代美は珍しく慌てた様子で目を伏せた。

「ううん、別に。気にしないで。いいんじゃない、積極的で」

 貴代美は心なし頬を染め、一生懸命目を動かして本を読んだ。大翔は軽く微笑み、彼女はどうしようか、考えた。珠桜に未練もあるが、苦手だった高嶺の花を自分の物に出来れば、それはなかなか素敵な気分だろう。

 貴代美が図書館に通い続ける限り、いずれはそうなるだろう。彼女が図書館に通い続けていること自体が、もう術中にはまっている証拠だ。

 この指で彼女の読んでいる本に触れたらどうなるだろう?

 貴代美が自分のTOEIC本を持参しているのがネックだが、「ちょっと見せて」と頼めば、今の彼女なら素直に貸してくれるだろう。

 まあ、今はやめておこう。

 来週、集まった本でテストしてからでいいさ。

 大翔は黒いページを開き、すっかり慣れた手つきで続きを読み出した。

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